「伝統医療」のいま 現代医療の代替にとどまらない価値とは?
世界には、近代的な医療サービスへのアクセスが難しい人々がいます。その代替にとどまらない伝統医療の価値と現状を、カンボジア在住の高田忠典さんが解説します。

世界には、近代的な医療サービスへのアクセスが難しい人々がいます。その代替にとどまらない伝統医療の価値と現状を、カンボジア在住の高田忠典さんが解説します。
いま、伝統医療を見直す動きが広がっています。近代的な医療サービスへのアクセスが難しい人々のための代替医療としてだけではなく、人々の英知により熟成された人類共通としての価値がある、とされています。伝統医療の現状について、カンボジアやブータンなどアジア各地の伝統医療に詳しい高田忠典さんがつづります。
国民医療サービスとして、日本では当たり前に受診できる近代西洋医学ですが、世界規模でその恩恵にあずかっている人口の割合は、先進工業国を中心とするわずか20〜35%といわれています。
世界の人々の保健や健康管理に関する業務の65〜80%は、現地の伝統医療や民間療法を中心とした、「相補・代替医療(CAM / Complementary and Alternative Medicine)」に依存しているという世界保健機関(WHO)の報告もあり、多くの国々では、伝統医療を含むCAMが近代西洋医療システムと併用もしくは代替されることで、国民の健康が維持されていると考えられます。
日本でも、漢方薬や鍼灸(しんきゅう)といった日本独自の漢方医学を利用されているという方も多いかと思いますが、東南アジア諸国では、日本よりも伝統医療がはるかに幅広く認知され、盛んに利用されています。
医療サービスへのアクセスの不均衡を是正する方策として、長い歴史の中で人々の知恵と技術によって熟成された伝統医療を、プライマリーヘルスケアに積極的に活用しようという動きは、1970年代後半に始まりました。その動きは、WHOや東南アジア諸国連合(ASEAN)などでも活発となり、アジア各国の保健省で、伝統医療専門の部署の設置、独自の伝統医学知識や経験の体系化、学術・産業の保護・人材育成などが取り組まれました。伝統医療の活用政策は、国家戦略として進められてきたのです。
近年、伝統医療の科学的検証が進むにつれ、費用対効果が裏付けされる医療政策への貢献、天然資源の有効活用と保護、文化復興など多様な分野において、その社会的効用が注目され始めました。また、伝統医療が「医療」の枠を超え、経済、政治、法律、文化といった広範囲の分野に影響を及ぼしていることも指摘されています。少数民族のアイデンティティー、生物遺伝資源、知的財産など、伝統医療は国境を超え、人類共通の財産として見直される多様な要素を含んでいるからです。
伝統医療が持つ可能性のうち、特筆すべきは産業に与える影響です。例えばマレーシアでは、伝統医療に関するサービスに年間約5億米ドルが消費されている、との試算があり、タイやインドネシアでも、伝統医療は一大産業となっています。
ASEAN事務局では、2009年から5年間、日本の公益財団法人・日本財団の支援で「ASEAN伝統医療会議」を開催し、加盟10カ国の間で伝統医療政策に関わる情報共有や、国際社会に対応するための標準化の作業が進められました。この背景には熱帯地方特有の豊富な天然資源を活用した地場産業の活性化や雇用創出など、伝統医療が地域経済に与える影響を見据えた経済戦略があります。
しかし、東南アジア各国間で、伝統医療の推進状況には格差があります。私が暮らすカンボジアでは、各国が伝統医療開発に着手した時期にはまだ内戦の影響で国内は混乱していました。そのため、カンボジアの伝統医療開発に着手できず、独自の伝統医療の経験と豊かな天然資源があるにもかかわらず、近隣諸国に比べて大きく後退してしまいました。
私がカンボジアの伝統医療に携わったのは、ASEAN事務局と日本財団と包括的業務協定(2008~2013)に基づく伝統医療活用事業がきっかけでした。この事業で実施されたカンボジア政府保健省主催の「伝統医療師研修プログラム(2009~2013)」に参加したのです。
カンボジアの伝統医療は、主に三つの医療体系から成っています。最も国民に広く活用されているのが、アーユルベーダを起源とし、クメール王国の時代から伝承されてきた「クメール伝統医学」です。そのほかに、中華系の人々を中心に行われている「中国伝統医学」、ベトナム系住民の間で行われている「ベトナム伝統医学」があります。
