孤独な記憶から共有へ:和解と再生、独裁崩壊後のガンビア【後編】
2016年まで独裁政権が続いたアフリカの最小国ガンビア。国家による理不尽な暴力と人権侵害から再生へと向かう人々の言葉を、写真家の林典子さんが伝えます。

2016年まで独裁政権が続いたアフリカの最小国ガンビア。国家による理不尽な暴力と人権侵害から再生へと向かう人々の言葉を、写真家の林典子さんが伝えます。
西アフリカのガンビアで22年間続いた独裁政権下では、ヤヤ・ジャメ元大統領の政権に反対する人々がいわれなき暴力と人権侵害にさらされました。写真家の林典子さんが、独裁政権による被害を受けた人々に向き合い、その経験と思いを聞きました。(文中敬称略)
アフリカ大陸で最も小さい国、ガンビア。1994年、軍事クーデターでこの国を支配したヤヤ・ジャメ大統領(当時)は、政権に批判的な反体制派の活動家や政治家、ジャーナリストの逮捕や拷問、殺害、そして大統領自身による女性への性的暴行や国家ぐるみの「魔女狩り」、学生デモの襲撃などの人権侵害を行った。
ジャメ政権は2016年の選挙で終焉(しゅうえん)を迎え、その後、22年間の独裁政権下で行われた様々な人権侵害を明らかにし、被害者への賠償などを審議する、TRRC(The Truth, Reconciliation and Reparations Commission「真実・和解・賠償委員会」)が2019年から2021年にかけて開かれた。TRRCの被害者申請制度により、これまで1009人がジャメ政権時代の被害者として認定された。政府から被害者への賠償金が支払われることになっているが、現在に至るまで被害者に支払われたのは一部のみだ。
2017年春に設立され、被害者のヒアリングや心理サポートなどを行ってきた「被害者救済センター」の代表、ケバ・ジョメは、「家族を失い、ひどい拷問を受けた人々にとって、賠償と加害者の訴追が行われなければ正義が実現したとは言えません。それを抜きに和解のステップに向かうことはできないのです」と言う。
私は、独裁政権下で被害を受けた人々の証言を聞くことにした。「個人の孤独な記憶」で終わらせるのではなく、社会が痛みを分かち合い、被害を受けた人々の生きる力となるようにするための私なりの試みだ。
私は1995年にHIVに感染していると診断され、治療を受けていました。2007年1月、ヤヤ・ジャメが薬草成分でHIVエイズ患者を治療できると突然宣言をした直後、9月まで私は国の監視下にある施設に突然強制的に収容されることになったのです。
大統領官邸に招かれた時には、ジャメ本人が、私に服を脱ぐよう命令し、油のような薬で私の全身をマッサージしました。その後、コップに入った黒っぽい液体を飲むよう強要され、私は意識を失いました。
その日以来、ジャメや彼の医師団によって、1日2回その薬を飲まされ、そのたびに嘔吐(おうと)し、健康状態が悪化していきました。9カ月の間、大統領官邸と施設の往復以外移動の自由はなく、友人や家族に会うことも許可されませんでした。生活環境は劣悪で、他の患者の中には他の病気になったり、治療中に亡くなったりした方もいました。私自身も治療が終わった後に副作用に苦しみ続けました。このプログラムは国民を欺(あざむ)き、権力を乱用するためのものでした。自分はどんな病気でも完治できる能力がある、というストーリーを作り上げたかったのです。
TRRCで証言することを決めた理由は、真実を述べたかったからです。そして実際に何が起きたかを明らかにし、ジャメのHIVエイズ治療の全てがうそであることを伝えたかったのです。沈黙を貫き、真実を自分の中に留めておくことは、人々に対して正義を果たしていないことを意味します。もう誰も私に沈黙を強いることはできない、と言いたかったのです。
私は自分を「被害者」と呼ぶことはしません。「サバイバー」だと言っています。なぜなら、今は私の物語を話す機会があるからです。「被害者」という言葉は無力を意味する言葉だと思いますから。そうなると、もはや責任を感じなくなります。
