アフリカ文学への関心が高まっています。ただ、日本語訳されたものの多くは英語やフランス語などヨーロッパ言語で書かれたものといわれます。では、アフリカ出身の作者が「母語」で作品を書くことにはどんな意義や魅力があるのでしょうか。スワヒリ語の専門家である大阪大学大学院人文学研究科特任助教の小野田風子さんが、アフリカ文学への熱い思いをつづります。(文中敬称略)

ヨーロッパ言語とアフリカの作家たち

2021年、タンザニア出身の英語作家アブドゥルラザク・グルナによるノーベル文学賞の受賞を機に、複数の翻訳者および出版社の努力により、日本語で読めるアフリカ文学の作品数が着実に増えている。

今年は国書刊行会が「アフリカ文学の愉楽」と題して6点のアフリカ文学作品の刊行を予定している。今後さらに世界の複雑化、多極化が進む中で、アフリカ文学への関心は海外文学ファンの間でますます高まっていくだろう。一方で、近年注目され、邦訳されている作品は、いずれも英語やフランス語などのヨーロッパ言語で書かれたものであることも指摘したい。

文学作品を何語で書くのか。アフリカ人作家を長年悩ませ続けているこの問いを最初に強烈に提示した作家が、2025年5月に亡くなった。ケニアの代表的作家でノーベル文学賞の有力候補とも目されていたグギ・ワ・ジオンゴである。

グギはケニアの独立闘争をテーマとした英語小説『泣くな、わが子よ』を1964年に発表し、作家としてデビューした。その後、母語のギクユ語による演劇活動を当時のケニア政府にとがめられ、投獄される。英語に比べ、アフリカ現地語による創作活動の影響力の強さを目の当たりにしたグギは、以降の文学作品の執筆言語をギクユ語に切り替えた。そして、ヨーロッパ言語の使用は植民地主義への隷属につながることを主張した『精神の非植民地化』で、アフリカ人作家に対し母語の使用を呼び掛けた。

アフリカ人作家を使用言語によって対立させるグギの主張には批判もある。しかしながら、アフリカ文学と言えばヨーロッパ言語による作品ばかりが脚光を浴び、アフリカの現地語による文学活動が不可視化されている現状に鑑みると、グギの主張とギクユ語による執筆活動が、「アフリカ現地語文学」の存在を世界に提示し続けたことの意義は大きい。

言語への執着、「普遍性」への疑問

私は東アフリカの地域共通語であるスワヒリ語の文学を研究対象にしている。スワヒリ語はアフリカの現地語の中で最も活発に文学活動が行われており、その中心地はタンザニアである。

私がスワヒリ語に出会ったきっかけは些細(ささい)なものだ。中学時代にお気に入りだったロックバンドU2のボーカル、ボノがアフリカへの援助活動に熱心で、その正義感への憧れはアフリカの地への興味に変わった。大阪大学外国語学部スワヒリ語専攻を志望したのは、学部時代からアフリカについて専門的に学べる場だからだ。入学後は一方的な援助の弊害についても学び、関心は学部の授業で触れたスワヒリ語文学の奇妙な世界へと移った。もともとの文学好きも高じ、違和感への答えを追求するうちに気づけば研究者になっていた。

ダルエスサラームの書店をめぐって購入したスワヒリ語の小説や戯曲=2016年、筆者提供

英語を捨て、ギクユ語で書くグギや、スワヒリ語で書く作家たち、そしてそれを研究する私のような物好きな人間に対しては、懐疑的な視線が向けられることもあるだろう。なぜそこまで「言語」に執着するのか。言語は透明な媒体に過ぎないのではないか。文学作品の言語や作家の出身地域に関係なく、人間の本性は共通であり、その人間を描く文学にも普遍性が宿るはずではないか。しかし学部の4年間、私がスワヒリ語の表現を学んで得たのは、世界は多様であり、「普遍性」とは往々にして西洋世界の価値観に過ぎないという予感である。その後の研究を通じ、その予感はより確かなものとなった。

言語は世界を規定する。文学に限定していうならば、言語は読者を規定し、それゆえに作品の内容を規定する。あるセネガルの作家は、母語のウォロフ語とフランス語の両方で作品を書いているが、その作品は言語によって正反対のメッセージを伝えている。そうであるならば、彼女のフランス語作品だけを読んでその作家やセネガルのことを理解したつもりになっていいのだろうか。あるいは、アブドゥルラザク・グルナの小説を読んでザンジバル革命のトラウマ的記憶に触れる一方で、スワヒリ語小説においてはその革命への直接的な言及が慎重に避けられることを知らなければ、ザンジバルの人々の傷の深さを本当に知ったことにはならないだろう。

