弁護士がプラネタリーヘルスに出会った 地球と健康を結ぶ新たな視点
企業法務弁護士としてキャリアを積んだ南谷健太さんは、プラネタリーヘルスという考え方に出会い、企業にも個人にもその深い理解が必要だと考えています。その理由とは?

企業法務弁護士としてキャリアを積んだ南谷健太さんは、プラネタリーヘルスという考え方に出会い、企業にも個人にもその深い理解が必要だと考えています。その理由とは?
私は2023年5月まで、アメリカ・ハーバード大学公衆衛生大学院に留学していました。留学する前、私は企業法務弁護士として約7年間キャリアを積み、主に労働法、ヘルスケア法務、訴訟などの業務を担当していました。メンタルヘルスに問題を抱えた従業員への対応やヘルステックベンチャーへの個人情報保護法・薬機法関連のアドバイスといった様々なヘルスケア案件を経験する中で、ヘルスケアビジネスやその背後にある健康やウェルビーイングに関する問題を深く理解したいと思うようになりました。
そのような中で、「パブリックヘルス(公衆衛生)」の概念に触れる機会がありました。パブリックヘルスとは、「社会、組織、公的・私的、地域社会、個人の組織的努力と情報に基づいた選択を通じて、疾病を予防し、生命を延ばし、健康を促進する科学と技術」を指します。人々の健康の要因や、それに対する脅威を分析して、健康を促進する学問といえます。そして、健康とは、単に病気がないことのみを意味せず、身体的、心理的、社会的な幸福(ウェルビーイング)が達成されている状態を指します。
そのためパブリックヘルスの研究対象は、感染症対策や下水道整備といった、私がこれまで「公衆衛生」という単語から想像していた範囲よりはるかに広く、人々の健康に関連する様々な研究が含まれます。例えば、「人種差別を経験することによって肥満になりやすくなるか」といった研究もパブリックヘルスの対象であり、実際に論文が存在します。
パブリックヘルスの専攻には、エビデンスを得るのに役立つ疫学や生物統計といった自然科学的なものから、それを社会実装するための医療保健政策、医療保健経営といった社会科学的なものまで様々な領域が含まれます。このような特徴から私は、パブリックヘルスは、「健康科学」や「ヘルスケアデータサイエンス」といった訳語を充てた方が、より的確に本質を伝えられるのではないかと感じました。
いずれにしても、パブリックヘルスは我々の生活やビジネスにもとても有用で、学ぶ意義のとても大きいものではないかと感じます。例えば、ヘルスケアスタートアップが企業活動を通して解決すべき社会的課題として挙げている問題や、AI医療機器が開発される契機となったエビデンスなどは、パブリックヘルスの研究成果が基礎となっているものが多くあります。また、日本では健康やウェルビーイングといった単語を聞かない日はないくらい、健康意識が高まっています。摂取栄養素や生活習慣と健康との関連性の研究など、パブリックヘルスはその関心に応える学問といえます。
このような気づきから私は、パブリックヘルスこそ今の日本社会に必要とされている学問であると感じるようになりました。他方で、弁護士やビジネスパーソンを含めた周囲の人々と話をしていると、ほとんどの方がパブリックヘルスという単語すら知りませんでした。パブリックヘルスが今の日本人にとって非常に有用な学問分野であるにも関わらず、その実態をほとんど誰も知らないというギャップをもどかしく感じるようになりました。
そのような中、折しも海外大学院への留学の機会があったことから、自らパブリックヘルスを学び、その概念と有用性を世の中に広めたり、自身の弁護士としての業務に活かしたりしてみたいと思い、ハーバード大学の公衆衛生大学院に留学しました。
公衆衛生大学院では、パブリックヘルスの分野横断的な特性を存分に味わうことができたのですが、特に印象的な概念だったのが、「プラネタリーヘルス」です。
プラネタリーヘルスとは、著名な医学論文雑誌であるLANCETに掲載された論文などによれば、「人類の未来を形作る政治的、経済的、社会的な人的システムと、人類が繁栄できる安全な環境の限界を定める地球の自然システムに対して十分に注意を払うことによって、世界中で実現可能な最高レベルの健康、ウェルビーイング、公平性を達成すること」を指します。そのまま直訳すると「惑星の健康」となりますが、人類全体の健康などの増進を目的として、地球環境の変化が人間の健康に与える影響を研究する分野と捉えるのが適切です。
