2023年3月。アフリカの最貧国の一つ、マラウイは超大型サイクロン「フレディ」に襲われた。日本では3月15日付の朝日新聞などで「(周辺3カ国で)死者220人超」との報道があり、河川の氾濫(はんらん)や土砂災害が相次いでいると伝えられた。しかし、それ以上の情報はほとんど伝わらなかった。国民の1割にあたる約200万人が被災したとされながら、「遠いアフリカの小国で起きた災害として静かに忘れ去られていくのか」。写真家の渋谷敦志さんは「自分が現地に行って伝えれば、なかったことにはならない」と、災害発生から1カ月半後の4月下旬、マラウイ南部に入った。「病む地球」で共に生きる共同体意識に突き動かされた渋谷さんが、被災の足元で見たもの、考えたことを伝える。

傷ついた大地の沈黙、「無一物でどう生き続ければ……」

山腹にある無数の切り傷のような痕、地表にゴロゴロと転がる大きな岩。

「ここは、別の惑星か」

荒々しくも沈然とした光景に息をのんだ。

マラウイ南東部、モザンビークとの国境にほど近いパロンベ県クランベのムチェンガ村。

むろん、頭ではそこがサイクロンの被災地だとわかっているのだが、自分がいったい何を目撃しているのか、どうにも判然とせず、茫然(ぼうぜん)自失としていた。

前方にそそりたつ壁のような山から大規模な土石流が流れ込んできたのは、2023年3月14日のことだった。オーストラリア北西沖で2月上旬に発生したサイクロン「フレディ」が、3月中旬にマラウイ南部に接近、各地に水害による大きな傷痕を残し、観測史上最も長く勢力を保った熱帯低気圧として記録を更新し、勢力を弱めながら去った。

ムランジェ山の南東部で発生した洪水被害を上空から撮影=2023年3月17日、ムランジェ県で、ジャック・マクブラムズさん撮影

「何日も豪雨が続くなか、私は妻と7人の子どもと家にいました。外でゴー、と聞いたことがないような音が聞こえ、これはただ事ではないと慌てて避難しました。しかし、あたりはひどい浸水で、岩や倒木が流れていて、『木に登れ』と家族に叫びました」

ムチェンガ村で農産物の行商をしていたフェリックス・ジェレマイアさん(43)が当時の様子を緊張した面持ちで振り返る。ジェレマイアさんはよじ登っていた木ごと流されながらも九死に一生を得たが、おいを含む親族8人が帰らぬ人となった。

「生き残ったのは幸いなことだが、家も家畜も財産も失った。無一物で貧困と欠乏をどう生き続ければいいのか」と嘆き、ジェレマイアさんは左足に負った傷にまとわりつくハエを振り払った。

ムチェンガ村は、中央アフリカ地域の最高峰・ムランジェ山(標高3002メートル)の東麓(とうろく)に点在する村落の一つ。土地が肥沃(ひよく)で、そこに暮らす大半の人たちは山が蓄える天水に頼った農業を主な収入源にしていたが、今回、人々に恵みをもたらしてきた水が突如、牙をむいた。

雨水をたっぷりためた土砂が岩や木をのみこみながら、ふもとの平地へと流れ込んだ。集落のかなりの部分が壊滅し、道路は寸断され、橋は流され、新しい川がいくつもできた。被害の全容はなお不明だが、ジェレマイアさんによると、ムチェンガ村では180棟もの住宅が押し流されたという。

そうと聞いて、もう一度、石や岩に覆われていたムチェンガ村に戻り、住民がそこで暮らしていた痕跡を探してみた。だが、それらしきものは一片のかけらも見つからない。人間の匂いもなく、復旧に向かうつち音も聞こえてこない。生まれたての地球の風景を見ているような感覚によろめきそうになりながら、1枚では納まりきらない光景を、左から右に数回にわけて、つないでパノラマ写真をつくるようにシャッターを切った。

ムチェンガ村があった場所には大きな岩が一面にゴロゴロ転がっていた。広さと奥行きを見せるため、3枚の写真をつなげてパノラマ写真にした=2023年4月、パロンベ県クランベで、筆者撮影

