希望の音を再び ミャンマーのオーケストラで演奏した日々が育むもの
10年前、ある日本人音楽家が民政下のミャンマーでオーケストラを育て始めました。その成長を見守った玉懸光枝さんが、今は散り散りになった団員に思いをはせます。

10年前、ある日本人音楽家が民政下のミャンマーでオーケストラを育て始めました。その成長を見守った玉懸光枝さんが、今は散り散りになった団員に思いをはせます。
2021年2月、ミャンマー国軍はクーデターを起こし、国内を支配下に置きました。しかし国軍の支配に対する国民の抵抗は根強く、国内各地で抗議行動が続いています。また、少数民族の支配地域では、民主化を求める反国軍の市民たちと少数民族武装勢力が結びつき、武力衝突や国軍による空爆で多くの犠牲者が出ています。 ミャンマー国内の状況を日々記録する人権団体によると、クーデター発生の一昨年2月1日から今月上旬まで、命を落とした人は3800人以上。現在も1万9千人余りが抵抗運動により国軍側に拘束されています。 国軍は8月1日、拘束中の民主化運動指導者アウンサンスーチー氏(78)に減刑の恩赦を与えるなど「柔軟」な姿勢を示しましたが、国民が望む民主化への歩みには程遠く、事態の好転は望むことが難しいようです。ミャンマーは2011年の民政移管により、当時の軍事政権による非民主主義的な支配から、一瞬の解放を勝ち取りました。しかし数十年にわたる命がけの闘争で得た自由と平和は、すぐにかき消されてしまいました。
このコラムは、民政下のミャンマーで活動したオーケストラと、日本人たちの物語です。当時、日本との間を往復して楽団に参加した国際協力の専門家、玉懸光枝さんは、「この物語は決して消えない。希望の音に耳を澄まそう」とつづります。
2020年2月、ミャンマーの最大都市ヤンゴン。改修中の国立劇場の代わりにホテルのボールルームで開かれた国立管弦楽団の定期公演のステージに、私は立っていた。ひょんなことから楽団と一緒にチェロを演奏するようになって丸3年が経っていた。どの公演もそれぞれに思い出深いが、この日のステージは二つの意味で 、忘れることはないだろう。
プログラムに対して個人的に特別な思い入れがあったというのが、一つ目の理由だ。 この年もさまざまな楽曲を演奏したが、その中に「両親の愛情は海よりも深く尊い」という意味のミャンマー歌曲があった。美しくて物悲しいその旋律を、私はひと月前に急逝した母を思い、ぐちゃぐちゃに泣きながら弾いた。
この年のステージは私にとって、常に最強の応援者でいてくれた母との別れを乗り越え、再び進み始める決意を表す場になったはずだった。来年こそは笑顔で、この人たちとまた演奏するから見ていてね――。胸の中で母に呼びかけた誓いを、しかし私は果たすことができなかった。 幕が上がったのは、この年が最後になったからだ。音楽を演奏できることを喜び、 レベルアップしていくことを信じて練習に励んでいた楽団員たちや、失われた音色を蘇らせようと楽団の再興を後押しし、人々に愛され、国際社会に誇れる存在になるまで育てようと奮闘していた関係者たちの思いは、すべて断たれてしまった。同じメンバーで再びステージに立ち、共に演奏することは、もうない。これが、二つ目の理由だ。
楽団と出会ったのは、2017年2月のことだった。何度目かの出張でミャンマーに滞在中、 ヤンゴン市内で開かれたコンサートに友人が案内してくれたのだ。満月の夜。演奏は洗練されているとは言い難かったが、オフィスビルの中庭で月の光に照らされながらベートーベンの交響曲第3番「英雄」や、「埴生(はにゅう)の宿」などを奏でる楽団員たちは、実に生き生きとして、楽しそうだった。
終演後に指揮者兼チェリストの山本祐ノ介さんと、パートナーでピアニストの小山京子さんを紹介され、後日、都内の仕事場を訪ねると、2人の話は尽きなかった。
