能登の被災地で考える 国際緊急支援の経験を国内で生かすためには?
海外の被災者支援に日本の医療従事者が行くようになったのは1980年代。積み重ねてきた経験を国内の緊急支援にもっと生かせないか。能登入りした國井修さんが考えます。

海外の被災者支援に日本の医療従事者が行くようになったのは1980年代。積み重ねてきた経験を国内の緊急支援にもっと生かせないか。能登入りした國井修さんが考えます。
世界の低中所得国130カ国以上で感染症対策、母子保健、人道支援などグローバルヘルスに取り組んでいる、医師で公益社団法人グローバルヘルス技術振興基金CEOの國井修さんが、能登半島地震の発生4日後、現地に入りました。被災地での活動を通して考えた、国際貢献の経験を国内対策につなげる緊急支援のあり方について、つづります。
2024年1月1日に発生した、能登半島地震。1月5日、私は被災地に向かった。7日には石川県珠洲市に入り、国際協力NGOピースウィンズ・ジャパン(PWJ)のアドバイザーとして、被災者の支援体制の構築支援に携わった。被災地での活動についてはこちらで紹介しているが、今回は、被災地での活動を通じて感じた、「緊急支援」の考え方について、その歴史をひもときながら伝えたい。
このような国内の被災地に行くと、海外の大規模災害や紛争の被災者支援でも会ったり一緒に活動したりした人々とよく出くわす。国際協力機構(JICA)に事務局を置く国際緊急援助隊(JDR)や日本赤十字社、またNGOなどから派遣された医師や看護師などである。所属は異なるが、「大災害の被災者を見過ごせない」「ひとごととして見ていられない」といったところが共通点だ。
日本人の医療従事者が海外の大規模災害や緊急事態の支援に出向くようになったのは、1980年ごろからのようだ。1970年代にインドシナ三国が社会主義体制に移行し、凄惨(せいさん)な迫害や虐殺が起こったことで約150万人ともいわれる大量の難民、いわゆるインドシナ難民が発生した。それに対して日本は、当初は「金は出すが人は出さない」との批判もあったが、最終的には政府とNGOの双方が動いた。
まず日本政府は、1979年にタイの国境にあるカンボジア難民キャンプに故緒方貞子元JICA理事長を団長とする政府視察団を派遣し、続いて医療チームが送られた。これを契機に1982年には国際救急医療チーム(JMTDR)が設置され、平時から要員の登録・訓練や資機材の整備・備蓄を行い、海外に災害があれば迅速に対応できる態勢を作っていった。1987年9月には「国際緊急援助隊の派遣に関する法律」が公布・施行され、医療チーム以外にも救助チーム・専門家チームを派遣できるような国際緊急援助隊の体制が確立した。
同時に、このインドシナ難民問題を契機に発足したNGOがいくつもある。日本国際ボランティアセンター(JVC)や難民を助ける会(AAR Japan)、医療系ではアムダ(AMDA)やシェア=国際保健協力市民の会(SHARE)などである。私も学生時代、JVCを通じてカンボジア難民キャンプを訪問させてもらい、AMDAの創設に関わり、シェアの勉強会などに参加させてもらった。この時に創設され、今でも継続して活動するNGOの発足には、発起人の確固とした信念、果敢な行動力、厚い人望があったと感じる。AMDAの菅波茂医師、シェアの本田徹医師などはその典型だろう。
AMDA創設の背景には、インドシナ難民問題を含め、アジアに横たわる健康問題をアジアの学生たちと一緒に学び合おう、お互いを理解し合おうと立ち上げたアジア医学生会議(AMSC)があり、その会議やフィールドスタディー、交換留学などを企画運営したアジア医学生連絡協議会(AMSA)があった。私もAMSCの日本代表、AMSAのアジア全体の議長となり、恥ずかしながら大学の勉強以上に時間や情熱をかけていた。当時、国際緊急医療援助を行う民間組織が日本にはなかったので、有志で「国境なき医師団」を日本に創ろうと熱く語り合ってもいた。
最終的には欧米のまねや国際NGOの日本支部ではなく、自分たちがアジアで培ってきた友情や信頼、ヒューマンネットワークを駆使して、「困った時はお互い様」の精神で助け合うNGOを創ろうということになり、数人でAMDAを立ち上げた。私も卒業後、栃木県の奥日光の山間で僻地(へきち)医療をしながら、年に1、2回ほど緊急援助に参加し、ソマリア難民支援プロジェクトを立ち上げたり、副代表としてAMDAの運営をサポートしたりしていた。
インドシナ難民問題の後も国際的にはさまざまな大規模災害や緊急事態が発生し、JDRもNGOも数々の派遣経験を通して質量ともに向上していった。私自身もAMDA以外にJDRを通じてバングラデシュ(竜巻・洪水)やインドネシア(森林火災と煙害)などに派遣させてもらったが、2023年にJDRは40周年を迎え、約60回の海外実績を持つに至った。AMDAも世界30カ国以上に支部を持ち、多国籍医師団を緊急派遣できるAMDA Internationalに加えて、AMDA社会開発機構やAMDA国際福祉事業団などの開発支援や教育などに関する団体も擁する一大組織に発展した。
横道にそれるが、「国際緊急援助隊の派遣に関する法律」が公布・施行されることで、JDRの支援体制が確立・充実する一方で、制約も生じた。この法律で言及しているのは「大規模な災害」であり、「被災国政府などより国際緊急援助隊の派遣の要請があつた場合」にはじめて派遣が考慮されるため、紛争による被災民や難民は対象外となってしまった。
当時、紛争などによる人道支援を要する複雑な緊急事態(Complex humanitarian emergencies)が頻発していたため、JDRで中心的に活動していたメンバーの中にはそれらに貢献できないことに不満やいら立ちを感じる人たちもいた。