「ボラ・モヨ」、しなやかにしたたかに

この岩地からさらに向こうの被災地も気になったが、悪路に強いオフロードバイクでも容易には進めない。まもなく日も暮れる。そろそろ引き返す時間かと思い始めていた時、十数人の女性と子どもたちがそばを通りかかった。救援物資を受け取りに行った帰りだろう。めいめいが主食の「シマ」の材料となるメイズ(トウモロコシの一種)の粉袋を抱えていた。

こちらから声をかけるまでもなく、チテンゲという色鮮やかな生地の服を着た女性たちが集まってきてくれた。全員がムチェンガ村の住人だという。22歳で妊娠中のムワイワオ・チドゥレさんが代表してインタビューに応じてくれることになった。

被災当時の様子を語るムチェンガ村のムワイワオ・チドゥレさん=2023年4月、パロンベ県クランベで、筆者撮影

「朝の9時ごろ、山から大量の水と泥の波が押し寄せてきました。私はなんとか教会まで避難することができましたが、流された子どもに母親の手が届かなかったり、家族を捜しに戻ったときに溺れてしまったり……」

隣の当事者の女性たちも黙って聞いていられなかったのだろう、それぞれがぽつりぽつりと被災した時の状況を口にしはじめた。

「こんなに山が崩れたのは初めて」「火山の爆発のようだった」「短い時間に胸の高さまで泥水が押し寄せた」「木にしがみついて助かった」「まだ埋まっている人がいる」

その一つひとつに耳を傾けていると、うまくイメージできなかった現象への解像度が上がっていくようだった。そしてピンと来た。これは津波が海からではなく山から襲ってきたようなものだ、と。

モザンビークとの国境に近い町クランべでは、じゃがいもや豆などの生産が盛んだったが、農地の多くが壊滅的な被害を受けた=2023年4月、マラウイ・パロンベ県、渋谷敦志撮影

「ナポロ」。マラウイの人々は、山で発生する洪水や土砂崩れのことをそう呼んでいた。単語としては「大蛇」の意味で、山奥の湖に棲(す)む大蛇が何十年かに一度、山の地表を削りながら、大量の水とともに移動して災いをもたらすという言い伝えがある。土砂崩れの痕がまるで蛇がクネクネはったあとのようであることから、そう言い伝えられてきたのだろう。

大きな蛇の存在を信じる者はいないとしても、この言葉を通じて、人々は自分たちの土地が土砂災害と無縁ではないことを知ってはいた。しかし、これほどの被害は予想外で、「ナポロばかりは神様の意思だから止めることができない」と、半ば宿命づけられていると考える人も少なくなかった。

「ナポロがメイズ、豆、米などの作物すべてを流してしまったので、まず必要なのは食料です。でも、住む場所もありませんし、子どもたちは勉強どころではないですし、どうしたらいいかわからず、お先真っ暗です」

そう語るチドゥレさんだったが、話の内容の深刻さと裏腹に、彼女のなごやかな表情としたたかなまなざしが鮮明に印象に残った。周りの女性たちも、言葉の端々に諦念(ていねん)をにじませながらも、誰一人打ちひしがれた顔をしていなかった。

「女性たちは、たくましいというか、しなやかというか、どう言葉にしたらいいのかわからないけど」と、通訳兼案内役であり、自身も被災者であるパトリック・カトンドゥさん(49)に話をふると、すばやくこう返してきた。

「それがボラ・モヨ(Bola Moyo)だよ」

この言葉がここで出てきたのは、クランベにある宿泊先のロッジの名が「Bola Moyo」で、出発前にその意味をカトンドゥさんに質問していたからだ。英語に訳しにくい言葉だが、と前置きしつつ、「命こそかけがえがない、それ以外のことは大して重要ではない」というマラウイ人独特の感情だと説明してくれていた。

洪水ですべてが流された村に自分たちで橋をつくり、日常を取り戻そうとする住民たち=2023年4月、パロンベ県クランベで、筆者撮影

貧困、干ばつ、感染症……。この国は数多くの試練と闘っている。

過酷な環境に生きる人々は、どんなに汗水たらして働いても報いられることは少なかったはず。その上にサイクロンが毎年のようにやってきては、家族や田畑、わずかな暮らしの糧をも根こそぎ奪い去る。それでも人々は動き出す。次々と襲いかかる厳しい自然とどうにか折り合いをつけ、お互いが支え合って、生き抜こうとする。村にまた根を下ろし、パゴノ・パゴノ(ゆっくり、ゆっくり)といいながら、前へ歩み出そうとする。そんな「毎日がサバイバル」な日々の中で編み出されてきた人生観が、「ボラ・モヨ」なのだろう。