夫妻は知り合いの案内で2013年に初めてミャンマーを訪れ、好奇心から練習場に立ち寄った。楽器は満足に手入れされていなかったうえ、楽譜もそろっておらず驚いたが、 一日限りの交流を楽しむつもりでシューベルトの交響曲第8番「未完成」を指揮したり、ピアノを弾いたりしてホテルに戻った。 その夜、メンバーの一人が電話をかけてきて、「失われた音色を取り戻したい。力を貸してほしい」と頼まれたという。その熱意に胸打たれ、電話を切った時にはまた来ると約束していた。最初のうちは報酬どころか交通費も出るあてがなく、手弁当で行き来していた。 団員たちは副業に忙しく遅刻や欠勤が当たり前。 グランドピアノがあると聞き行ってみると鍵盤は波打ち、蓋を開けると中から女性用の下着が出て来たこともあったという。
「楽器を弾く以前の問題が多くてね」。珍事件や苦労話を次々と披露しながらそう繰り返す言葉とは裏腹に、団員たちの写真に見入る2人の横顔は優しく、深い愛情が伝わってきた。「このオーケストラがミャンマーの人々に愛され、誇りに思われる存在になるまで育てたいのです」という山本さんの熱い言葉に胸が高鳴り、気づけば「私も大学オケでチェロを弾いていたんです。今度、写真を撮りに伺ってもいいですか」と、口走っていた。
次に出張した時、待ち焦がれた週末の朝にさっそく練習場を訪ねると、山本さんからご自身のチェロをひょいっと手渡された。その瞬間、撮影のことなどきれいに忘れた。夢中で弾き終えると、さらに思いがけない展開が待っていた。満面の笑顔で山本さんがこう言ったのだ。「良ければ本番もぜひ、ご一緒に」
こうして、仕事や出張の合間をぬって、東京とヤンゴンを行き来する生活が始まった。格安航空券やマイレージを駆使し、金曜の仕事終わりに日本を発ち、土曜の朝に空港から練習場に直行。翌日曜も練習に参加した後、深夜便に乗って月曜の朝に帰国し、そのまま出社したこともある。図体の大きなチェロを機内に持ち込むと、1人分余計に料金を支払う必要があるため、ヤンゴン市内を探し回って中国製の安価なものを調達し、楽器庫に置かせてもらうことにした。
時間とお金をやりくりしてオケ活動に精を出しながら、山本夫妻の熱い思いが多くの人々の心を動かして支援が広がっていく様子を目の当たりにした。夫妻の手弁当で始まった活動は、2014年から国際交流基金の助成を受けられるようになり、協賛金や会場提供などの形で協力してくれる企業も増えていった。オーボエやホルン、バイオリンなど、日本で活躍する音楽家たちが次々とボランティアで指導に加わり、コンサートにはピアノ調律師や録音技術者、弦楽器製作者などの職人たちも駆け付けた。
2018年には、東京・大田区の区民ホールの閉館に伴い、グランドピアノ2台が海を越えて寄贈されたし、2019年初頭には、国際交流基金が日本から招いた尺八、箏(そう)、三味線、太鼓の邦楽奏者4人とオーケストラが共演。当日は、ミャンマーの伝統楽器であるサインワイン奏者や舞踊団も招かれ、異色の舞台が実現した。
日本側の情熱に応えるように、楽団員たちもみるみる変わっていった。副業に追われて時間になってもそろわず、電話がかかってくれば練習中でも躊躇(ちゅうちょ)なく出ていた彼らが、早めに練習場に来て個人練習を始め、楽器ごとに分奏を繰り返し、無頓着だったボーイングをそろえようと休憩時間に弓順の指示を書き写すようになったのだ。
もっとも、指揮と楽譜を同時に見ることは難易度が高かったようで、譜面に集中するあまりタクトが止まってからもしばらく音が鳴り続けることは日常茶飯事。冷房が利き過ぎて寒いほどの練習場でただ一人汗だくの山本さんが、指揮台の上から30分に1度は「チーバ! チーバ!(見て!見て!)」と叫ぶのも、お決まりだった。それでも、弾けなかったフレーズを弾けるようになって得意げに笑う団員たちはひたむきで微笑ましく、彼らを見守る日本人も皆、あたたかかった。技術指導と国際交流のただなかにいることを実感する時間だった。
「オーケストラをミャンマー人に愛される存在にしたい」という言葉通り、山本さんはオーケストラを身近に楽しんでもらうための工夫を惜しまなかった。ヤンゴンやネピドーで年に一度行う定期公演では、クラシック音楽に加え、ミャンマーの人々に親しまれている祭りの曲などをオーケストラ用に編曲して演目に入れたし、伝統楽器とも積極的に共演した。枠にとらわれない柔軟なその姿勢は、かつてテレビ番組「オーケストラがやって来た」で、ポップスや歌謡曲、演歌と同じようにクラシック音楽を楽しくカジュアルに紹介することで普及と大衆化に大きな足跡を残した、山本さんの父で指揮者の山本直純さんの取り組みを追体験しているかのようだった。