共有された価値観に基づく母語作品

スワヒリ語の表現は、しばしばあまりにも保守的かつ教訓的に思え、辟易(へきえき)することも多い。またコミュニティーに根差した文化ゆえ、土着性が強く、部外者には理解が難しい場合も多々ある。

ここでは、同世代の女性作家として現在私が関心を抱いているザンジバル生まれのザイナブ・アルウィ・バハルーンを紹介したい。彼女は2017年に小説『神の裁きに待ったなし』で若手作家の登竜門である賞を受賞しデビューした。「男性優位主義と男性による支配を背景にした女性の闘い」を描いているとして評価されたのである。男性中心主義的なスワヒリ語文学の世界を一新する作品であることを期待して、私は本作を手に取った。

タンザニア・ザンジバル出身のザイナブ・アルウィ・バハルーンによる小説『神の裁きに待ったなし』=2023年、筆者提供

前半では、家父長制の不合理に意識的な若者たち​と、彼らに圧倒されつつある父親像​が描かれる。父親の暴力性が糾弾されるだけでなく、その絶対性の揺らぎも描写されている点に、それまでのスワヒリ語小説にはない新しさを感じた。しかし後半になって、その革新性は急速に薄れてしまう。母と子どもたちが父にあらがい、幸福を手に入れようとする試みはすべて失敗​する。悪(あ)しき男性たちは心臓発作やエイズ罹患(りかん)など運命によって罰せられる。結果的に本作は、女性や若者といった、本作で虐げられる弱者へのエンパワーメントのメッセージとはならず、運命論的な悲劇の物語として幕を閉じたのである。

私が行ったインタビューにおいて作者は、話し合いをせず破滅する家族を描くことで、家庭内の話し合いの重要性を示すことが本作の目的と語っている。また、経験に基づく知恵と、時代や環境の変化に基づく知恵とを対峙(たいじ)させることで良いコミュニティーを築くことができるとも語っており、女性や子どもの権利を重視しつつも、親世代の保守的な価値観にも敬意を払う​作者の姿勢がうかがえる。

家族を肯定することは、ローカルなコミュニティーを肯定することである。スワヒリ語文学は、ローカルな価値の体現であり続けている。作家たちは、共有された様式と価値観にならい、その中で個人の創造性を発揮しようとする​。共有された価値から極端にずれた価値観やメッセージを示すことにはあまり意味がない​。

非ヨーロッパ言語が描き出す世界の多様性

スワヒリ語の詩も、日本や西洋とは社会での位置づけが異なる。スワヒリ語圏では、詩とは何よりもまず朗誦(ろうしょう)され、耳で聞いて楽しむためのものである。そのため、韻や音節数をそろえた定型詩こそが主流である。詩人の個人的な心情の吐露は好まれず、コミュニティーですでに共有されている価値観を、耳に心地よい形で伝えることが期待される。現代社会においても詩は生きた芸術で、結婚式や政治的集会など、何らかの式典の際には必ずといっていいほど詩の朗誦の時間が設けられる。

スワヒリ語のポピュラー音楽も同じ社会的機能を有する。選挙の際には政治家たちはこぞって著名なポップスターを集会に呼び、応援歌を歌わせる。大統領死去の際には追悼曲があふれ、コロナウイルスのパンデミックの際には感染対策を呼び掛ける歌が動画投稿サイトをにぎわせた。

スワヒリ語という日常的に使用されている言語による表現は、社会と距離が近いがゆえに、社会の要請という圧力を強く受けている​。一方で、ヨーロッパ言語によるアフリカ文学はそのくびきから比較的自由である。しかし私はやはり、アフリカの一般の人々が日々何を思い、何を娯楽として生きているのかということを知りたいと思うのだ。

私の研究の大きな目標は、スワヒリ語の言語芸術の世界の個別性を追求し、その深みと広がりを描き出すことである。スワヒリ語の表現には価値観の隔たりを感じることも多い。しかしふと共感を覚えることもあり、そういった瞬間に喜びを感じるのも事実だ。

グローバル化・近代化により、この世界は均一化されるかに見えて、実際には​今なお多様な言語があり、その数だけ多様なコミュニティー​が存在し、その中で独自の発展を遂げる文化がある。それぞれの個人が置かれた独自の文脈から生み出される非ヨーロッパ言語による文化や文学に、私はこれからも興味を持ち続けたい。そして日本の文学好きの人たちに、ヨーロッパ言語だけでは到達することのできない世界を示したいと考えている。