将来のパンデミックへの予防・備え・対応を今こそ

新型コロナウイルス感染症の新規感染者数はピーク時には世界で1日400万人に迫る勢いでしたが、現在ではその波も収まってきています。5月5日には、世界保健機関(WHO)が2020年1月以来の「緊急事態宣言」を解除しました。日本でも飲屋街に人があふれ、ゴールデンウィークは国内外ともに旅行客でにぎわっていました。コロナ前の活気が戻ってきたのはうれしいものですね。

しかし、コロナが収まってきた今だからこそ、やらなくてはならないことがあります。将来のパンデミックへの予防・備え・対応(Pandemic Prevention, Preparedness and Response, PPR)です。特に、のど元すぎると熱さを忘れがちな日本は、今回のコロナで得た教訓を整理して、PPRの戦略と行動計画を作り、実施に向けて動く必要があります。

中でも急ぐべきは、将来のパンデミック時に必要な診断・治療・ワクチンなどの「感染症危機対応医薬品等(Medical Countermeasures、MCM)」を迅速に開発して現場に届けるための戦略づくりと、その実践です。これに関する国際的な計画が、2021年にイギリスが主催したコーンウェルG7サミット(主要7カ国首脳会議)で提案された「100日ミッション計画(100 Days Mission、100DM)」です。将来パンデミックが発生した際に、MCMを100日以内に開発して必要な場所に届けようとの野心的なものです。

新型コロナワクチンを1年以内に開発できた要因とは?

ファイザー製ワクチンの接種の様子=2021年2月9日、エルサレム、朝日新聞社

今回のコロナ禍では、WHOが「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(PHEIC)」を宣言してから64日目で新型コロナのPCR検査法が承認され、138日目にステロイド剤(デキサメサゾン)が患者の重症化や死亡の低減に有効という臨床試験結果が報告され、236日目に迅速診断キット、336日目に最初のワクチンが承認されました。すなわち、パンデミック発生後1年以内に有効な診断・治療・ワクチンそれぞれの製品開発に成功したのです。

これは医薬品開発の過去の実績からみると驚くべき速さです。診断薬、治療薬、ワクチンによってその研究開発の難しさや要する年数・資金は異なりますが、コロナ禍以前に最速で開発されたワクチンは流行性耳下腺炎(いわゆる、おたふく風邪)ワクチンで4年間でした。通常、ワクチンや治療薬の研究開発には10年以上の期間が必要で、資金も500億円以上、時には1千億円以上もかかります。しかも、必ず成功するとは限りません。たとえば、HIV(エイズウイルス)ワクチンの研究開発にこれまで約40年の時間と膨大な費用をかけていますが、いまだに製品は上市されていません。

では、なぜ今回は1年以内に新型コロナワクチンが開発できたのでしょうか。

成功要因はいくつもあるのですが、最も重要なのは、その研究開発に費やした資源(資金・人材・技術)の大きさでしょう。パンデミックが始まってから約8カ月間に投入された新型コロナの研究資金は、世界で1兆円を超えています。これは、エイズ、結核、マラリアを含む20以上の感染症すべてを合わせた年間研究開発費の2倍以上の額です。

また、米国政府が進めた「ワープ・スピード作戦」、すなわちSFに出てくるワープ・スピード(光速を超えた速さ)のように速く、新型コロナのワクチンと治療薬の開発・製造・調達を実現するための計画では、拠出した資金(2021年3月までに192億8300万ドル)の規模が大きいだけでなく、官民連携を含む国際連携を加速化させました。これによって、感染症のみならず、がんやアレルギーなど様々な分野の専門家や研究者が参画し、政府、大学、企業など様々なセクター間、またベンチャー企業と巨大製薬企業との間のコラボも進みました。

中でも、がんの研究開発で使われていた「メッセンジャーRNA(mRNA)」の技術や、中東呼吸器症候群(MERS)や重症急性呼吸器症候群(SARS)といった他のコロナウイルスの研究開発で培った知見は、新型コロナワクチンの開発に大いに貢献しました。

さらに、通常であれば時間がかかり、手続きが煩雑な臨床試験や承認審査などのプロセスを効率化、そして迅速化しました。世界中で長期にわたり多くの感染者が発生したことで、世界各地で臨床試験を大規模に実施できたという面もありました。

100日ミッションの実現に必要なこと

検品作業を受ける新型コロナのワクチンを保管する超低温冷凍庫=2021年1月21日、相模原市中央区、朝日新聞社

このように新型コロナの研究開発はうまくいきましたが、その開発に要する日数を100日以内、すなわち今回の3分の1以下に短縮することは可能なのでしょうか。

「100日ミッション計画」ではこれを実現するために25の提言がなされ、2026年までにそれを実現するための行動計画、ロードマップが描かれています。これに基づいて定期的にその進捗(しんちょく)状況が分析され、2023年1月には第2回実施報告書が発表されています。私も、今年日本で開催されるG7サミットに向けた「G7グローバルヘルスタスクフォース」の中に設置された「100DMワーキンググループ」の座長をやっている関係で、100DMの推進に協力しています。

