地球規模の課題解決に最前線で取り組む人たちに、with Planetの竹下由佳編集長がその思いを聞きます。今回は、幼少期に発症したポリオの影響で両足に困難を抱えながら、ハンディキャップがある人たちのエンパワーメントに取り組む、西アフリカ・ギニアのパラリンピック委員会のオスマン・ディアネさん(42)です。

西アフリカの大西洋に面した国の一つ、ギニア。人口は約1386万人だが、面積は日本の本州とほぼ同じ約24万平方キロメートルだ。世界銀行によると、1日あたり2.15ドル以下で生活している「極度の貧困」状態の人の割合は13.8%(2022年)。2013年末からはエボラ出血熱の感染が拡大し、2016年に終息するまで2500人以上が死亡した。今も後遺症に苦しむ人も少なくないという。

世界最大級の埋蔵量を持つとされるボーキサイトのほか、金やダイヤモンドなどの鉱物資源が豊富だが、社会基盤の整備は遅れ、感染症などに苦しむ人も多い。そんなギニアで、ハンディキャップがある人たちのエンパワーメント(力づけ)に取り組む人がいる。

自身も幼少期にポリオ(小児まひ)を発症し、両足を動かすことができず車いす生活を送るオスマン・ディアネさん。現在は、ギニアパラリンピック委員会で事業担当を務めている。ポリオは、ポリオウイルスが口の中に入り、腸で増えることによって感染する病気で、ウイルスが脊髄(せきずい)の一部に入り込み、手や足などにまひがあらわれ、一生残ってしまうこともある。

スポーツを通じてハンディキャップがある人たちの社会参加を促すための国際協力機構(JICA)主催の研修を受けるために8月に来日したディアネさんに、話を聞いた。

ある日の朝、目を覚ますと...

ーーディアネさんは3歳でポリオを発症したそうですが、当時はどのような状況だったのでしょうか?

私は1981年、ギニア第2の都市カンカンで生まれました。私は3歳までに自分の足で歩き、あちこち走り回っていて、母はそんな私を誇りに思っていたそうです。3歳になったある日の朝、目を覚ました私はベッドから落ちたのですが、その時すでに身体のコントロールを失っていたのです。両親はすぐに私を病院に連れて行き、ポリオだとわかったといいます。

1980年から1987年にかけ、アフリカ、特にギニアを含む西アフリカではポリオが流行していました。当時、アフリカの多くの国では、ポリオの予防接種は普及していなかったのです。

ポリオは、私を含めた多くの人が発症し、多くのハンディキャップのある人たちが生まれました。私は、両足を動かせなくなりました。

両親は病院で多くの治療を試みてくれましたが、結果は出ませんでした。伝統的な医療にも頼りました。穴を掘ってその中で枝を燃やして煙を起こし、そこに足をかざしたり、お風呂に木の根っこや葉っぱを入れて、中に入ったり。しかし、どれもダメでした。足にはその時のやけどの痕がまだあります。

私はギニアの平均的な家庭の出身で、両親は読み書きができず、勉強もしていません。しかし、私は両親に感謝しています。ハンディキャップがあっても、今まで私を愛し、守ってくれたからです。

このような親を持つことができたのは、私にとって大きな幸運でした。残念なことに、私の知っている、ハンディキャップがあるほかの多くの人々は、親から拒絶されていました。これは現在も続いています。

アフリカでは、ハンディキャップに対する誤った解釈や偏見が多いと感じています。「呪われた存在」だと思い込み、ハンディキャップがある子どもたちが殺されることさえありました。家族にとって「不名誉な存在」として扱われるのです。

「他人の目に苦しめられることもあったが、両親は私を愛してくれて感謝している」と語るオスマン・ディアネさん=東京都渋谷区、筆者撮影

ギニアには、15万人以上のハンディキャップがある人々がいます。その80%は物乞いで生活しています。私自身も、他人からの嫌な目線や、物理的な障壁に苦しみました。

バリアフリーでなく大学での学びを変更

ーーたとえばどのような経験をされましたか?

ポリオを発症してから、私は手でペダルをこぐ三輪車を使って生活していました。小学生の時は先生がいじめられないように守ってくれましたが、周囲から笑われることはありました。

中学生時代のオスマン・ディアネさん=本人提供

さらに、ギニアは開発途上国で、学校や病院といった公共の場はハンディキャップのある人にとって利用しやすいものではありません。バリアフリーの施設がないのです。

首都コナクリにある、ガマル・アブデル・ナセル大学に入学しましたが、建物は5階建てで、もちろんバリアフリーの建物ではありませんでした。エレベーターも、スロープも、視覚に困難を抱える人向けの表示もありません。

私が学びたかったのは法学と経済学だったのですが、その教室は5階にあったため、物理的に上がることができず、1階で学ぶことができる社会学を選びました。学長にも相談しましたが、それしか選択肢がありませんでした。

その後、政府の方針で別の大学に転学することになりましたが、そこでも社会学を学び、ギニアにおけるハンディキャップがある人々の雇用についての論文を書きました。

ーーディアネさんがハンディキャップのある人々の権利に向き合うようになったのはいつごろからなのでしょうか?

