増え続ける国境の避難民 タイ国内のミャンマー人へ続く支援
弾圧や戦闘を逃れて国境を越えるミャンマーの人々が増えています。タイ北部の国境の街メソトでの支援活動の様子を、写真家の亀山仁さんが伝えます。

弾圧や戦闘を逃れて国境を越えるミャンマーの人々が増えています。タイ北部の国境の街メソトでの支援活動の様子を、写真家の亀山仁さんが伝えます。
2021年2月、国軍がクーデターで実権を握り、民主化勢力や少数民族勢力と武力衝突を続けるミャンマー。多くの国民が犠牲になり、生活が破壊されてもなお、事態打開の糸口すら見えない。弾圧や戦闘から隣国タイへ逃れる人たちが多く暮らすタイ北部ターク県メソト。国境の街を訪れ、彼らへの支援活動に協力する写真家の亀山仁さんが現地の様子を伝える。
子どもたちは慣れない折り畳み傘に手間取っていたが先生たちの手助けで開くと無邪気に傘を手に走ったり、青空に高く持ち上げて回したりして、精いっぱいの喜びを表現していた。
2024年8月、私は一般社団法人「ミャンマーの平和を創る会」(以下、平和を創る会)のメンバーと一緒に、タイ北部ターク県のメソトを訪れた。メソトはミャンマーのカレン州ミャワディに接する国境の街で、貿易の物流や人の往来の拠点になっている。
カレン州では、少数民族とミャンマー国軍とが長く戦闘状態にあり、多くの人々が国内避難民となっていた。2012年1月にはミャンマー国軍と少数民族武装勢力のカレン民族同盟が停戦合意に至るなど平和な社会の構築が期待されたが、2021年2月にはミャンマー国軍がクーデターで実権を握り、国内はまた不安定な状況に陥ってしまった。メソトにも、ミャンマー国軍の弾圧から逃れた人たちや仕事を求めタイ側へ来た人たちが暮らしていた。軍事クーデター以降、その数は増え続けている。
「平和を創る会」は2022年8月、在日ミャンマー人と日本人有志でミャンマーでの平和の実現を願い立ち上げられた。愛称を「チィチィキンキン」という。ミャンマーの言葉で「仲良し」という意味だ。争うことなく、皆で仲良く平和な社会を創っていきたいとの思いを込めて、活動している。
主な活動は、日本国内で支援を募りミャンマーの国内外で避難生活を余儀なくされている人たちに支援を届けることだ。私が同行した時は、避難民キャンプや現地の学校へ食料品や日用品、文房具など地元の支援団体の協力を得て届けた。
加えて、雨期に備えて日本で雨具の支援を募り、折り畳み傘181本、レインコート144着をミャンマーからの移民や避難民の子どもたちに届けた。傘を手に走り回る様子を見て、「平和を創る会」の仲間の一人が、「傘1本でここまで喜んでくれるとは思ってなかった。ここの子どもたちの多くは親と離れ離れになっていたり、中には親を殺されたり、想像を絶するような経験してきている。傘1本で少しの間でもそれを忘れて喜んでくれるなら、それだけでもここまで来てよかった」と話していた。
こうした支援の一方で、私は避難民キャンプに米や野菜、油などを届けた時のリーダーの女性の言葉が印象に残っている。最近の状況や困っていることを聞いた際、彼女はこう言った。
「できることなら、仕事をして稼いで暮らしていきたい、支援に頼った生活を続けたいと思う人はここには居ない」
不安定な在留資格や移動の制限など厳しい生活を強いられているなかで、自分たちの村へ戻れない現実と向き合い、少しでも自活の道を探す彼女の本音なのだろう。
メソトには、ミャンマーからの移民や避難民の子どもたちが通う学校がある。「学校」と書いているが正確には「移民学習センター(Migrant Learning Center)」であり、タイの公立学校として認められないため、ここを卒業してもタイの公立高校や大学へ進学することは困難になっている。