まず100日ミッションで重要なのは、世界的な感染症流行サーベイランス強化です。パンデミックにつながりそうな地域での流行とその病原体をいち早く同定するため、各国での検査体制や情報管理体制、また国際連携や協力を強める必要があります。

現在、ヒトに感染することが知られている病原体は約1400種ありますが、中でもパンデミックを引き起こす可能性の高いウイルスに対するプロトタイプのワクチンを準備しておくことも重要な要素です。プロトタイプワクチンとは、既知の病原体の流行株などで暫定的にワクチンを作っておき、実際にパンデミックが起こった時には、新たな株に合わせて遺伝子を入れ替えて、迅速にワクチンを開発・生産するものです。

ただし、哺乳類や鳥類だけでも160万種類以上の未知のウイルスを有しているといわれ、そこからヒトに伝播(でんぱ)する新たなウイルスが出てくるかもしれません。そのような場合にも、迅速にMCMを開発できるようなプラットフォーム技術も整備しておく必要があります。

WHOでは、パンデミックを引き起こす恐れのある病原体リストを作っており、そこにはCOVID-19、クリミアコンゴ出血熱、エボラ熱、マールブルク病ウイルス、ラッサ熱、SARS、中東呼吸器症候群コロナウイルス(MERS-CoV)、ニパおよびヘニパウイルス、リフトバレー熱、ジカ熱などが入っていますが、現在、その見直しや優先順位づけがなされています。

さらに、100DMの実現には臨床試験や審査承認プロセスの効率化・迅速化が必須で、そのためには国際的な連携や調整が必要です。

今回、336日目で有効なワクチンが承認されながら、500日目の時点でのワクチン接種率はアフリカにおいては人口の1%未満でした。アフリカやアジアなどの地域内でMCMを迅速に製造・分配・接種できる能力を構築する必要もあります。

そのため、私たちは「100DMプラス」として、MCMの研究開発のみならず、必要とする世界のすべての人に、迅速かつ公平に開発された医薬品が届けられるための国際連携協力、G7の貢献を、提言では強調しています。

諦めずに「アポロ計画」のようなイノベーションを

この他にも、100DMを実現するには、資金調達、知的財産、人材育成などさまざまな問題をクリアする必要があります。そのため、この100DMの実現に対して、特に日本においては懐疑的な意見を持つ人や、初めから無理だと諦める関係者もいます。

米国のジョン・F・ケネディ大統領は、1961年に「アポロ計画」支援を表明し、1969年末までに人類を月に着陸させると宣言しました。当時、それを可能とする技術も知識もなく、そんなことは無理だと考える人がほとんどだったでしょう。しかし、それがケネディの宣言通り、1969年に2人の宇宙飛行士がアポロ11号で月面に着陸できたのは、このような壮大な目標に向かって多くの人々が心をひとつにして全身全霊を捧げ、イノベーションを起こしていったからです。

100DMもこのような、困難だが実現すれば効果が大きい「ムーンショット」計画ですが、これを信じて戦略や行動計画を作り、真剣に支援する国と、初めから無理だと諦めて、戦略や行動計画も不明確な国では、大きな差が出てきます。

日本は今回のコロナ禍ではMCM開発で大きく後れをとりました。その要因はいくつもありますが、今この時期に、それらの教訓をしっかり整理して、戦略と行動計画を作り、将来のパンデミックには100DMの実現に大きく貢献してほしいと思います。

また、100DM実現に向けた努力は、将来のパンデミックのみならず、現在のパンデミックおよびエンデミック(局地的流行)を終息させるためにも必要です。現在、世界で流行している感染症には、結核やマラリア、顧みられない熱帯病(NTDs)など、国際的にはいまだ20億人以上の感染者がいながら、既存の診断・治療・ワクチンでは十分な対策ができません。

今年5月には、日本でG7広島サミットが開催され、長崎ではG7保健相会合も行われます。それに先立ち、G7グローバルヘルスタスクフォースの提言書を総理官邸で木原誠二官房副長官を介して岸田文雄総理にお渡しし、加藤勝信厚生労働大臣林芳正外務大臣にも手交しました。また、100DMワーキンググループの詳細な提言書も日本政府に届けています。

これらの提言はもちろん、日本政府だけに向けたものではありません。将来のパンデミックにおける100DMの達成には、各国政府、国際機関、民間企業、大学・研究機関、NGOなどが共通のビジョンや目的をもち、戦略的に連携協力をする必要があります。

この共通のビジョン作りや、産官学民の戦略的連携協力を促進する上でも、G7という政治的枠組みが大きな影響力をもちます。日本は今回のサミットの議長国として、将来のパンデミックへの備え、100DMプラスの実現に大いに貢献して欲しいと思います。