16歳の時、私はメキシコから来たカトリックの宣教師と出会う機会がありました。彼らは、困難を抱える私たちの「権利」についての考え方を教えてくれました。

そのおかげで、私は文化的・宗教的な多様性に対する広い視野を持つことができましたし、私たちは基本的な権利を認められるために闘い続けなければならないことを学ぶことができました。

ーーパラスポーツとの出会いはいつだったのでしょうか?

大学生の頃からパラスポーツには関わっていました。しかし、本格的に関わるようになったのは、2015年からです。ギニアのパラスポーツに関する連盟の事務局長に選出されましたが、当時はギニアに正式なパラリンピック委員会はなく、私の仕事は、この国にパラリンピック委員会を立ち上げることでした。

車いすバスケットをプレーするオスマン・ディアネさん=本人提供

ーーギニアは、オリンピックでもパラリンピックでもまだメダルを獲得したことがないのですね。

はい。メダルを獲得することで、国内でのパラスポーツの認知度を高めたいです。

2021年に開かれた東京パラリンピックで、女子陸上200メートル、400メートルに出場したカディアトゥ・バングーラという選手がいます。彼女は左手が不自由です。メダル獲得には届きませんでしたが、東京大会では400メートルで9位となり、入賞まであと一歩でした。そして、2024年のパリ大会の直前の5月に神戸で開催される、世界パラ陸上競技選手権大会への出場権をすでに獲得しています。

ギニアのパラアスリートの一人、カディアトゥ・バングーラ選手(右)=オスマン・ディアネさん提供

彼女は、26人ものきょうだいがいる貧しい家庭の出身です。首都のコナクリでさえ練習環境は満足にありませんが、彼女の住むフリアという町では、土のグラウンドしかないため、雨期には泥だらけになりながら、けがも覚悟の上で練習に臨むしかないのです。

彼女をギニア初のパラリンピック・メダリストにするためにも、神戸での大会に出場するための旅費や、その前後に少しでもいい状態で日本で練習に打ち込めるような環境を探しています。

スポーツは若者たちの「情熱」

ーーギニアでパラスポーツを広める意義はどのようなところにあるのでしょうか?

ギニアでは、ハンディキャップのある若者のほとんどが学校に行かず、物乞いなどで生計を立てています。パラスポーツの発展は、彼らの社会参加と自己啓発を促すことができます。パラスポーツによって、彼らに自尊心を持ってもらったり、エンパワーメントしたりすることができると信じています。

ギニアは人口の半数以上が若者です。スポーツは、ハンディキャップの有無に関わらず、すべての若者たちの情熱の源なのです。しかし、パラスポーツはギニアでまだまだ発展過程にあります。パラスポーツの練習ができる専門の施設はありませんし、ギニア政府から我々パラリンピック委員会に対する定期的な助成金もありません。

ーー日本では1980年以降、ワクチンの一斉投与によってポリオの新規発症は報告されていません。ワクチンを接種していれば防げた病気で困難を抱えてしまったことについては、今どのように感じていますか?

防げたはずの病気で、多くの子どもたちが困難を抱えている姿を見ると、胸が痛くなります。ポリオを封じ込めた国がある一方で、同じ頃に感染する子どもたちがいるという事実は悲しいことです。しかし、私はポリオに負けていません。困難を克服する決意を固めています。

ーー日本政府や、日本の人たちに望むことはありますか?

ポリオ以外にもエボラ出血熱などの感染症は、子どもたちの犠牲者を出し、生涯にわたって困難を負わせ続けています。すべての人が飲料可能な水にアクセスできるようにしたり、下水設備を整えたりするプロジェクトに優先的に取り組めば、このような事態は避けられるはずです。

だからこそ、日本政府を含む国際社会がアフリカの国々の感染症撲滅を支援し、住民のための飲料水供給プロジェクトへの支援を続けてくれることを望みます。

そして、ギニアを含む途上国のパラスポーツに目を向けてもらいたい。パラスポーツをきちんと教えられる指導者も不足していますし、教員が困難を抱える子どもたちをどう扱ったらいいのか知らない場合もあります。マルチスポーツ用の車いすや投てき台など、国際大会に出場するために必要な道具はもちろん、普段の練習で使う機材でさえギニアでは販売されていないことが多く、購入するにも値段が高価になり手が届きません。こうした側面にもぜひ関心を持ってもらい、支援してもらえたらうれしいです。