中国伝統医学は、主に国内で生活する華人の間で行われており、民間病院や、中国から輸入された中国伝統薬を取り扱う店舗があります。ベトナム伝統医療は、フランス統治時代に入植したベトナム人労働者によってもたらされたと考えられますが、取り扱う薬についてはクメール伝統医学と識別することが難しいほど似ています。また、コインなどの金属片をヘラに使う「コックチョール(Koas Kjol)」と呼ばれる刮痧(かっさ)療法や、「チョップクチョール(Chup Kachol)」と呼ばれる吸角(きゅうかく)療法など、中国伝統医療の流れもくんでおり、民間療法として普及しています。
カンボジアの伝統医療の現状を調査するため、さまざまな場所を訪れました。プノンペンにある市場には、生薬の専門店が軒を連ね、都市部でも人々の日常に伝統医療があることが分かります。地方の村々では、伝統薬を使う「クル・クメール」と呼ばれる伝統医療師たちが、医療インフラが整備されていない地域を中心に地域医療を補完している状況が確認できます。薬草など熱帯地方特有の豊かな天然資源を活用する伝統医療が、いかにカンボジアの人々の生活の中に深く根付き、不可欠なものであるかが理解できました。実際に76%以上の国民が伝統医療を利用しているという調査もあります。
9世紀ごろに始まったとされるクメール王朝時代から伝えられてきた伝統医療の知恵が、内戦と混乱による不遇の時代を超え、国民の健康とアイデンティティーを支えてきたのです。
一方、カンボジアの現代医療による公的医療サービスは、医療人材の育成と研究機関の開発が遅れ、今も地方では、十分な保健サービスが行き届いていない状態が続いています。伝統医療においても長い内戦による混乱により、公的に普及させるための体系化が未整理で、さらに、無計画な開発や乱獲による天然資源の減少、未来に向けた伝統文化の継承といった課題も多く、周辺国のような公的医療サービスへの伝統医療導入までの道のりは長いのが現状です。
まずは国内の伝統医療を支えてきた「クル・クメール」が持っている正しい知識を集約することが必要です。そして医薬・食品産業に携わる外国企業や研究機関と、伝統医療開発の経験を共有することや天然資源の保全システムの確立、国内の健康産業の開発などに取り組むことが必要です。
現在、私は日本財団と共にカンボジアの公教育分野の支援、とりわけ「学校保健」の普及活動に従事しています。カンボジアには日本の学校のような保健室はなく、正規の保健の授業も行われていません。私が取り組むプロジェクトでは、東京学芸大学とカンボジア政府教育青年スポーツ省の監修で、中学校に保健室を設置し、身体や心についての知識や環境づくりを進めています。また、医療インフラが乏しく、アクセスが難しい地区を対象に、学校から周辺地域の住民に向けた健康情報の発信も行っています。
保健の授業では、教科書の代わりに、日本の「紙芝居」や「スゴロク」を活用し、生徒や住民に好評です。また、地元の伝統医療師「クル・クメール」の協力を得て、その地域に自生する伝統薬の原料となる有用植物を校庭内に移植し、生徒や住民に紹介する「伝統薬草コーナー」を設けている学校もあります。ハーブティーの原料を学校菜園で育て、日系企業に販売し、保健室の運営資金に充てている学校もあります。
カンボジアで暮らして14年以上になりますが、急速な経済成長と開発の裏側で、伝統的なカンボジアらしさが失われていることを肌で感じます。カンボジアには本来、豊かな天然資源と、仏教に基づいた慈悲の精神、コミュニティーにおける人々の間の連携やサポートシステムが、社会資源として息づいています。彼らの手の内、心の内にあるこれらを見つめ直し、慎重に開発を進めていくべきではないかと思っています。伝統医療は、こうしたカンボジアらしさを内包する文化です。自国の「文化復興」、その価値の再発見が、いつか必ずカンボジアの人々の心の支えとなり、健全な社会開発へとつながるよう、願っています。
〈たかだ・ただのり〉
1972年、長崎市生まれ。治療家(鍼灸師、臨床鍼灸学修士、柔道整復師)。ブータン王立伝統医療病院勤務をへて、2009年から日本財団の助成事業「伝統医療活用プロジェクト」でカンボジアに赴任。2016年からNGO教育支援センターキズナ(ESC-Kizuna)代表理事および現地事務局長。著書に「クル・クメール:カンボジアの伝統医療師と薬用植物」。