この地で手にした新しい言葉に生き生きと命が宿るのを感じながら、一日一日を懸命に生き抜こうとする女性たちの「ギリギリの生」にピントを合わせ、尊敬の念を捧げるようにシャッターを切った。

洪水と土石流ですべてが流されたムチェンガ村で出会った人々=2023年4月、パロンベ県クランベで、筆者撮影

気候変動が人々の健康を脅かす現場で

川でメイズを洗うロニー・エマニュエルさん(11)は同級生を6人失った。壊れた水道管はMSFが補修したもの=2023年4月、パロンベ県クランベで、筆者撮影

約42万人を擁するパロンベ県では人口の半数以上が被災したといわれる。その県内で最も甚大な被害を被った町の一つが、クランベだった。

洪水や土石流により家を失った住民は、教会や学校、親戚のもとに身を寄せ、限られた食料を分け合い、糊口(ここう)をしのいでいた。マラウイは「アフリカの温かい心(The Warm Heart of Africa)」と呼ばれるほど、困った時は誰かが救いの手を差し伸べる助け合いの精神が根付いている。しかし、今回ばかりは、共助で乗り切るには被害が甚大すぎた。

国内で一番の僻地(へきち)ゆえ、政府の支援は届きにくい。交通網も寸断されて他の支援団体も十分に対応できていない。そんな援助の空白を埋めるべく、緊急援助に乗り出したのが、国際NGO「国境なき医師団(MSF)」だった。

下腹部痛を訴えてMSFの外来病棟に来たレナ・ムニェプさん(26)。骨盤内炎症性疾患の疑いで、より精密な検査を受けるために都市部の病院に搬送されるところ=2023年4月、パロンベ県クランベで、筆者撮影

クランベでの活動責任者であるドロシー・エソンウネさんは被災当初の様子について、「初めは何もありませんでした。電気も水も。ライフラインが断たれた崖っぷちの環境に、命と健康の危機に瀕(ひん)した人々が取り残されている状態でした」と語る。

MSFが現地調査に入ったのが3月17日で、23日には被災を免れた小学校に診療所を開設して負傷者治療を開始。1日平均200人の患者に医療を提供し、被災者への物資配布も行った。4月17日からは学校が再開したため校庭に仮設の外来病棟と産科病棟を設けたという。

基礎的な医療の不足への対応のほかに注力していたのは、被災者に清潔な水と適切なトイレを届けるミッションだ。「サイクロンによる水と衛生の環境悪化が感染症の根本的な原因」だからだ。一番不安視されていたことの一つは、コレラの感染再拡大だった。

実はマラウイは、サイクロン「フレディ」に襲われる直前、コレラとの過酷な闘いを経て流行を収束させようとしていた。米国の疾病対策センター(CDC)によると、マラウイでは2022年3月以降、5万9000人以上がコレラに感染し、1700人以上が命を落とすという深刻な状況にあった。

コレラとは、コレラ菌に汚染された水や食べ物を摂取することでかかる下痢性疾患のことだ。治療はけっして難しいものではない。脱水症状にならないように経口補水液を投与すればじきに回復する。しかし、安全な水へのアクセスが断たれた被災地ではそうはいかない。特に栄養不良の子どもにとっては、治療が手遅れになれば死に至る病となる。

予防こそ最善の医療とばかりに、MSFはロジスティシャンと呼ばれる土木工事や水・衛生管理のスタッフを動員して、破損した水道管や損傷した掘削井戸の修復、トイレの増設などを急ピッチで進めていた。

現地で取材中にMSFの病棟でも集落でもコレラ患者を1人も見なかったのは、助かる命が確実に増えたことの裏返しなのだろう。

その一方、やっかいなのはマラリアだった。

MSFの現地報告によると、4月24日から30日の1週間で、症例数として、急性呼吸器疾患に代わって最多となったのがマラリアだった。しかも迅速診断テストによる陽性率は52%を超えていた。

事態が悪化している要因について現地スタッフから聞いた話を総合すると、地域の診療所や医療物資の倉庫が被災して医療を受ける機会が失われたことが大きいが、洪水により、マラリアを媒介する蚊が繁殖する水たまりや新しい川が増加したことや、住環境の悪化や人間の行動に生じた変化も、マラリアの感染者急増の遠因になっているということだった。

