with Planetは、地球上の様々な課題の「いま」を伝え、「これから」を考えます。その現場を取材し、私たちとともに考える4人のジャーナリストが、これまでどんな道を歩み、なぜ今ここにいるのか、自らの言葉で語ります。

初めて陸路で国境を越えたのは30年前の秋だった。

大学2年だった私は1992年9月、中国新疆ウイグル自治区とパキスタンを結ぶ標高5000メートル近いクンジュラブ峠を自転車で駆け下りていた。タクラマカン砂漠からパミール高原を経てパキスタンに通じる「カラコルム・ハイウェー」の最高地点で、すでに一面の雪景色だった。

横浜から1人で船に乗って上海へ、そしていにしえのシルクロードをたどってアテネへと、ユーラシア大陸を横断する計画の中間点だった。だが、中国最西部の国境近くの街に着いたとき、パキスタン側で大規模な土砂崩れが起きて通行止めになっていることが分かった。「翌春まで国境越えは絶望的」とも言われ、帰国できなくなって殺気立った出稼ぎのパキスタン人と、私のようなあきらめの悪いバックパッカーが連日集まっていたところに、「歩いて峠を越えた」という猛者が現れた。

落石が相次いで土煙が上がる土砂崩れ現場=1992年9月25日、筆者撮影

スコットランド人のバックパッカーであるその男性は、道中150メートルほどの危険地帯があるが、土砂崩れは収まったこと。近くの放置されたバスで夜を明かせること。中国側からはずっと下り坂なことなどを教えてくれた。この即席のブリーフィングを受けた私たちは色めき立った。

「それならチャリンコで行けるぞ」と。

私を含めた日本人6人と欧米系の数人がそれぞれ自転車隊を結成し、香港系の数人はウシ科のヤクに荷物を載せて歩く計画を立てた。自転車2隊とヤク隊に分かれて国境に向かった。

中国・パキスタン国境のクンジュラブ峠を出発するチャリンコ日本隊。一番手前右が筆者=1992年9月24日、筆者提供

ミニバスに新品自転車6台を積んで峠まで行き、「世界の屋根」からさっそうと駆け下りたーーのは最初だけだった。すぐにパンクして、ペダルが壊れ、泥よけががたつき、ブレーキが利かなくなった。新車を慣らし運転もせずにいきなり被災直後の峠に持ち込んだのは、若気の至りとしか言いようがない。だましだまし走って半日後、その日の宿に着いた。

先に着いていた人たちは青ざめていた。この日、危険地帯で再び落石が激しくなって死傷者が出たというのだ。

翌朝現場に着くと、数十メートルの高さの崖からひっきりなしに巨大な岩が転げ落ち、もうもうと土煙が上がっていた。その脇は冷たい雪解け水の急流が滝になっており、対岸にも険しい崖がそびえる。がくぜんとした。思えば中国側に戻ろうにも、再入国するためのビザがないのだ。行くことも戻ることもできず、しばらくぼうぜんと対岸を眺めていた。

すると突然、斜面をどどどっと転げ落ちるように動く人影が見えた。大木も2本滑り落ちてきた。地元住民約20人が橋を架けに来たのだ。

巨木とともに対岸の急斜面を駆け下りてきた地元住民ら=1992年9月25日、筆者撮影

川面に石を投げ、手際よく急流に木材を渡して固定していく。見事なチームワークで、4時間ほどで橋が出来上がった。キツネにつままれたような思いだった。

雪解けの急流に架けられた仮設の橋=1992年9月25日、筆者撮影

翌日、村人たちに「荷物運び料」をしっかり徴収されたものの、仮設の橋を渡り、急斜面をよじ登り、何キロか歩き、バスを乗り継いで何とか人里にたどりつくことができた。

7000メートル級の雄大な山々と、紅葉した渓谷に広がる段々畑。ダボダボの民族衣装を着た村人たちはすれ違うと会釈を返してくれた。映画「風の谷のナウシカ」(宮崎駿監督)のような光景で、桃源郷という言葉がぴったりの町だった。国境の向こうは、行き交う人たちの顔つきや食べ物、話す言葉や流通する紙幣も違う別世界だった。

