伝統的産婆の知恵をどう生かすか データで見えない「生き抜く力」
かつて途上国の農村では産婆が時に医師のような役割も担い、受け入れられてきました。忘れられようとしているその知恵を再評価できないか。高山義浩さんが考えました。

かつて途上国の農村では産婆が時に医師のような役割も担い、受け入れられてきました。忘れられようとしているその知恵を再評価できないか。高山義浩さんが考えました。
沖縄県の公立病院で主に感染症診療に従事する内科医で、海外では認定NPO法人ロシナンテスの理事として、貧困や紛争などの課題を持つ世界の国・地域で保健医療協力に取り組んでいる高山義浩さん。高山さんが、現場で見て、感じたリアルを伝えます。
90年代のことですが、カンボジアでフィールド調査をしていたときに、イェイ・モーと呼ばれる伝統的産婆について歩いたことがありました。カンボジアの村では、たくさんの子を産み、そして元気に育て上げた女性がイェイ・モーとなるのが慣わしでした。
お産の介助後、イェイ・モーは臍帯(さいたい)を紐で結紮(けっさつ)し、沸かした湯につけていた剃刀で切離します。断端はクモの巣で覆って、布でグルグル巻きにします。大泉門(新生児にある頭の骨の隙間)から悪霊が入らないように、練った小麦粉で頭頂部に蓋をすることも大切です。
臍帯断端をクモの巣で覆うことは、私たちの感覚からは不衛生に思えますが、これには感染予防の効果があると信じられています。そもそもタンパク質であるクモの糸は、その抗菌性によって何年も天井裏でフラフラしていられるわけで……。このように、クモの巣を化膿止めに使用する伝統医療は世界でも少なくありません。もちろん、現代科学の観点からは、クモの巣を直接傷口に使用することは推奨されません。
イェイ・モーは、子供に名前がつくまでが自分の仕事だと言います。日本とは異なり、カンボジアの農村では産まれてすぐに名前が与えられません。もっぱら1年。長いときには数年ものあいだ、名前のないまま「可愛い子ちゃん」とか「坊や」とだけ呼ばれ続けます。
おそらくそれは、乳幼児の死亡が多いという現実によるものでした。名前がつくと、なおさら情が移ります。記憶に残ります。その子が無事に育つという確信が得られるまで、名前を付けずに育てるのかもしれません。ちなみに、名前が与えられる前に死んだ子どもには、葬儀も行われません。人間ではなく、精霊としての扱いでした。
カンボジアの村では、出産は2段階にわたるわけですね。1回目の生物学的出産。そして、2回目は「命名」という社会的出産です。イェイ・モーはこの社会的出産まで母児を支援します。だから、イェイ・モーの家には、いつも赤ん坊を連れた母親が集っていました。イェイ・モーは、村の小児科医でもあるのです。
さて……現在、私が母子保健活動に関わっているザンビアでの話です。
2017年にザンビア政府が実施した調査では、5歳未満の幼児のうち出生届が提出されていたのは、14%に過ぎなかったそうです。また、都市部の子どもの25%が登録されているのに対し、農村部はわずか8%に過ぎませんでした。
すべての出生を登録する必要がある……というのは、国連のSDGs(持続可能な開発目標)のターゲットにもなっています。なぜなら、登録されていない子ども、公式の名前が与えられていない子どもは、社会から締め出される危険性があるからです。この目標から、ザンビアは程遠いことが分かります。
ザンビア政府は、プライドをかけて出生登録を進めようとしています。そのためには、管理された出産が不可欠です。また、妊産婦や新生児の死亡を減らすためにも、医療施設での分娩を促進する必要があるとして、伝統的な産婆による助産を違法としました。
ときに途上国は……事を急ぎすぎることがあります。いや、急かされているとも言えます。SDGsがそうであるように、近年はデータで進捗を判断する傾向が強まっており、国際社会にプロセス指標を示す必要に迫られているのです。
「乳幼児死亡率」や「妊産婦死亡率」といったアウトカム指標は、すぐには改善していきません。このため、「医療施設における出産率」といったプロセス指標を高めることで、取り組み状況を報告しなければならないのでしょう。
ただ、いまのザンビアでは、いくら医療施設を作ったとしても医療従事者がいません。政府が産婆を禁じても、教育を受けた助産師が湧いて出てくるわけではありません。まあ、どこの国でも、政府のむちゃぶりに対して、現場は上手に適応していくものですが……。
私たちが活動している地域で、伝統的産婆が何をしているのか調べてみました。その多くが、新たに整備された母子保健推進員(SMAG)として、「近代的な」研修を経て、母子の健康を見守る活動のボランティアに従事しているようでした。
実際、何時間も歩かなければ着かないヘルスセンターよりも、身近な産婆のほうが頼りになることも多いはず。長い歴史のなかで地域住民に文化として受け入れられてきたヘルスケアについて、近代科学の価値観や短期的なプロセス指標の改善だけで否定するべきではありません。医学的に許容できない風習については修正を提案しながらも、伝統が果たしてきた役割に敬意をもつことも必要です。
データでは見えてこない知恵こそが、本当の意味で……その村の生き抜く力にもなっているはず。社会の急速な変化のなかで、どのように伝統を再評価していくのか? そこを忘れずにプロジェクトを進めていくことが、NGOらしさではないかと私は思っています。