「まさに地球の気候の異変が人々の健康の脅威になっている」

そして、どうにもモヤモヤした気分が頭をもたげてきていた。

外来病棟を訪ねると、高熱のためか元気のない子どもを抱えた母親が診察の順番を待っていた。医療スタッフが子どもの指先にチクッと針を刺して血液を採取し、泣きわめく子どもの傍らで、マラリアの迅速検査の結果を待っていた。「判定まで15分かかる」と言いながら、ものの数分で結果は判明した。陽性だった。顔面を紅潮させている子どもの姿をカメラ越しに眺めながら、体の中の焼かれるような痛みを思い出していた。

マラリア検査のためにMSFの医療スタッフが子どもの指先から血液を採取している=2023年4月、パロンベ県クランベで、筆者撮影

4年前、僕はアフリカでマラリアに感染した。

ひどい二日酔いのような倦怠(けんたい)感の後、高熱と悪寒で戦慄(せんりつ)し、意識が薄れて失禁した。幸い、そばにいた友人が医師で、発症後すぐに診てもらい、治療薬を処方してもらったが、それでもかなり体にこたえた。あれはもう経験したくない。だから今回は東京の感染症医の助言に従い、予防薬を内服し、虫よけ剤や蚊帳で防備して臨んだのだが、そうやって意のままにマラリアに対抗できる環境にある自分が、治療もままならない「瘴癘(しょうれい)の地(感染症や風土病が起きる危険地)」に生きる子どもたちにカメラを向ける。この「撮る者」と「撮られる者」の壁が、世界を分け隔てる境界線なんじゃないかとつい悶々(もんもん)と考えてしまう。

自分の仕事に疑問を感じ、葛藤の渦から逃げたくなることもある。それでも、しんどい気持ちを引きずりながら、自分の置かれた境遇からかけ離れた現実に分け入ると、そこに生きる「誰か」と写真を通じてつながる。そうなると、もう知らないとはいえない。知り、伝えて、考える。そんな行為の先に世界を変える手だてを根気よく探し求めるしかない。

体の距離は近づいた。だが、心の距離はまだ遠い。その心の距離を小さくする。その意志を手放さずに、「あなたのことが知りたい」と心の扉をノックし続けることが、僕のなしとげるべきミッションなのだとあらためて胸に刻んだ。

犠牲者の多くが子どもたち

マラウイ南部の商業都市、ブランタイアの市街地から車で約30分。目的地であるチロブウェ地区の手前で車から降りる。そこからは徒歩で山あいの住宅密集地に入っていく。狭い道の両側には商店や露店が並び、多くの人が行き交う。

「ニーハオ」とたびたび声をかけられながら、雑多だが活気あふれる路地を進んでいく。すると突然、泥に覆われたモノトーンの光景が目に入ってきた。ブランタイアで最も大規模な土石流の発生現場だ。

山の頂上付近で斜面が崩壊しているのが見える。大雨によって崩れた土砂が雪だるまのようにふくらみながら山肌を駆け下り、山あいに立つ家々をのみこんでいったのだろう。眼下のふもとの方には、黒っぽい風景が扇形に広がっていた。

現場に来て最初に驚いたのは、堆積(たいせき)している泥の量だ。数メートルの厚みの泥が崖のように立ちはだかる。れんがで組んだ急勾配の階段をよじのぼると、無数の岩塊やなぎ倒された樹木に覆われた景色が広がった。

十数軒あった集落は消滅、跡地には巨石が転がり川ができていた=2023年4月、ブランタイア市チロブウェ地区で、筆者撮影

「以前は泥で覆われていたので、こんなに多くの岩は見えなかった」

今回、取材を手伝ってくれているジャック・マクブラムズさんは、土石流の発生直後にここで惨状を目の当たりにしていた。「何人の命が失われたのかは正確にはわからないが、サイクロン『フレディ』による犠牲者(政府はおよそ620人が死亡、540人近くが行方不明と明らかにしている)の半数がここチロブウェからと言われている」とマクブラムズさんは言う。ところどころに見える崩れた壁のがれきが土石流の威力を物語っていた。

大規模な土石流が発生した直後のチロブウェ地区=2023年3月15日、ブランタイア市で、ジャック・マクブラムズさん撮影

降雨が最も激しかったのは3月12日夜から翌未明にかけて。そのあいだに少なくとも3度の大きな土石流があったと証言するのは、住民であり神父のデビッド・チガンバさんだ。