この学校を訪れるのは2023年8月と12月に続いて今回で3度目になる。校長先生から、今も入学希望者が増え続け、受け入れたいが教室も寮も足りず断っているという話を聞いた。学校には、親がいない子どもたちのために寮が必要だ。「親がいない」と言っても、子どもたちだけで逃げてきた場合や、親が養育できずに育児放棄された場合、親が国軍に殺された場合など事情はさまざまだ。校長先生はできるだけそのような子どもたちを優先して受け入れたいが、資金や教員の確保など限界があると話す。
ただ、絶望ばかりではない。「ご存じの通り、ミャンマーはビルマ族をはじめ多くの民族が暮らしている。長い歴史の中で民族同士の争いが絶えなかった。ここで暮らす子どもたちも、さまざまな民族、宗教などのバックグラウンドを持っているが、みんなで協力して暮らしている。私はこの子たちが将来、民族を超えた国をつくってくれると信じている」と校長は話してくれた。
校長だけでなく、現地の支援団体や避難所の他の大人たちからも同じような話を聞いた。現状に希望を見出すことは難しいが、子どもたちの未来に国の将来を託す気持ちは強く伝わってきた。
私は、2005年に知り合いの写真家が主催したミャンマーでの撮影ツアーに参加したことを契機にミャンマーを訪れるようになった。
当時は軍事政権下であったが、訪れて撮影をすることはできた。何度も通ううちに2011年、国軍出身のテインセイン大統領が就任し、自宅軟禁中だったアウンサンスーチー氏を解放。メディアの検閲が廃止され、欧米の経済制裁が解除され、民主化と経済発展が始まった。
国が大きく変わる時期に立ち会えたことに幸運を感じながら、私はミャンマーでの撮影を続けていた。ミャンマーの写真展を開催したり写真集を出版したりして、日本の人たちがミャンマーに興味を持ち、直接訪れるきっかけになって欲しいと写真作家としての活動を続けていた。
しかし2021年に軍事クーデターで状況が一変した。民主化の歯車は逆行し、ミャンマー国内での撮影が難しくなった。2023年8月、私は友人や長年タイ国境地域の支援を続けている方々からアドバイスをもらい、タイのミャンマー国境にあるメソトに向かった。正直、ミャンマー東部タイ国境地域で内戦が続いていたことは知ってはいたが、実際に訪れたことはなかった。しかしここでの二つの出会いが、私のミャンマーとのつながりをさらに深めることになったのだ。
その出会いの一つは「メータオ・クリニック」だ。メータオ・クリニックは、メソトのミャンマーコミュニティーを象徴する存在だ。1989年にシンシアマウン医師が仲間と設立した移民や避難民のための総合診療所で、軍事政権による迫害や弾圧などによってタイに逃れて来た人々、貧困により国内では医療を受けられない人々のために、必要な医療を原則無料で提供し続けている。診療所であるが、出生証明の発行、移民や避難民のための学校や少数民族の健康・医療など、地域のミャンマー社会の中心を担っている。ここには日本から医療従事者を派遣しサポートを続けているNPO法人「メータオ・クリニック支援の会(以下JAM)」の人たちがおり、この地域やクリニックの歴史を知ることができた。
もう一つの出会いは、メソトで暮らすカレン州出身の画家、マウンマウンティン氏だ。彼の作品はカレンダーやポストカードで見ていたが初めて会ったのは2023年8月だった。彼は1995年にメータオ・クリニックで医療訓練を受け、病院助手として移民や難民のために働くかたわら、絵を描き始め、現在は画家として国境の向こうの故郷や、タイで暮らすミャンマーの人たちを描いている。彼の絵からは、故郷の人たちの置かれた状況や訴えが伝わり、彼の立ち振る舞いや言葉も強く印象に残った。
2024年4月、JAM主催でマウンマウンティン氏の絵画展を東京で開催することになり、私も会場探しや展示作業などを手伝うことになった。