私たちサバイバーが声をひとつに団結して、人々に物語を共有することで、共に良い未来を築く責任があるのです。多くの加害者はいまだに起訴されず、公共の職からのみ追放され、自由に生活をしています。これは国にとって大きな脅威です。国が私たちに対して公式に謝罪することは彼らの義務です。国は前大統領を代表して謝罪し、私たちに何かのメッセージを伝えるべきなのです。
2000年4月10日、地方での出張中に学生デモで多くの子どもが犠牲になったというニュースがラジオで流れてきました。3月に10代の学生が消防士に殺害され、別の女子学生が警察官に性暴力を受けた事件に対して捜査がされなかったことへの学生たちの抗議デモでした。
夜9時、帰宅すると、息子のラミンがまだ帰宅していないことが分かりました。デモで負傷した多くの学生が病院に収容されているということを聞き、すぐに病院に向かいました。看護師に息子の名前を伝えると、「ここに収容されていますが、明日の朝戻ってきてください」と言われました。「息子がここにいるのに、なぜ会えないんだ」と私は大声で騒ぎました。数人に抱えられてその日は病院を後にし、翌日動揺しながら再び病院に戻ると、息子が亡くなったことを伝えられました。
わずか2日前、「出張のお土産に、僕の名前を彫ったシルバーのブレスレットを買ってきて」と頼まれたばかりでした。私は息子から頼まれたブレスレットを入れた箱を手に持ったまま、案内された霊安室へ向かいました。ナイロンの布で顔を覆われた、息子が横たわっていました。耳の後ろを撃たれ、顔から地面に倒れたので、衝撃で顔がひどく傷ついていました。彼には将来パイロットになりたいという夢がありました。政府はなぜ学生たちに対して銃を使うという間違った判断を下したのでしょうか。
和解は大切ですが、加害者が起訴され、被害者が賠償を受け正義が実現されなければ、和解は成立しません。とても時間のかかるプロセスなのは理解しています。長生きをし、愛する人々に囲まれて平穏な中で死を迎えることをみんなが望んでいます。希望に満ちた若者の命が奪われることほど痛ましいことはありません。
夜9時半、ウエストフィールド交差点から車で20分ほどにある、バカウ地区の印刷所。新聞社「ポイント」の印刷技士2人が翌朝に発行する新聞の印刷の準備を進めているが、数時間前から続く停電のため機械が動かない。技師の1人サンピュー・ジャッタは「電気が来るまで待たないとね。時々朝まで電気がないこともあるんだ。そうなると急いで印刷しても、新聞を届けられるのは午後なんだよ」と言って、軽くほほえんだ。
ポイント紙の発行部数は3千部、ガンビアでは一番大きな新聞社だ。私が働いていた2006年、2007年当時は、記者は手書きで紙に原稿を書き、パソコンを使う専門スタッフが文字を打っていたが、6年前から記者1人につき1台のパソコンが与えられるようになったという。2008年からカラーになった紙面には自動車や携帯電話の会社、銀行の広告が鮮やかに印刷されている。以前のように笑顔のジャメの写真と彼の功績を称賛するような文字はない。
現在、ポイント紙の記者は27人。私が働いていた当時から今も残っている記者は編集長のポップ・セインを含めて3人だけだ。警備員だった友人のモモドゥ・ジャロウは印刷のリトグラファー(平版技法師)として、現在も同紙で働いている。しかし、多くの記者は独裁政権時代に欧米諸国に亡命し、海外で暮らしている。
私がポイント紙で働き始めたのは2005年、19歳の時でした。高校に通い続ける経済的な余裕がなかったため、学業を諦め仕事を探していた時に、知人を通して編集長のポップ・セインを紹介してもらい、警備員として働くことになりました。