「夜、轟音(ごうおん)が聞こえました。外で助けを求める声が聞こえて、泥とがれきの中から9人ほど救助しました。その後さらに雨が強まり、夜中の3時ごろ、また爆音がして、まんじりともしないまま朝を迎えました。目前の家が軒並み消えて、泥と岩だけになっていました」

チガンバさんの家は鼻の差で、土石流に巻き込まれずに助かったが、少なくとも家屋棟が流されたという。

「彼女が立っているところが何かわかりますか?」。そういってチガンバさんは背後の川で洗濯をしている少女を指さした。

「今は川底ですが、かつては家の床でした。そこに以前はなかった川が流れています。私が座っている所にも家がありました」

新たにできた川で服や鍋を洗うジャクリーン・ラウドンさん(12)。後方の山頂付近に斜面崩壊が見える。土石流の起点となったと思われる=2023年4月、ブランタイア市チロブウェ地区で、筆者撮影

経験したことのない恐怖と喪失は今もトラウマになっているというチガンバさんだが、何より心を痛めているのは、亡くなった住民の多くが子どもだったことだ。

「子どもたちは希望を持っていました。それがすべてついえてしまいました」

「ミラクルボーイ」に出会う

だんだんと日が落ち、空の青さは深まっていく。際立つ静けさの中で、「希望がついえた」という言葉が頭の中でリフレインしていた。そんな途方にくれた僕の姿を見かねたのか、マクブラムズさんが「ツナミを生き延びたミラクルボーイに会わないか」と提案してきた。

被災して両足を失いながらも奇跡的に生き延びた子どもが、たまたま彼のいとこの家で家事使用人として働く男性の息子なのだという。年齢は6歳で、名前をプロミス(望みがある、との意味)という。「重苦しいだけだと救いがないだろう?」。図星だった。

ソチ山の傾斜面に広がるソチ地区で大規模な土石流が発生した=2023年4月、ブランタイア市で、筆者撮影

翌々日、電話で連絡しておいたプロミス君の父親スティーブ・バンダさんを仕事場まで迎えに行った。バンダさんの家族はブランタイア市にあるソチ山の中腹に住んでいたが、土石流で地区は壊滅に瀕し、自宅を含めて一切合切を失った。一時は避難所となっていた学校に身を寄せていたが、プロミス君の退院後は、チロブウェ地区に近いトンダ地区で家を借りている。

トウモロコシ畑に覆われたなだらかな丘の一角に、彼らの住まいはあった。土壁の一間にバンダさんと中へ入ると、床に敷かれたゴザにブランケットをかぶった男の子が寝転んで目をキョロキョロさせていた。彼がプロミス君だった。

一体、何があったのか。まずはとにかく、被災した経緯を両親に振り返ってもらった。

災害が発生したのは3月13日月曜日の正午過ぎ。バンダさんは職場の家に、妻のメリーさんはプロミス君、下の娘のパメラちゃん、近所の年上の少年の4人でソチ地区の自宅にいた。

記録的な大雨が降り続く中、メリーさんは地鳴りのような音を聞く。戸外で様子を確認していると、あれよあれよという間に泥色の濁流が激しくなった。メリーさんは慌ててパメラちゃんを抱えて退避する。そして途中でプロミス君がいないことに気づくが、引き返すのは無理だった。「年上の少年と逃げ延びているはず」。何キロも離れた夫の職場へ走り、プロミス君の行方がわからないことを伝えた。

豪雨の影響で地面がえぐられたソチ地区の住宅街。青い壁の手前にバンダさんの家族は住んでいた=2023年4月、ブランタイア市で、筆者撮影

バンダさんはすぐに大人を数人引き連れ、裏道を通って現場に向かう。しかし、見慣れていた町並みは一変していた。「自宅があったあたりを暗くなるまで捜しました。避難所も回りましたが、息子は見つかりませんでした。それでもまだ希望を持っていました」

翌日も早朝から捜索を再開するが、現場の崩壊は目に見えてひどくなっていた。「もうダメかもしれない」。バンダさんが最悪の結果を考え始めていた頃、病院に運ばれてきた子どもがプロミス君ではないかと知人から連絡を受けた。

