「3年B組金八先生」や「マー姉ちゃん」、「翔ぶが如く」など数々のドラマ脚本を手がけた小山内美江子さんが2日、亡くなりました。小山内さんは、60歳だった1990年にヨルダンで湾岸戦争の難民支援活動に関わったことをきっかけに、国際協力のボランティア活動にも本格的に取り組み始め、中でも内戦で荒廃したカンボジアでは、自らNPOを立ち上げ、学校建設を進めてきました。活動当初から交流のあった国際協力NGO「シャンティ国際ボランティア会」(SVA)の元プノンペン事務所長で、プノンペン日本人会の会長も務めたことのある手束耕治さん(69)=プノンペン在住=に小山内さんとの思い出などを語ってもらいました。 

和平直後からカンボジア支援

小山内さんについては、1991年のカンボジア和平直後から、NGO「日本国際救援行動委員会(JIRAC)」の一員として、俳優の二谷英明さん(故人)とともに、カンボジアの難民帰還のボランティアをされていると聞いていました。同じ年に私たちはSVAプノンペン事務所を立ち上げ、印刷技術などを教える職業訓練所を開設しました。

当時は、日本から来た学生や社会人など、JIRACの若いボランティアたちが、プノンペンに戻ってきた住民らを一時避難センターのような場所に迎え入れる活動をしていた、と記憶しています。その後1993年に、小山内さんらがJIRACの中に「カンボジアのこどもに学校をつくる会」(現「JHP・学校をつくる会」)が設立されたのがきっかけで、プノンペンで初めてお目にかかることになりました。

「カンボジアのこどもに学校をつくる会」を設立した脚本家・小山内美江子さん=1996年8月9日、東京・赤坂、朝日新聞社

私が所属していたSVAは1991年からカンボジア国内で学校建設を手がけ、最初の学校ができたのは同年12月ごろでした。小山内さんからは「学校建設を始めたいのだが、ノウハウなど分からないことが多いため、ぜひお話を聞かせて欲しい」と依頼がありました。プノンペン市内の事務所までわざわざ足を運んでいただいたのです。小山内さんがとりわけ関心を持たれていたのが、教育の現状や課題でした。

学校建設は400棟近くに

カンボジアでは、1970年代から続いていた内戦下、共産主義を掲げて発足したポル・ポト政権が、「資本主義を教え込むもの」と教育を敵視し、学校を次々に破壊し、教員を虐殺しました。そのため内戦終結後のカンボジアでは、学校再建が国の復興の柱の一つとされ、その担い手として、国際NGOに対する期待はとても大きなものがありました。一方で、長い間、周辺国から孤立してきたカンボジアでは、資材の調達ひとつとっても容易ではなく、さらに大工さんや技術者の多くが殺されてしまい、きちんと仕事ができる業者は数えるほどしかありませんでした。

実際の図面を見ながら、きちんとした業者を選ぶことや、住民が参加する建設委員会の設置の重要性、教育省には教員の派遣などを約束してもらうこと、完成後のメンテナンスの契約など、具体的なノウハウを共有しながら、小山内さんには現状や課題などを詳しくお伝えしました。

脚本家としてすでに有名な方でしたので、「どんな方だろう」とお目にかかるのを楽しみにしていました。実際お会いすると、とても腰が低く、親しみやすい方でした。大変熱心に話を聞いておられ、本気度が伝わってきました。当時はとにかく学校の絶対数が足りませんでしたから、「互いに協力しながら、ぜひ一緒にやっていきましょう」と意気投合したことを覚えています。

小山内さんのJHPは、カンボジア政府の要請を受けて、全国各地で学校を建設してきました。これまで400棟近くつくられていると聞いていますが、特に地方には資材も人材もほとんどおらず、首都からセメントや木材などを運ぶにしても、道路などのインフラが破壊され、ほとんど機能しないという、とても厳しい場所でした。それにもかかわらず、これだけの実績を残していることは、本当にすごいことだと思います。SVAとも、現地スタッフ同士で、いろいろな情報交換をしていたと思います。