地球環境の変化には、気候変動だけでなく、生物多様性の喪失、海洋の酸性化、土地利用の変化、森林伐採といった様々な問題が含まれます。なお、似たような概念として「グローバルヘルス」という言葉もありますが、グローバルヘルスが、一国の枠を超えて多国間で共同して感染症対応の枠組みなどを作っていくものであるのに対し、プラネタリーヘルスは地球環境全体の変化が人間の健康にどのような影響を与えるかを研究する分野となるため、両者は分けて考えるのが適切だと考えます。
気候変動を例にとると、近年話題を集めた事柄として、2023年6月にカナダのケベック州で発生した山火事に起因する煙がアメリカ東海岸を広く覆い、ニューヨークなどで大気汚染レベルが急速に悪化した件があります。地球温暖化の影響によって山火事が増加し、山火事の発生は、発生した微粒子による呼吸器系疾患の増加や、住み慣れた我が家が焼けてしまったことによる精神疾患リスクの増加などと相関性があるとされています。
こうしたメカニズム以外にも、気候変動は、熱中症の増加、人獣共通感染症(鳥インフルエンザなど)や媒介動物感染症(マダニ感染症など)の罹患リスクの増大といった様々な健康への影響を生み出すことが分かってきています。
プラネタリーヘルスへの国際的な関心は近年急速に高まっています。世界保健機関(WHO)は、気候変動について「人類が直面する最大の健康上の脅威である」と明言しています。また、上述したLANCETは2017年1月から専門誌の1つとして"The Lancet Planetary Health"の刊行を開始しました。国単位で見ると、オーストラリアやイギリスなど、国家レベルで気候変動と健康に関する戦略を打ち出している国も出始めています。
また、民間レベルでも、"Planetary Health Alliance"や"The Global Climate and Health Alliance"といった非営利組織が精力的に活動を行っています。2023年11月末から12月にかけては第28回国連気候変動枠組条約締結国会議(COP28)が予定されていますが、ホスト国のアラブ首長国連邦(UAE)は、COPとして初めて健康問題を考慮すると明言し、健康をテーマとした日も設けられる予定です。
日本国内でも、プラネタリーヘルスに関する動きは徐々に大きくなってきています。長崎大学は、学部横断的な研究組織であるプラネタリーヘルス学環(学部の枠を超えた分野横断型のプログラム)を立ち上げ、2023年4月21日には、長崎大学のほかに東京大学、広島大学などが共同で「広島プラネタリーヘルス宣言2023」を公表しました。民間団体では、日本医療政策機構がプラネタリーヘルス関連イベントの主催・後援やコンテンツの発信、国際団体とのコラボレーションなどを含む様々な活動を実施しています。
現在の環境問題への取り組みは、ESG(企業の長期的成長に必要とされる環境、社会、ガバナンスの観点に基づく取り組み)投資などのファイナンスに関連したものや、「地球を守ろう」「生物多様性を守ろう」といった抽象的なメッセージを基盤としたものになりがちであり、いずれも市民が環境問題を自分自身の課題として捉えにくい傾向があるように思います。
プラネタリーヘルスは、地球環境と健康という二つの大きなテーマを結びつける新たな視点を提供します。この視点は、私たちが地球環境問題にどのように取り組むべきか、そしてその取り組みがどのように私たちや周囲の人々の健康に影響を与えるかを理解し、自分たちの身近な問題として考えるための重要なツールになるのではないかと考えています。また、客観的なデータに基づいた議論を提供するため、現実的で建設的な議論が期待できます。さらに、環境問題に取り組む側としても、「従業員やステークホルダー、地域住民の健康を守る」といった具体的で説得力のあるメッセージを打ち出しやすくなると思います。
プラネタリーヘルスは、パブリックヘルスの考え方をベースとしています。パブリックヘルスが地域コミュニティーや国家の枠組みで健康を科学することが多いのに対し、プラネタリーヘルスはその枠組みを地球全体に広げて人々の健康を科学するイメージです。「地球全体」とはいえ、その基本は一人ひとりの健康です。そのため、プラネタリーヘルスに興味のある方は、是非パブリックヘルスにも関心を持っていただき、双方の視点から地球と健康との関係性について考えていただきたいと思っています。