神に祈りながら病院に向かったが、すでに手遅れだった。「帰らぬ人」となっていたプロミス君は知人の女性が避難所に連れ帰ったと告げられた。次々と死傷者が運ばれてくる病院に、遺体を安置しておく場所はなかった。生き埋めになっている人もまだ大勢いる。そんな過酷な状況で遺体が発見されただけでも奇跡だと思い、悲嘆に暮れながら避難所に戻った。

しかし翌日、本当の奇跡は起きた。バンダさんが埋葬のための準備を進めていたところ、また電話が鳴った。「プロミス君ががれきの中から見つかったが、重傷で病院に搬送された」。地区長にあらためて遺体を確認させてほしいと頼んだ。メリーさんがすでに遺体確認を済ませているものと思い込んでいたからだが、思ったとおり、納体袋の中の遺体は見知らぬ子どものものだった。

そして夫婦は駆けつけた病院で、ついにプロミス君との再会を果たす。足のけがは手の施しようがないほど重傷で、予断を許さない状態だった。だが、そこでもプロミス君の強運は続いた。マラウイ随一の小児病院「マーシー・ジェームズ病院」(米国の歌手マドンナが開設、病院名はマドンナがマラウイから迎えた養女の名前にちなむ)に転院して、高度な手術を受けた結果、両足の切断を余儀なくされたが、一命は取り留めたのだった。

発見者の話によると、プロミス君は倒壊した家の中で冷蔵庫の下敷きになっていたが、結果的にその冷蔵庫が泥の流入を阻み、プロミス君の命を守ったのだという。

「生きて発見されたのは奇跡です。でも、足がなければこれからの彼の人生が厳しいものになるのは明らかだ」とバンダさんは硬い表情を崩さずに訴える。一方のメリーさんは、同じく「奇跡以外の何ものでもない」としながらも、「信じられないことが自分の人生に起きました。今は彼の生きている姿を見るだけで心から幸せです」と笑顔で語る。どちらも愛情深く、プロミス君の明日を照らす思いなのだということがよく伝わってきた。

そんな大人たちの話をそばでじっと聞いているのは退屈だったのだろう。プロミス君が「外で遊びたい」と言い出した。メリーさんがプロミス君を抱き抱えると、両足のひざから下がないのがあらわになった。切断箇所には紫色の消毒液が塗られている。かわいそうと感じないわけにはいかないのだが、それ以上に強く心を揺さぶられたのは、プロミス君の前歯がないことにふと気づいた瞬間だった。僕の三男がちょうどプロミス君と同じ年で同じように前歯が抜けているのだが、そんな息子の姿と、お母さんに抱き抱えられて照れ笑いするプロミス君がオーバーラップした時、あまりの痛ましさに胸が詰まり、目頭が熱くなった。

サイクロンによる土石流にまきこまれ、両足を失いながらも奇跡的に生き延びたプロミス君と母親のメリーさん=2023年4月、ブランタイア市で、筆者撮影

プロミス君の治療は一区切りつき、最後に病院から車いすが支給された。だが、それ以上の医療支援はもうなかった。自宅も家財も失っている。政府による生活再建支援の見通しもない。大人でも耐えがたい絶望的な状況だが、そんな苦境を押し返すように、プロミス君は毎日車いすの車輪を動かしてリハビリに励んでいる。なぜなら「他の子どもたちと同じように歩いて学校に通いたい」からだ。

「学校に通いたい」と車いすを使う練習に励むプロミス君=2023年5月、ブランタイア市で、筆者撮影

名前に恥じず、将来に望みを見いだそうと一歩を踏み出す姿に感服する。まさしくミラクルボーイだ。現場でそうひしひしと感じながらシャッターを切ったのは確かだ。

でも、日本に帰って、僕があらためて伝えなければならないと思ったのは、彼の「生きる」ことに挑戦する強さというよりは、むしろ、そんな彼の挑戦を大それた望みにしてしまっている今の世界のありようのほうだった。

言うまでもなく、プロミス君も僕の息子たちも、僕よりも長く生きる。もしかしたら22世紀まで生きるかもしれない。その時、地球の温度はもっと上昇しているかもしれないが、そんな異常な環境でも、未来を生きる彼らがせめて「生きていてよかった」と思える世界であってほしい。そのために、今を生きる僕たちが、今の世界に、今できることをする。そんな僕らの一挙手一投足が地球と人類の未来をかたちづくると、大げさではなく、思っている。