そしてパキスタンからイラン、トルコを経てギリシャへ。国境を越えるたびに、新たな世界が広がっていく。

カメラを向けると腕組みをしてポーズを決める子どもたち=1992年9月27日、パキスタン北東部ガルミット、筆者撮影

国境の向こうに何があるのか。どうやったら越えられるのか。島国・日本で生まれ育った私はこの時以来、陸の国境越えにすっかり魅了された。

ベルリンの壁が崩壊(1989年)して冷戦が瞬く間に終結し、欧州連合(EU)が発足(1993年)、世界貿易機関(WTO)が誕生(1995年)して、ヒト・モノ・カネ・情報が国境を軽々と越えるグローバル化が幕を開けた時代だった。どんどん強くなる日本円と、ビザなしで入国できる国数で「世界最強」と称される日本のパスポートを手に、西アフリカや中南米、インド亜大陸へと、垣根が下がった陸の国境を渡り歩いた。

グローバルな動きに関わりたいという思いを抱え、大学卒業後は商社に就職して5年半、政府の途上国援助(ODA)や日本企業の海外進出に携わった。その後、朝日新聞社に転職してワシントンやドバイで特派員をした。取材の約束や締め切りにせき立てられる日々で、出張は常に慌ただしく、休暇は短い。空路で直行直帰する移動ばかりで、陸路の国境とじっくり向き合えたのは2017年、日曜版GLOBEの編集部に異動してからだった。

国境を越える電力網や感染症のルートを長期出張でたどる企画を担当した後、そのままずばり「国境」という企画案を出した。編集長の采配で「壁」というテーマに衣替えして採用されて、アメリカ大陸を舞台に、国境を越える移民・難民の足取りを追う取材に没頭した。

大統領だったトランプ氏が「壁をつくる」と叫んだアメリカとメキシコの国境約3200キロを走破し、移民が飛び乗る「野獣」という名の貨物列車のルートをたどって中米に向かった。移民集団キャラバンに同行し、そのルートの源流にある「ダリエンギャップ」と呼ばれる南北アメリカ大陸を分断する密林に踏み込んだ。

幼い子どもを連れて母国を逃れた人たちの言葉には、貧富の格差や社会の分断、治安悪化など、四半世紀にわたるグローバル化のゆがみが凝縮されて投影されていた。そして誰もが命懸けだった。

人はどこから来て、どこに向かうのか。そしてなぜ命を懸けてまで国境を越えるのか。

私は管理職になって現場を離れたのを機に2020年3月、新聞社を退職し、国境を越える「クロスボーダー」の奔流を追うことを決めた。まずは中東、アフリカ、ユーラシアから欧州大陸を目指す人の流れに迫るため、新型コロナの間隙(かんげき)を縫って2021年夏にオランダに生活拠点を移した。

年が明けてすぐにロシアによるウクライナ侵攻が始まり、ウクライナを起点とするヒト・モノ・カネ・情報の未曽有の奔流が生まれた。私はオランダからドイツ、ポーランドを経て、あるいはモルドバから国境を越えて、難民が逃れるルートをさかのぼり、支援金や物資を追ってウクライナへ。そしてウクライナからアフリカに向かう小麦船を追ってトルコへ。バックパックを背負い、夜行バスと列車を乗り継ぎ、安宿を渡り歩いた。

何のことはない。私は30年の時を経て結局、原点に戻っていたのだ。そしてそれは、私自身の歩みと重なるグローバル化を見つめ直す旅でもある。

さて、次はどの国境を越えよう。

追伸 クンジュラブ峠のチャリンコ日本隊のみなさん、私はいまも国境を越えています。この文章を読んだらぜひご連絡ください!

〈むらやま・ゆうすけ〉

1971年、東京都生まれ。立教大学法学部卒。1995年、三菱商事株式会社入社。2001年朝日新聞社入社。2009年からワシントン特派員としてアメリカ政権の外交・安全保障、2012年からドバイ支局長として中東情勢を取材し、国内では経済産業省や外務省、首相官邸など政権取材を主に担当した。GLOBE編集部員、東京本社経済部次長(国際経済担当デスク)などを経て2020年3月に退社してフリージャーナリストに。2021年からオランダ・ハーグ在住。
国境を越えるヒト・モノ・カネ・情報の動きを追う「クロスボーダー」をテーマに、ウクライナなどでの戦争や紛争、移民や難民、食料危機やエネルギー、気候変動などグローバルな課題を取材し、マスメディアや自らのYoutubeチャンネル「クロスボーダーリポート」で発信している。
アメリカ大陸を舞台に移民・難民を追った取材で2018年にATP賞テレビグランプリ・ドキュメンタリー部門奨励賞、2019年にボーン・上田記念国際記者賞、2021年にノンフィクション書籍「エクソダス アメリカ国境の狂気と祈り」(新潮社)で第43回講談社本田靖春ノンフィクション賞を受賞した。

焼け焦げた戦車や軍用車両で埋め尽くされた通りで取材する筆者=2022年4月5日、ウクライナ北部ブチャ、筆者提供