そんな中、1992年6月に制定された「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」(国際平和協力法:いわゆるPKO法)の中にある「人道的な国際救援活動」の一環として、自衛隊でなく医療者を派遣できないかと当時の総理府が動いた。PKO法に「人道的な国際救援活動」が明記されながら、当時は1994年のルワンダ内戦に自衛隊員(医務官)を派遣した例、1999年に東ティモールに国内避難民救援のために自衛隊の空輸隊を派遣した例など数件の活動だけで、チームによる実質的な救援活動はできていなかった。
私を含めJDRに関わる数人が総理府に呼ばれ、PKO法の下で人道的医療支援を行う専門組織を創設できないかとの相談を受け、是非やろうとのことで準備が始まった。定期的に集まり議論を進め、新たに創設する医療チームの名称をHUREX(Humanitarian Relief Expert)に決めた。JDRの経験や難民・国内被災民のニーズに鑑みて、1、2週間の短期派遣だけではなく、数カ月の中長期派遣も視野に入れること、患者治療だけでなく、水衛生改善や感染症対策も含めた公衆衛生チームも設置することなどの構想を作った。総理府の担当者と一緒にパキスタンとイランにあるアフガニスタン難民キャンプの現場も視察した。さらに、研修コースを作って実地研修を行い、登録の準備も進めた。
さあ、これからどのような国にチームを派遣しようか、などの作戦を練っていたところ、突然、総理府からHUREXの創設を取りやめるとの連絡があった。青天の霹靂(へきれき)とはこういうことをいうのだろう。その理由も定かでないところがまた霹靂というか、辟易(へきえき)というか、言葉にならなかった。
その悔しさを胸に中心メンバーが2002年に創った新たなNGOが、特定非営利活動法人災害人道医療支援会(HuMA)である。創設の議論には参加したものの、その後、私は海外に出てしまい、運営や活動には関わることができなかったのだが、昨年のHuMA創設20周年記念シンポジウムには講師として呼んでいただいた。国内外で緊急援助を重ねた20年間の足跡も知ることができて、その成長と進化には驚き、またうれしかった。
HuMAの特徴は何といってもメンバーの専門性と質の高さである。歴代の理事長は鵜飼卓氏、前川和彦氏、甲斐達朗氏といった日本の救急医学や災害医療を牽引(けんいん)してきたリーダーでありレジェンドである。メンバーも高度の専門性や深い経験をもつ医師や看護師が名を連ねる。能登半島地震の被災地でも、使命感に燃えた若いHuMAのメンバーたちが活躍していた。今後も多くの若手人材に現場経験を提供しながら、専門家集団として重要な役割を果たして欲しい。
2005年に発足した日本国内の災害派遣医療チーム(DMAT、Disaster Medical Assistance Team)の創設とその事務局運営でも、JDR医療チームの中心メンバーが活躍してきた。まさに海外経験が日本に大きく貢献した好例である。
1995年の阪神淡路大震災ではAMDAやシェアも含め、過去にない多くのボランティアが組織または個人で現地に駆け付けた。これらが行政を補完する重要な役割を果たしたことから「ボランティア元年」などとも呼ばれたが、その調整・連携は全くといっていいほど存在しなかった。アクセスのよい避難所には多くの医療チームが何度も訪れ、行きにくい避難所にはほとんど支援がこなかった。その状況を打破するため、兵庫県西宮市界隈(かいわい)で活動している医療チームは体育館に毎晩集まって調整会議をしようと始めたのが、緊急医療支援における「コーディネーション」のはじまりではないだろうか。初めはボランティアだけで、その後、保健所や市・区の職員も参加するようになった。これによって保健医療支援活動の情報共有や連携・協力が進んだ。避難所のマッピングをし、医療支援の重複や漏れのないように毎晩調整をおこなった。またニーズやギャップ分析のためのローラー作戦も実施した。
その後、都道府県や地域レベルで「災害医療コーディネーター」が公的に育成・設置されるようになり、急性期のDMAT事務局などの支援もあって、近年では調整・連携がうまく進んでいる。
何度か国内の災害支援に参加してきた人なら感じていることであろうが、日本国内の災害対策や対応はよくなっている部分もありながら、あまり変わっていないことも多い。特に現場や被災者の現状およびニーズ把握のための情報収集・分析・共有、緊急に必要な支援物資の需給のマッチング、そのためのロジスティックスについては改善の余地がまだまだある。ITやイノベーションの開発・導入を含めて今後の課題である。
「備えあれば憂いなし」というが、平時の備えの重要性はわかっていながら、多くの人・組織や自治体・政府はなかなか真剣に、また実践に即した準備ができないのも事実であろう。そんな中、現在進行形の災害に対する緊急対応から復旧・復興までを考えると年単位、時に10年以上の時間を要することもあり、そのような現場やそこに関わった人・組織と共に備えをすることが重要と考える。
世界に目を向けると、ほぼ毎年、多い時は毎月のようにどこかで災害や緊急事態が発生している。感染症流行のような健康危機も含めると、その数はまた増える。そんなグローバルな課題に積極的に取り組むことで、国内での対策・対応の改善の仕方も見えてくる。
私は、国内問題と国外を分けて考えるのではなく、この両者を同時に取り組むことが重要だと思っている。頻繁に発生しているグローバルヘルスの課題から国内に応用できることが多々あり、そこには日本人の人材育成から実践、新たなアプローチやイノベーションの開発まで様々な可能性があるからだ。
今後、ますます頻発、甚大化する可能性のある災害や緊急事態に対して、国際貢献をしながら国内対策につなげていける人材、組織が育つことに期待したい。