その前年、ポイント紙のデイダ・ハイダラが政府に批判的な記事を書いた直後に殺害されました。別の独立系新聞社インディペンデント紙が夜間印刷中に襲撃、放火され、後日政府によって閉鎖されたこともありました。そのため、家族は私が警備員として一晩中ポイント紙で働くことをとても心配しました。私は、「大丈夫、神様が守ってくれるから」と家族を説得して仕事を続けましたが、内心は心配でした。
インディペンデント紙と同じことがいつ起きてもおかしくないという思いもありました。そのため、毎朝仕事が終わり家に帰宅すると「Thank God(神様、ありがとう)」と心の中でつぶやき、ほっとしたのを覚えています。
当時の給料は月収1千ダラシ(約2千円)。とても安かったですが、それでも私がこの仕事を続けてきた理由は、記者たちが命懸けで書いた記事が無事に印刷され、人々に届けるためにこの新聞社を守らなければいけない、という強い思いがあったからです。5年前からは警備員ではなく、新聞の印刷に携わるリトグラファーとして働いていますが、その思いは今も変わりません。私もジャーナリズムの家族の一員だという思いを常に持って働いています。
ジャメによる22年間の政権下、ジャーナリストは殺害され、逮捕され、多くの人が亡命しました。政権に批判的な情報を書けば、国家のエージェントや政府の特殊暗殺部隊「ジャングラーズ」によって命が狙われたり、家を焼かれたりしました。私自身何度も国家情報局(NIA)に呼び出され、逮捕されました。同僚たちと一緒に投獄されることもありました。
当時、私たちは特定の物語を書くことを恐れていましたし、あからさまに大統領を批判することも避けていました。表現の自由、報道の自由がなく、死への恐怖から自分の意見を抑えていたのです。そのころ、アメリカで立ち上がったフリーダム・ニューズペーパーという媒体がこの国についての貴重な情報を報道していましたが、ここ地元ガンビアで、私たちジャーナリストたちの手は完全にしばられ、自己検閲を強いられました。
今は大統領を批判し、野党にもインタビューし、彼らの声を国民に届けることができます。私がこの仕事を辞めなかったのは、ジャーナリズムそのものが私の人生だからです。
ヤヤ・ジャメ政権下で起きた人権侵害の記憶を継承し伝える取り組みとして、2019年10月に「メモリーハウス」が設立された。首都のバンジュール郊外に立つ平屋の建物の中には、財布やベルト、ネクタイなど犠牲者の所有物が写真とともに展示されている。
「メモリアライゼーション(記憶の保存)という概念は、当初私たちスタッフ全員にとって全く新しいものでした」と、代表のシラ・ンドゥは言う。十分な資金がなかったため、確保できるスペースにも限界があり、展示できる被害者のストーリーの数も制限され、コンサルタントもいない中で運営してきたという。
ガンビアには今でもジャメを支持する声がある。特にここ数年は、物価が高騰し経済が不安定になる中で、ジャメ政権時代を懐かしむ者も少なくない。TRRCの公聴会の内容があまりに衝撃的で、被害者たちが虚構の証言を行ったのではないかと考える国民もいる。
そんな中、メモリーハウスはガンビア国内の村々での巡回展示なども企画し、地域社会とのかかわりを深めながら記憶の保存を進めている。
ある日の朝、バンジュール郊外のファラトゥ村広場でメモリーハウスが主催するイベントが開かれた。この村に暮らす主婦ファトゥ・ジャメが、コミュニティーの人々の前で、前政権時代に処刑された元軍人の兄について初めて語った。
私の兄ラミンはガンビア軍の中尉でした。ヤヤ・ジャメが政権につく前は彼と親しかったそうです。当時、兄はヤヤ・ジャメがガンビアをより良い国にすると信じていたのです。しかし、実際はそうではありませんでした。
ジャメが政権を掌握した4カ月後の1994年11月、兄はジャメ政権に対してクーデターを企てた兵士のメンバーの1人として告訴されました。この時20人ほどの兵士が逮捕され、即日処刑されましたが、兄は何とか隣のセネガルに逃亡することができました。1997年、兄は再びガンビアに戻り、ジャメ政権を倒すために軍の基地を襲撃しました。しかし、失敗し拘束され、マイル2刑務所へ送られました。そして、2012年8月ヤヤ・ジャメの命令によって処刑されました。
