サリーの夢は実現したのか 「性と生殖に関する健康」、ラオスの実践
性や生殖に関わるすべてが身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態であることをさす「リプロダクティブ・ヘルス」。朝日新聞の秋山訓子編集委員がラオスで取材しました。

性や生殖に関わるすべてが身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態であることをさす「リプロダクティブ・ヘルス」。朝日新聞の秋山訓子編集委員がラオスで取材しました。
政治や経済を深掘りする朝日新聞デジタルの有料会員向けニュースレター「アナザーノート」で2023年1月1日に配信された記事です。アナザーノートを執筆するのは、政治や経済を専門として現場に精通している編集委員ら。普段は表に出さない話やエピソードを毎週日曜にお届けしています。読みたい方は、こちらから登録できます。
世界が少しずつコロナ前の状態を取り戻しつつある。「人の往来」を抑制する動きが緩和される中、11月に東南アジアの国ラオスへ行った。国連人口基金(UNFPA)の主催するメディアツアーに参加したのだ。リプロダクティブ・ヘルスと家族計画の政策と実践について、病院や学校などラオスの地方を見て回った。
リプロダクティブ・ヘルスとは、性や妊娠・出産など生殖に関わるすべてが、身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態であることをさす。そのための権利は、リプロダクティブ・ライツと言われ、子どもを産むか産まないか、産むならいつ、何人などを自分で決める権利だ。
ラオスはインドシナ半島にある内陸国で、一昨年、隣国・中国からの援助で中国と結ぶ高速鉄道が開通した。街中にも中国語の看板が目立つ。鉄道だけでなく、首都ビエンチャンではやはり中国の援助によって、大きな病院も設立されたという。空港もこの数年で拡張されたが、こちらは日本の援助らしい。
ラオスは2017年時点で、10万人あたりの妊産婦死亡率が185人(世界保健機関調べ)にのぼる。1150人の南スーダンや1140人のチャドに比べればましだが、決して少ないとはいえない。ちなみに日本は5人だ。
そして、若年結婚率が高い。同じく17年の統計で、20~24歳の女性のうち、18歳未満で結婚した人が約40%。15歳未満も7%あまりいる。しかも都市と地方に格差があり、都市部では18歳未満では24%ほどにとどまる一方、地方、特に道路も通っていないような地域では6割を超えるという。
「望まない妊娠や多産で貧困のサイクルにはまりこんでしまう女性たちも多いんです」と、メディアツアーの案内役でラオスのUNFPAで性とリプロダクティブ・ヘルスのプログラムを率いるサリー・サクルクさん(57)は解説してくれた。彼女はビエンチャン出身。でもいろいろな紆余曲折を経て、今またラオスにいる。ツアー中、サリー、と呼んでいたので、ここでもそう書かせてもらう。
サリーは1965年にビエンチャンで生まれた。父は何台もトラックを所有し、木材の運搬業を経営していた。
53年にフランスから独立したラオスはその後、内戦を繰り返した。75年に一党指導体制の社会主義国となる。サリーはこう振り返る。
「独立した国の未来に理想を描いていた父はその結果にものすごくがっかりして」
いろいろと事情もあったのだろう、サリーの一家は難民として親戚が先に渡っていた英国に向かった。78年のことだった。
ラオスで生活していたころ、現地語に加え、地元の学校ではフランスの植民地時代の名残でフランス語が教えられていたので、サリーにとって「英語を身につけるのはそんなに大変じゃなかった」という。高校卒業後、「手に職をつけたかったし、人のお世話をするのが好きだったから」と、専門学校に行って看護師になった。
スイスで1年半働いた。「お給料が高かったし、スキーをしたかったので」と、サリーは笑って話してくれた。その後、英国に戻って大学で生物学を学び、98年に末の妹と共に(彼女は4人きょうだいの長女、他に母には前夫との間に3人の息子がいるそうだ)、ラオスに戻ることを決めた。
なぜ祖国に帰ることにしたのか。サリーはこう言った。
「だって……、私はラオス出身だし、そのころのラオスは全然開発が進んでいなかった。故郷のために何か自分ができることをしたくて。学校をつくりたかった」