カンボジア西部の都市バッタンバンで、新学期が始まり小学校に通う子どもたち=1989年9月11日、カンボジア・バッタンバンのスパイパオ小学校、朝日新聞社

変わらぬ「人づくり」への信念

その後、JHPは、学校建設だけでなく、音楽教育や識字教育にも力を入れるようになりました。根底には、国を立て直すためには、人づくりが大事だという強い思い、信念があったのだと思います。小山内さんはお元気なころは年に2、3度、プノンペンに来られていたでしょうか。機会があるごとに、私もお目にかかり、とりわけ教育について、互いに熱く語り合ったことを思い出します。

カンボジアの若者の教育だけでなく、小山内さんは、日本の若者を育てたいという強い情熱をお持ちでした。夏休みや春休みなどに、若者が20~30人やってきて、帰還難民センターでボランティア活動をしていました。学校建設が始まってからは、遊具づくりなどを手伝ったり、村の人たちとの交流をしたりしていました。おそろいのオレンジのTシャツを着ているので、とても目立っていましたね。小山内さんはその時もご一緒に来られていました。二谷さんや渡哲也さん(故人)、藤原紀香さんなど、有名な方を連れていらっしゃることもありました。

カンボジア大使を務めた今川幸雄さんとともに、来日したカンボジアの子どもたちに囲まれる脚本家の小山内美江子さん(右)=2007年10月31日、東京都港区、朝日新聞社

プノンペン日本人学校の校歌に込めた思い

小山内さんをめぐるエピソードがもう一つあります。プノンペンには、日本人学校が2015年に開校しました。そこで校歌をつくることになり、日本人会の理事らと話し合って、小山内さんに歌詞をお願いしようということになりました。すぐに快諾していただき、2016年末にお披露目することができました。発表会では、小山内さんのメッセージや藤原紀香さんが歌ったビデオが流れたことも良い思い出です。

プノンペン日本人学校 校歌

(作詞・小山内美江子)

 

若い命がきらめいて

此処(ここ)は希望の国 カンボジア

友と学び 歌い駆けて

広い空の下に 集い合う

我らが母校

ああ プノンペン日本人学校

 

若い希望が輝いて

此処は魂の里 カンボジア

友よ 片寄せて 

競い合おう

美しい汗がはじけラララララ

我らが母校

ああ プノンペン日本人学校 

在カンボジア日本大使館がまとめたところによると、内戦後、日本の官民がカンボジア国内で建てた学校は1千棟にのぼるそうです。他の援助国と比べても、その数はダントツです。そのうちの半数近くがJHPによるものです。やはり小山内さんの人柄や魅力、そしてカリスマ性が、多くの支援者を引き寄せたのではないでしょうか。

最後にお会いしたのは7、8年前でしょうか。知己を得てから30年余りになりますが、小山内さんは常に情熱を持ち続け、それは決して衰えることがありませんでした。そして常にカンボジアの子供たちの将来を考えていらっしゃいました。「金八先生」の作品を手がけられただけに、教育についてものすごく関心があったのでしょうね。さらに「日本の若者に元気を与えたい」「世界で活躍する人材に育って欲しい」ということを常々おっしゃっていたことも強く印象に残っています。(談)

手束耕治(てづかこうじ)

駒澤大学仏教学修士課程在学中に南北問題に目覚め、卒業後1984年に曹洞宗国際ボランティア会(当時)に入会し、タイに赴任。カオダイン・カンボジア難民キャンプにて青少年活動を担当。2年後、バンビナイ・ラオス難民キャンプ事業を統括。1991年3月、プノンペン事務所を開設し、教育文化支援事業開始。1999年東京事務所に帰任。2004年家族と共にカンボジアに再赴任。2014年同会を退職し、現在に至る。シャンティ専門アドバイザー、カンボジア宗教省仏教研究所顧問、NPOハート・オブ・ゴールド東南アジア事務所副所長。