絵画展は作品を大きく二つに分けて展示することを考えた。一つはクーデター以前の日常を描いた作品、もう一つはクーデター以降の非日常を伝える作品。判断に迷う作品もあったが、おおよそこの分類を基準に並べた展示案を作った。
それぞれの絵には、タイトルのほかに詩がそえてあり、描かれた年も書いてあった。私がクーデター後の作品と判断していた絵の中に、クーデター以前の絵が何点かあった。2019年に発行された彼の画集「STILL On The Border」には、戦闘から逃げる人々やけがをした子どもなど、クーデター後にソーシャルメディアを通じて伝えられたミャンマーの光景と重なる様子が描かれていた。30年以上前に故郷のカレン州の小さな村から逃れてきた彼が見てきたことは、今また繰り返されているのだ。
カレン州の人たちには、ミャンマー(当時はビルマ)が1948年にイギリスから独立して以来、自分たちの文化と自由を得るために軍と戦ってきた歴史がある。2011年以降にミャンマーが民主化へと舵(かじ)を切った頃、私はミャンマーを訪れ、「アジア最後のフロンティア」ともてはやされ、発展してく様子を撮影していたが、その時もこの地域では不安定な状況が続いていた。
頭の片隅にあった「タイとの国境地域では戦闘が続いている」という「文字」が、その当事者であるマウンマウンティン氏とその絵を介して、ごく一部だが積み重ねられてきた歴史に触れることができた。私は今までミャンマーの限られた側面しか見てこなかった、見ようとしなかった、ということに気付かされた。このことは現在、私が国境地域で支援活動を続ける深い動機になっている。
メータオ・クリニックのシンシア先生は今年11月、沖縄で開催されるグローバルヘルスに関する会議の基調講演者として招かれており、現在JAMが中心になり準備を進めている。シンシア先生は約12年ぶりの来日となり、東京でも11月10日午後に立教大学、大阪では11月13日夕方に大阪大学中之島センターで講演会などが予定されている。
私はシンシア先生の講演会に合わせて、マウンマウンティン氏の描く世界を多くの人に届けたいと思っており、彼の絵を見てもらう機会を作りたいと考えている。
2024年9月上旬、台風から変わった低気圧の影響により、中国南部や東南アジア各地で洪水が発生した。ミャンマーも中央部や東部地域を中心に60万人を超える人が被災している、私が長年通っているシャン州のインレー湖も水位が上がり、建物の1階が水没している映像が毎日SNS上に流れている。私は家族同様に思っている友人たちにメッセージを送ったが全域でネット回線がダウンしているようで返信はこない。自然災害は避けられないが、今のミャンマーの状況では政府や自治体主導の救援・支援活動は全く望めない。NGOや個人のボランティアに頼らざるを得ず、ここでも支援の必要性が高まっている。
国連難民高等弁務官(UNHCR)の2024年7月の報告によると、ミャンマーでは約320万人が国内外に避難している。コロナ禍で打撃を受けていた国内経済はクーデター以降、海外からの投資も激減し、ミャンマーの通貨の価値は70%以上下落。石油をはじめ輸入品は高騰し、インフレが進み、国連によると、2023年時点で国民の半分以上が支援を必要とする貧困層になっている。
インフレ、経済の悪化、治安の悪化に加え、国軍は2024年2月、兵士不足を補うため若者を対象に徴兵制を始めると発表した。このため、日本など国外や、タイ国境付近に逃れてくる若者が増えている。
このようにクーデターから3年半以上たち、ミャンマーの人たちの生活環境は厳しさを増しているが、日本で報道される機会は減っている。それはミャンマーに限ったことではなく、時間の経過とともに紛争や弾圧が続く地域への関心は薄れ、「過去の出来事」になりがちだ。世界には助けを必要とする人たちがいることを忘れてはならないと思う。そして、関心を持ち続けていれば誰でも小さな協力はできると私は信じている。