政治や経済を深掘りする朝日新聞デジタルの有料会員向けニュースレター「アナザーノート」で2023年3月26日に配信された記事です。アナザーノートを執筆するのは、政治や経済を専門として現場に精通している編集委員ら。普段は表に出さない話やエピソードを毎週日曜にお届けしています。読みたい方は、こちらから登録できます。

熱帯・亜熱帯の途上国を中心に蔓延(まんえん)し、「顧みられない熱帯病(NTDs)」と呼ばれる伝染病がある。20の疾患の総称で、世界で17億人が感染のリスクにさらされている。

貧しい患者が多く、提供しても売れる見込みがないために薬が普及しにくく、予防や治療が難しいという課題を抱える。国連はSDGs(持続可能な開発目標)の17のゴールの3番「すべての人に健康と福祉を」の中で、2030年までにNTDsを根絶する目標を掲げる。

アルツハイマー病の新しい治療薬「レカネマブ」が米国で迅速承認され、一躍注目を集めた製薬大手のエーザイが、NTDsのひとつ、リンパ系フィラリア症(LF)の治療薬「ジエチルカルバマジン錠(DEC(デック)錠)」を無償で提供していることはあまり知られていない。しかも、10年も前からだ。

すでに29カ国に20億錠以上を供給し、世界中でLFを制圧するまで無償での提供を続けると、世界保健機関(WHO)に約束している。日本企業で唯一の取り組みだ。

LFは病原体の寄生虫ミクロフィラリアが蚊を媒介して人のリンパ系に寄生し、リンパ液の流れが悪くなって、足が象のように腫れ上がったりする感染症だ。古くからある病気で、日本でも1970年代まで流行した。平安時代の記録も残っており、西郷隆盛が苦しんだことでも知られる。

がんと認知症の治療薬を主力とするエーザイはなぜ、どれだけつくって売っても1円の稼ぎにもならない感染症の治療薬を提供し続けるのか。

DEC錠=エーザイ提供

無償提供は1988年から経営トップを務める内藤晴夫・最高経営責任者(CEO)が決めた。2010年のことだ。当時、国際製薬団体連合会(IFPMA)の会長に就いていた内藤氏が、WHOのマーガレット・チャン事務局長(当時)からDEC錠の提供を要請されたのがきっかけだった。戦後にLFを根絶した日本の貢献に期待しての要請だったようだ。

LFの治療薬には英製薬大手グラクソ・スミスクライン(GSK)が提供するアルベンダゾール、ノーベル医学生理学賞を受賞した大村智・北里大特別栄誉教授の研究を基に、米製薬大手メルクが開発したイベルメクチンもある。DEC錠との併用による治療効果が高いが、LFの蔓延国は低所得国が多いため、リターンはまったく期待できない。

かつては日本にもDEC錠をつくるメーカーがあったが、当時は国内外を問わず量産する企業もなくなっていた。製薬業界全体でみても、必要量の確保さえ難しい状況だった。

WHOの要請に応えるべきか、否か。

難しい決断を迫られたとき、内藤氏の頭に浮かんだのは自社の定款だったという。

定款は会社の組織活動の根本原則を定める「憲法」のようなもの。エーザイの定款の第2条には、こんな企業理念が明文化されている。

「患者と生活者の喜怒哀楽を第一義に考え、そのベネフィット向上に貢献することを企業理念と定める。この企業理念のもとヒューマン・ヘルスケア(hhc)企業をめざす」「会社の使命は、患者と生活者の満足の増大である。(中略)その結果として売上、利益がもたらされる。この使命と結果の順序を重要と考える」

提供する薬が患者に貢献することが収益に結びつくのであって、もうかるから薬をつくるのではない。ゆめゆめ、この順番を間違えてはいけない――。この戒めがエーザイの定款をユニークなものにしている。

内藤氏は定款に照らして考え抜き、WHOの要請を受け入れた。感染国のインドに建設中だった自社の新工場で全量を生産し、供給するという経営判断を下した。

今月都内で開かれた経営方針説明会の冒頭。内藤氏は定款の第2条に触れてこう言った。

「健康憂慮の解消と医療較差の是正という社会善を効率的に実現することが、ビジネスの真骨頂になる」。DEC錠の無償提供もこうしたビジネスの一つで、長い目でみれば利益をもたらす事業と捉えている。採算度外視の寄付活動ではない、というわけだ。