兄はとても真面目な性格でしたが、同時に陽気でさまざまな人と交流を持つことがとても好きな人でもありました。今に至るまで、兄は私たち家族のもとに帰ってきていません。兄がどこに埋められたのかの情報も何も聞かされていません。政府に調査をしてほしいと思っています。私たちの苦難は今も続いているのです。
昨日、初めて同じコミュニティーで暮らす人たちの前で私の経験を話しました。私たち家族が経験した長年の苦悩を言葉にして共有することは決して簡単なことではありませんでした。この村には名乗り出ることはなくても、ジャメ時代に行われた人権侵害による犠牲者や加害者、それぞれの親族が暮らしている可能性があります。
村の広場で私の話を聞いた地域の人々の中にも加害者の親族がいたかもしれません。それでも、あの場はとても温かい雰囲気で包まれていました。私が話をした後に、その場に居合わせた人々もそれぞれに思いを話してくれました。加害者は裁かれるべきだという思いは強くありますが、私の家族の物語を共有した経験が、結果的に両者の間の和解につながり、それが心の中の痛みを和らげ、結果的に癒やしのプロセスの助けになるかもしれないと思うことができました。
2009年1月から数カ月の間、ガンビアでは赤い服を着た「呪術師」たちが政府職員と見られる者たちを伴って村々を巡回した。彼らは「国に害を及ぼす邪悪な魔女、魔術師」とされた約1千人の村人たちを拘留施設に連行し、成分不明の薬を飲ませた。
アムネスティ・インターナショナルは、この「魔女狩り」にあった人々は、薬物によって幻覚を見たり、激しい腹痛を起こしたり、死亡したりした、と報告している。魔術信仰はかつてこの地域で広く浸透しており、「魔女狩り」の被害者には身体的な苦痛に加え、偏見や差別といった長期にわたる苦しみが与えられた。
2009年の1月、見知らぬ人々が突然ジャンブール村にやってきました。私は他の村人たちと一緒にバスに乗せられて、ある建物に連れて行かれました。到着すると、体を洗うように言われ、葉っぱの入った水を飲まされました。その葉はとても酸味がある強い味でした。その水を飲んだ瞬間に全身に痛みを感じました。
次の日に、村に戻されるまでに2回、その葉が入った飲み物を飲まされました。原因が分からないのですが、その日から身体が弱くなり、足の内部が腐り、切断せざるを得ない状況になりました。いまだにその薬に何の成分が入っていたのかが分かりません。私には何かを求めて立ち上がる力もありません。今はただ日々の生活があるだけです。
2009年1月下旬の朝、ヤヤ・ジャメに命じられて来たという何人かのグループと兵士たちが私の暮らすジャンブール村にやって来ました。彼らは私の自宅に入り家の中を調べ始めると、突然「大統領ヤヤ・ジャメと指導部に問題を起こす危険な魔術を作っている」と言って私を非難したのです。
午後2時ごろ、62人の村人たちと共に村の中心部にある木の下に集められました。そして、バスに乗せられ30分ほど離れた民家に連れて行かれました。部屋に入れられると、そこには液体と葉が入った二つのバケツが置いてあり、彼らは私に飲むように強要しました。その後、シャツやズボンを脱いで入浴をさせられたのを覚えていますが、再び衣服を着て大部屋に連れて行かれた直後に意識を失いました。一緒に拘束された父によると、私が意識を取り戻したのは翌日の夕方、この家を離れる時に再びバスに乗せられた時だったそうです。
村に再び戻った時、私は自力で歩くことができずに、介助を受けながら自宅に帰りました。この直後から片目に違和感を持ち始め、今は完全に失明してしまいました。同じ日に拘束された村人の中にも深刻な健康被害を受け、亡くなった方も多くいます。