そう、サリーには夢があったのだ。
妹と2人で戻ったサリーには、学校を始めるため、土地や建物が必要だった。ただ、「海外から戻ってきた私たちは政府にもすごく警戒された」という。とりあえずフランス系のNGOで働き始めた。そのころサリーはすでに30歳を超えていて、独身だった。
「ラオスでは当時、そういう女性は本当に珍しい。みんなから『何で独身なの?』って言われた」。同じようにNGOで働いていた夫と結婚し、36歳で長男を出産。「私の祖母は13人の子どもを産んだ末に36歳で亡くなり、母は7人目の末っ子を36歳で産んだ。私は初産が36歳だった」。
開発の現場は働きがいがあった。3カ国語を操るサリーだが、国連機関でコンサルタントをすることもあり、修士号を持っていたほうがいいと一念発起し、夫と長男と共に英国に渡り、大学院に進んだ。2005年のことだった。健康と開発について学んだサリーは、再びラオスに戻り、今度は英国のNGOなどを経てUNFPAに転職することになる。
「私は現場で働くのが大好き。でも、NGOだと地域に関わることはできるけど、政策や制度を変えなければ根本的な解決にならない」。こう話すサリーは今、政策提言や制度づくりに力を入れている。
UNFPAが進めるプロジェクトの一つが助産師の育成だ。サリーは「安全なお産や家族計画の指導、実践など、助産師の役割はとても大きいんです」と説明する。
メディアツアーでは、ビエンチャンから3時間ほど高速鉄道に乗った先にある、北部のウドムサイ県に足を運んだ。県立のヘルススクールの助産師育成コースを取材するためだ。15年から助産師育成の3年コースを設け、180人あまりが卒業した。コースは人気で、20人の枠に1千人以上が応募してきたこともあるのだという。
1年生の21人の女性たちの授業を見学した。コンドームの使い方を教えてみせる実習中だった。先生に「やってみて」と言われ、最初は恥ずかしそうにしていた生徒たちも挙手をし、模型を手に次々に実演した。
自ら率先して実演し、他の生徒たちにも手を挙げるよう促していたクラスのリーダー役、サーさんに話を聞いた。22歳。近郊の農家の出身で、寮に住んでバイクで学校に通う。一度助産師コースの試験に落ちて経理の学校に通っていたが、あきらめきれず再挑戦したのだという。
「経験を積んだ専門家になりたい」と目をきらきらさせて話す。なぜ助産師になりたいのかたずねると「故郷の村には、若くして結婚する女性がたくさんいる。22歳で3、4人子どもがいるのが普通。14歳で結婚して妊娠した友人もいる。私は卒業したら地元に戻り、そういう女性たちに家族計画を教えたい」。
すごく生き生きと勉強していますね、と言うと、にっこり笑って「輝く未来があるので」と答えた。
他の生徒にも話を聞いた。テムさんは「多くの友人が13~15歳で結婚していった。23歳、21歳の2人の姉もすでに結婚して3人、2人と子どもがいる。地元の村の人々を助けたい」。ラさんは「友達が14歳や15歳で結婚した。離婚した人も多く、そういう人たちの役に立ちたい」と語った。
ただ、助産師を増やせばすべて解決、というわけではない。せっかく育成して雇用しても、十分なお給料が払えないことも少なくないのだという。
ヘルススクールの後、同県パンサー村にあるヘルスセンターを取材した。近隣の女性たちが次々に家族計画の相談にやってきて、ピルやコンドームをもらい、ホルモン注射などを施す。ヘルススクールを卒業して助産師になった女性が働いていた。ノイさん。3年目だという。彼女自身も妊娠中で、9カ月のおなかを抱えていた。
「忙しくてまだ休めなくて」
ところが、彼女のお給料は公式には支給されておらず、ヘルスセンターの医師が別の病院で夜勤をした分を彼女に渡しているのだという。それでも、ノイさんの言葉には力強さがこもっていた。
「もともと私は医師になるか助産師になるかで迷って、助産師のほうが女性や子どもに密接に関われると思ってそちらを選んだんです。仕事はとてもやりがいがあって、助産師になって正解だった。子どもを産んだら戻って働きたい」
サリーは「学校をつくりたい」という夢を持って祖国で働いてきた。まだまだ問題はあるとはいえ、ヘルススクールが起点になって、母子を取り巻く環境を変えよう、社会を変えようという意欲ある若い女性たちが確実に育っている。サリーの夢はある意味、実現しつつある、と私は思った。