象のように足が腫れるなどの症状が出た患者は仕事ができなくなる。流行が広がると経済活動に悪影響が及び、蔓延国はますます貧しくなる。無償提供で感染を食い止めれば国民の所得水準が底上げされ、いずれエーザイの薬を販売する市場が生まれる。そうなれば先進国との医療較差を是正するビジネスが可能になり、定款の理念を実現できる――。こんな長期構想に基づく息の長い事業なのだ。

リンパ系フィラリア症を発症して足が腫れた患者(右から2人目)とインドのエーザイ社員=同社提供

昨年、DEC錠を通じて得た途上国との結びつきも生かして、ようやく南アフリカ共和国にアフリカ初の販売会社を設立するところまでこぎつけた。アフリカでも先進国向けの薬の承認を徐々にとり、少しずつ自社で販売する体制を整えるという。「CEOの頭の中には、ゆくゆくはアルツハイマー病の治療薬を届けるんだという思いがあると思います」。同社サステナビリティ部の飛弾(ひだ)隆之・副部長はそう話す。

エーザイは日本の上場企業で初めて、定款に企業理念を定めた会社でもある。定款の変更には株主の3分の2以上の賛成が求められる特別決議が必要だが、05年の株主総会で可決された。短期的な利益を追求する株主から、長期的で、息の長い事業に反対を突きつけられても、株主も認めた定款に沿うものだと説明して事業をぶれずに続けやすくする効果が見込める。

長い目で応援してくれる株主の支持を集める工夫も凝らす。金銭に直接換算しづらい企業価値を説明する「統合報告書」に昨年、DEC錠の無償提供の社会的インパクトが年間約1600億円にのぼるとの試算を載せた。朝日新聞が1月に連載した「資本主義NEXT」でも紹介した非財務の企業価値を「見える化」する取り組みの一つだ。「投資家に好意的に評価されている」(安野達之・最高財務責任者)という。

財務上の利益はゼロでも、DEC錠をつくることでインドの工場の稼働率が向上して製造コストが下がったり、インドの社員の士気が高まって離職が減り、採用コストも下がったりするなど、無償提供がもたらすプラス効果も表れている。優秀な人材の獲得がその一つだ。途上国の医療をよくする仕事に就きたいと考える学生は多く、無償提供の取り組みを知って入社を希望する学生が増えている。

DEC錠の無償提供に共感してエーザイに入社したサステナビリティ部のオウ・イさん(左)と、飛弾隆之副部長。DEC錠の集団投与について紹介した=2023年2月21日、東京都文京区の本社

日本の大学・大学院で細胞生物学を学び、4年前に入社した中国出身のオウ・イさんもその一人。企業説明会で無償提供の取り組みを初めて知って応募し、今はサステナビリティ部でDEC錠のビジネスに携わる。

「これが一番やりたい仕事でした。理念が合うエーザイで働きたいと思いました」。流暢(りゅうちょう)な日本語で志望動機を教えてくれた。

立派な企業理念を掲げながら、かけ声倒れに終わる会社も少なくない中、エーザイは企業理念の浸透に力を入れる。これを担うCEO直轄の専門部署まである。

社内で大事にしているのが「hhc活動」。定款が掲げる「患者と生活者の喜怒哀楽」を知るため、毎年業務時間の1%を充てて、病気の患者や生活課題を抱える人々と一緒に過ごす活動で、国内外の全社員1万人超が必ず参加する。活動は年間500を超え、専門部署の知創部が支える。

薬を飲む習慣がないLFの蔓延国で住民に薬の飲み方を教え、DEC錠の集団投与に参加するのもその一つ。LFの制圧に向けた学びが続く。

知創部の加藤慶悟部長は言う。

「何度やっても、hhc活動は新しい気づきを得るんですよ」

3月9日には、東京都立文京盲学校に「ザーネ」ブランドのスキンケア商品を担当する社員3人の姿があった。卒業を控えた高校3年生にハンドケアの方法を教える授業を初めて企画し、手と手が触れ合う交流をした。

卒業を控えた高校生にハンドケアについて教えるエーザイコンシューマーhhc事業部の社員ら。右上が片山勇樹さん=2023年3月9日、東京都文京区の都立文京盲学校

講師役を務めた片山勇樹さんは、ハンドケアセラピストの資格を取ってから授業に臨んだ。「高校生が喜んでくれてうれしかった。きれいでいたいという気持ちは同じだと気づきました。どんな人も取り残さないような企業でありたい」

理念をお飾りにしない経営を垣間見た思いがした。