人口は14億人を超え、めざましい経済成長を続けるインド。ただ、人口の6割が暮らすのは農村部だ。貧困率も2019年時点で全人口の約10%に上り、格差の拡大のほか、栄養の偏り、公衆衛生や医療へのアクセスといった命に直結する課題も根強く残っている。顧みられない熱帯病(Neglected Tropical Diseases=NTDs)に苦しむ患者も多く、ヘルスケアへの対応が求められる中、課題解決につながるビジネスに日本企業が乗り出している。前編に続き、取り組みの最前線を報告する。

インド南部アンドラプラデシュ州、東にベンガル湾を望む都市ビシャカパトナム。

その中心部から山道を越え、車で1時間超かけて集落を訪れた。

3月中旬だったが、気温は30度を超える暑さだった。蚊に刺されないよう、長袖、長ズボンを着用したのはもちろんだが、日本から持参した虫よけスプレーに加え、服の上から塗るタイプの虫よけ薬も備えて向かった。

訪れたのは、人口約3800人のヤラダ村。この小さな村を、日本の製薬大手エーザイが2013年から支援しているという。一体なぜなのか。現状を取材した。

ヤラダ村でのNTDs対策の現状

エーザイとヤラダ村を結んだのは、顧みられない熱帯病(NTDs)の一つ、「リンパ系フィラリア症(LF)」だった。

NTDsとは、熱帯・亜熱帯の途上国を中心に蔓延(まんえん)し、貧しい患者が多く、薬を買ってもらいにくいため、薬の開発や普及が進みにくい病気のことだ。

世界保健機関(WHO)は、NTDsに20の疾患を含めており、その中には、ハンセン病や狂犬病など、かつて日本でも流行し、制圧した病気もある。LFも同様で、日本では1970年代まで流行し、その後制圧に成功した経緯がある。

LFは、「象皮病」とも呼ばれている。フィラリアという寄生虫が、蚊を媒介して人のリンパ系に寄生することで感染し、足などが象のように腫れ上がる。WHOは、「身体の一部の増大、痛み、重い身体障害、社会的偏見につながる可能性がある」と指摘。2018年時点で世界の5100万人が感染し、2023年6月時点では世界44カ国で8億8200万人以上がLF感染のリスクにさらされていると警鐘を鳴らしている。

インドもLFの蔓延国の一つで、このヤラダ村には、およそ50人のLF患者が生活しているという。

なぜエーザイがヤラダ村を支援しているのか。

背景には、エーザイが2009年からNTDsへの取り組みを強化したことがある。2010年11月には、WHOからの要請を受け、LFの治療薬「ジエチルカルバマジン錠(DEC錠)」を22億錠、無償提供することで合意。2013年からは、ヤラダ村から約30キロの経済特区に位置する自社工場、通称「バイザック工場」で、DEC錠の製造も始めた。エーザイによると、2023年6月現在で、すでに29カ国に21.3億錠を供給しているという。

インド・アンドラプラデシュ州のビシャカパトナムにあるエーザイの自社工場=筆者撮影

感染症で苦しむ患者をなくすには、治療薬ももちろん重要だが、病気や治療法に対する正しい知識を広げたり、感染を広げないような衛生環境を整えたりすることも不可欠だ。

エーザイは2013年、アンドラプラデシュ州政府とパートナーシップを結び、ヤラダ村でのLFの制圧に向けた啓発活動や蚊の駆除などに取り組み始めた。

必要としている人に薬を

LFを発症し、腫れ上がった足を見せる患者たち=筆者撮影

「もともと港で仕事をしていたが、発症してから仕事を辞めざるをえない状況になってしまった」

ヤラダ村に暮らす、LF患者の60代の男性はこう語った。25年以上前に感染したが、発症したときは「腰にちょっとした違和感があった」程度だったという。それが少しずつ足に広がり、腫れていった。村に来てくれたヘルスワーカーに検査をしてもらったが、LFだとわかったのはその50日後だったという。現在は、症状のある左足に炎症があるほか、発熱もあると訴える。

取材に応じたヤラダ村のLF患者たち=筆者撮影

21歳で感染した際、妊娠中だったという50代の女性患者は当時、LFだと診断されていたが、母体への影響を懸念した医師から薬を服用しないよう言われた。出産後にLFの治療を始めたが、すでに症状が進んでしまっていたという。大きく腫れた右足を抱え、いまも時々痛みを感じたり、発熱したりする。症状によっては日常生活の中でいつも通りに動けないなどの影響があるという。

治療には資産の大半を費やしたといい、「LFが発症しうる地域の人々にはできるだけ薬を広げてほしい」と訴えた。

LFを発症したことで、差別や偏見を経験したことがあるか尋ねると、取材に応じた5人とも「家族や隣人からの差別はない」とし、周囲のサポートへの感謝を口にした。ただ、この女性は、「村の中では差別を感じることは全くないが、村を出ると変な目で見られるなど視線を感じたことがある」と話した。

LFが身近な病気とはいえない日本の人々に伝えたいことを聞くと、15歳で感染した50代の女性患者はこう語った。

「できるだけ多くの人が薬を入手できるということがとても大事。必要としている人に薬が届くような状況になってほしい」

海のほど近くにあるヤラダ村=筆者撮影

かつては、不十分な排水設備によって蚊が大量発生し、LFが蔓延していたヤラダ村。住民たちはLFに長年悩まされてきた。

地元のアンドラプラデシュ州政府は、エーザイと2013年にパートナーシップを結ぶ前から感染状況の調査を実施したり、薬剤を集団投与したりし、対策に取り組んできた。直近では2016年に集団投与が実施された。

道路は決して広くはないが舗装され、バイクやバスも行き交っていたヤラダ村。排水設備も整えられ、蚊の発生を防ぐために、ボウフラが発生しうる水たまりや排水溝などに殺虫剤も定期的に散布されているという。殺虫剤をまくのは、エーザイが雇う現地の人々だ。

こうした取り組みの結果、ヤラダ村では2021年に1例が確認されて以降、新規感染者はゼロだという。

蚊が発生しないよう、殺虫剤をまいたり、掃除をしたりする人たち。エーザイが雇っているという=筆者撮影

LFのない未来をめざし、2000年に設立された官民のパートナーシップ「LF排除のためのグローバルアライアンス(GAELF)」は、LFが排除された地域では、労働者の生産性が向上し、医療費が節約されるなどのメリットがあるとしている。

LF対策では、DEC錠のほか、イベルメクチン、アルベンダゾールといった薬が無償で提供されており、対策費用は安く済む。

GAELFによると、たとえばアフリカでは、LFによる発作やリンパ浮腫などの障害の影響で、年間13億米ドルのコストがかかっているという試算がある一方、LF排除のための費用は、1人当たり年間0.20~0.50米ドル程度だという。

貧しい地域に患者が多いことなどから、顧みられてこなかったLF。予防薬や治療法があり、救えるはずの命を救うことにつながるだけではなく、地球全体の健全な成長にもつながるのではないか。そのためには、お金や薬を投入することはもちろん大事だが、ヤラダ村の取り組みから、地道に衛生環境を整えていくことや、住民一人ひとりに正しい知識を持ってもらうこと、さらに同じ地球に生きる私たち一人ひとりがこうした現状に目を向けることが何より重要だと感じた。