この事件後、ジャンブール村は魔術師がいる呪われた村だという迷信と偏見で二重の苦しみを味わいました。それでも私がこの経験をTRRCの公聴会で証言することにした理由は、他の被害者たちにも経験を語る勇気と自信を与えたかったからです。私たちは支払われるべき賠償金の約25%しか受け取っていません。たとえ全ての支払いが終わったとして、どんな補償があったとしても、加害者が罰せられない限り私たちは正義が果たされたとは思わないでしょう。
ガンビア国内での魔女狩りは各地で行われました。私たちにとって心の癒やしは絶対に必要です。何をもって癒やしのプロセスにつながるか、それはここで起きたことを象徴する、何らかの目に見える記念物を村に作り、後世に伝えていくことです。他の被害者たちもきっと同じ思いでいるはずです。
ヤヤ・ジャメの時代、国民は恐怖の中で生きてきました。正義について語ることも、公の場で大統領であるジャメの名前を発することさえ恐れていたのです。父はジャメ政権下で「民主的な選挙制度改革」を公に求めることが、いかに危険であるかを十分に理解していました。投獄され、拷問され、命を奪われるーー。あらゆることが自身の身に起こり得ることは分かっていたのです。
2016年、私は地方で働いていましたが、最後に父と電話で話したのは父がデモを行った4月14日の朝でした。この時父は、デモの計画について私には伝えませんでした。その日私は体の具合が悪かったので、私に気を使ったのだと思います。その日の夜、いとこから電話で父がデモ直後に逮捕されたことを知りました。そして2日後の朝、弟から電話があり父が殺害されたことを知らされました。私はその日のうちに首都の実家に戻り、1週間後に家族とセネガルへ亡命しました。
後になって分かったことですが、父は拘束後にバンジュールのNIAで拷問を受けている間に命を落とし、首都から40分ほど離れたタンジという街にあるNIA事務所の中庭に埋められたのです。ジャメ政権が終わり、当時のNIAメンバーの1人が自白したことで、埋められた場所が特定され、父の遺体は掘り起こされました。
当時、NIAは反体制派の人物に対し火責め、電気ショック、激しい殴打、窒息など様々な拷問を行っていました。私の父もそうした拷問を受けました。父は、自分の命と引き換えに、ガンビアが自由を手に入れると信じていたのです。父の死から1年も経たずに、それは現実になりました。
父は息を引き取るその最期の瞬間まで正義を貫き通したのです。父の死は決して無駄ではありませんでした。私たち家族はジャメ政権崩壊後、2017年1月にガンビアに帰国しました。その直後に、私たちは父の遺志を受け継ぎ、ガンビア社会の様々な分野における移行期正義の実現や、人権意識の向上、民主主義の促進を目的にしたソロ・サンデン財団を立ち上げました。
正義というのはすぐに実現するものではなく、徐々に進んでいくプロセスです。ジャメ時代の加害者が起訴されれば、正義が実現されたといえます。そして、過去に起きたことを決して忘れることはできなくても、被害者は心の安らぎを感じることができるようになるでしょう。
一部の加害者は起訴されましたが、その他の加害者は今も自由を手にし、街を歩き、権力を持っています。それを目の当たりにしている限り、正義が実現されたとは思えないのです。部分的な正義というのはあり得ないのです。
和解は必要です。なぜなら、和解は被害者たちに平穏を与えるからです。加害者は過去に行った自らの行いを公に認めて真実を語り、責任を取る必要があります。その後にようやく和解がなされるのです。
2023年1月に父の国葬が執り行われました。あの日、多くの人々が集い、父のために祈りを捧げました。私たち家族にとっては大きな安らぎと癒やしを得ることができました。しかし、多くの被害者は今もフラストレーションを感じでいます。賠償プロセスが遅れていて、政府は被害者たちについて沈黙を守り、行動を起こさないでいるからです。被害者たちの苦難や犠牲を認識し、彼らがこの国の社会で「声」を持っていると実感できるように真摯(しんし)に取り組み、人々に団結をもたらすべきだと思うのです。