2017年11月にネピドーで開かれたアジア欧州会議外相会合のガラディナーでの演奏は、「国際会議の舞台で演奏を披露できるオーケストラになろう」という楽団の悲願が実現した瞬間だった。ガラディナーと、2019年1月のネピドー公演の客席には、アウンサンスーチー氏の姿もあった。多くの人々の応援を受けて再スタートを切ったオーケストラの歩みは、2011年の「民政移管」を経てミャンマーが国際社会に復帰していく歩み、そして国際社会がミャンマーを受け入れる歩みとも重なるものだった。
しかし、その行く手に再び残酷な歴史が立ちはだかる。2020年初頭より世界中に新型コロナウイルスが広がり、感染者が急増。各国は国境を閉ざし、国内にはロックダウンを敷くなど、対応に追われた。ミャンマーでも、国際線の運休が相次ぎ、団員が集まって練習することもできなくなった。
さらに、1年後の2021年2月1日には軍事クーデターが発生する。練習場があった国営テレビ局は、ヤンゴン市庁舎とともに真っ先に軍に掌握された。見慣れた景色が装甲車で埋め尽くされていく映像に言葉を失いながら、友人たちや団員たちを思い、懸命に情報を追い続けた。
残念ながら状況は悪化の一途をたどる。クーデターを認めない市民に軍は発砲し、犠牲者や拘束者は増加し続け、衝撃的なニュースやさまざまな悲劇が連日、伝わってきた。国際社会に懸命に救いを求める人々の叫びだった。今日に続いて来るはずだった明日、将来の夢、人と人の絆、そして、当たり前に続いていたはずの命。あの日以来、奪われ、破壊されたものの多さと理不尽さに悲しさと悔しさがこみ上げると同時に、天災などではなく、人の暴力によるものだという事実に、一層の怒りを覚える。
クーデターが起きた直後、以前から迫害されていた少数派イスラム教徒ロヒンギャに対してビルマ族の若者が「これまであなたたちの訴えに耳を傾けず申し訳ない」と謝罪するなど、新たな連帯が生まれていることが伝えられ、希望を感じた。しかしその一方で、さまざまな分断と別れもまた、新たに生まれている。軍対市民という単純な 対立にとどまらない、主張や立場を異にする人々同士の新たな対立が顕在化し、否定と排除がミャンマーを覆いつつあるように思う。
一緒に演奏していた団員たちも、楽団に残って音楽を続けている人もいれば、故郷の村に戻った人、海外で新たな生活を始めた人、デモ隊の後方支援をしたとして一時、拘束された人、そして、楽器を武器に持ち替えて山の中で戦っている人まで、いまや立場も思想もバラバラだ。コロナ禍の最中に亡くなった団員もおり、今後、彼らが再び集い、一緒に舞台に上がって演奏することは、かなわない。
山本夫妻は、彼らが昔、練習場で撮ったスナップやコンサートの写真をSNSの思い出機能を使ってアップして「あの頃が懐かしい」と書き込んでいるのを見るたびに胸がつぶれる思いだと話す。「どの立場の人たちも、今が幸せそうではない様子にたまらなくなります」。団員たちの名前や腕前はもちろん、家族構成や子どもの名前まで覚えて可愛がっていた夫妻の沈痛な言葉に、胸をつかれる。
しかし、最後になったあのステージを私が忘れられずにいるように、楽団員たちの中にも、ともに演奏した調べが今も響き続け、あの日々の記憶をそれぞれに大切にしていることに、かすかなうれしさも感じると言っては不謹慎だろうか。
母を思いながら演奏したあのステージの後、団員たちとの再会はかなわぬまま、私はさらにいくつかの別離を経験し、父も見送った。戦禍にある人々と安易に比べるべきではないと承知しているが、大切にしていたものを次々と奪われる痛みに寄り添い、理解したいと思う。同時に、別れを余儀なくされ、たとえ二度と会えなくても、共に過ごし、同じ夢を見ていた時間は消えないことを信じたいとも思う。試練が重なり、希望が消えてしまったかのように思えても、あの時に見ていた景色が胸に残っている限り、それでもやはり耳を澄ませ、希望の音色に耳をそばだてながら進んでいきたい。