アフガニスタンでタリバンが政権を再び握ってから2年。国外の私たちに届くニュースの多くは、女性の人権抑圧や貧困、そして災害の話題だ。写真家の林典子さんは、しかしアフガニスタンの女性たちにはもっと多様で多彩な人生がある、と考えた。林さんが現地で出会い、向き合い、心をつないだ女性たちの美しく力強い言葉をお届けする。(文中敬称略) 

真夜中のパーティーと夜明けのパン屋

アフガニスタン第二の都市、カンダハル。夜11時、宿泊していた建物の地下へと続く階段を下り、ゆっくりと扉を開けて室内をのぞいた。大きな広間の中央に敷かれた絨毯(じゅうたん)の上で、色鮮やかなドレスを着た10人ほどの若い女性たちが、この地域の多数を占める民族であるパシュトゥンの音楽に身を委ねて軽快に踊っていた。長く伸びた彼女たちの黒髪がふわふわと空中を舞う。きらびやかなヒールの靴を履いたままの女性もいれば、靴を脱いで裸足になり踊る女性もいる。その周りを100人ほどの女性たちがリズムに合わせ手拍子をしている。

その中の1人が私に気が付いて手招きをした。ここで催されていたのは、結婚式の前夜に開催される女性限定のヘナパーティー。男性は新郎と新婦側の数人のみ。手招きした女性は新婦の母親だった。この日の昼間、私はこの建物の所有者の男性から「今夜は地下でパーティーがあるから見てみたら?」と言われていたのだ。

幼い頃からの友人同士だという、19歳の新郎新婦は緊張した表情でリズムをとって踊る女性たちを見つめている。2人の前のテーブルには6段のウェディングケーキとこれから交換をする結婚指輪が置かれている。女性たちの輪の中に入ると、私も音楽に合わせて自然と踊り始めた。パーティーは明け方まで続いた。

ここカンダハルはタリバン発祥の地。アフガニスタンでも最も保守的だと言われる地域にいることを、この夜は忘れてしまいそうだった。

日用品を売る市場を歩く女性たちと少女=2023年11月、カンダハル州カンダハル、筆者撮影

朝5時、まだ外が薄暗いこの街の一角にある、小さな土壁のパン工場。40人ほどの女性たちがパンを作るために出勤し始める時間だ。ここで働く女性たちの多くは、戦争で夫を亡くしたり、夫が麻薬中毒や高齢で働くことができなかったりして、自らが家計を支えている。

「夫は高齢で無職です。ここでパン1枚を作ると1アフガニ(約2円)を稼ぐことができます。1日80枚のパンを作れば、1カ月の収入は2500アフガニ(約5100円)。夫と子ども5人の家族を支えるには十分ではありませんが、ここに来れば他の女性たちと世間話もでき、家で閉じこもっているよりもいいんです」

パルバーシャ(27)は75歳の夫と子どもたちの生活費を稼ぐために毎日ここで働く。

早朝、ベーカリーでパンを作る地元の女性たち=2023年11月、カンダハル州カンダハル、筆者撮影

市街地のバザール=2023年11月、カンダハル州カンダハル、筆者撮影

2021年8月にアフガニスタンでタリバンが再び政権を握ってから2年が過ぎた、2023年11月初旬から12月にかけて5週間アフガニスタンに滞在し、この国の様々な境遇にある女性たちに出会った。

今、アフガニスタンの女性たちの多くは顔や全身を覆う「ブルカ」や「ニカブ」を着用している。私が一緒に時間を過ごした女性たちの多くも、外出時にはブルカを着用していた。公共の場では彼女たちの素顔を見ることはないが、ブルカの下には個性あふれる様々な女性たちの物語があった。

日常に戦争、痛みと困難が私を強くした─サルマ

アフガニスタンには「痛みと困難はあなたを強くする」という有名なことわざがあります。戦争や厳しい環境など度重なる困難を経験し、私は強い人間になりました。私が初めて戦争を経験したのは1979年。6歳の時にファイザバードの街にソ連軍が侵攻してきた時でした。ロバに荷物を積んで田舎の村へ逃げていきました。戦闘が激しくなると家族と家畜小屋に掘った地下に潜って隠れたのを覚えています。砲弾が台所に落ちて、家が完全に壊されたこともありました。

私の日常にはいつも戦争がありました。私は教育を受けてこなかったので、文字の読み書きができません。街中の看板も薬の文字も分かりません。私の夫も同じです。だからこそ私たちの4人の息子と2人の娘たちには教育を受けて欲しいと思い、牛乳を売ってペンを買ったりしながら、6人全員を学校に通わせました。教育は人の可能性を広げ、人生を変える力があると私は信じているんです。

ーサルマ 49歳 バダクシャン州ファイザバード

北部バダクシャン州での取材中、私が2週間半滞在した家庭のお母さん、サルマ。州都ファイザバードを流れるコクチャ川沿いの小さな平屋の家で、夫と6人の子どもたちと暮らしている。

この地域の家庭には1日のほとんどの時間、電気が来ない。電気が通るのは夜8時ごろから深夜にかけての数時間。夜、真っ暗の部屋に明かりがついた瞬間に手をたたいて皆で喜び合う、そんな小さな日常の幸せをかみしめながら過ごした日々だった。

サルマは夕食後には必ず紅茶を私の部屋に届けてくれた。そして、眠くなるまで毎日何時間も、子ども時代からの経験を語ってくれた。たいていはサルマの長男で、英語を話せるオマルが通訳をしてくれたが、彼が不在でもそっと私の部屋のドアを開け、直接会話が出来ないと分かりながらも、床に座り身ぶり手ぶりでコミュニケーションを取ろうとしてくれる社交的な女性だった。

2023年に大学の政治学部への入学を予定していたサイナ=2023年11月、バダクシャン州ファイザバード、筆者撮影

サルマの20歳の次女サイナは政治家になるのが夢だった。2022年秋、バダクシャン大学の政治学部の入学試験に合格し、2023年3月に入学を予定していたが、直前に女性の大学教育が停止された。

何日も泣き続けた、とサイナは言う。私がこの家に滞在していた間、サイナは庭や部屋の掃除、洗濯、食事の準備など一日中淡々と家事をして過ごしながら、毎朝取材へ出かけていく私には笑顔を見せ、手を振って送り出してくれた。先の見えない将来に不安を抱えるサイナを、父と母はいつも明るく励ましていた。サイナはウズベク語もトルコ語もタジク語も話すことができる。ここはタジキスタンの国境にも近い。私はある日、サイナに尋ねた。

「国外に出て勉強して暮らそうと思ったことはある?」

サイナは少し笑って返事をした。「いいえ、アフガニスタンを出ることは考えていません。ここが唯一の私の国です。自分の国ほど愛せる場所は、世界中どこに行ってもないからです」

この家に滞在した間、政治や戦争の話で重苦しく沈んだ空気になることもあれば、自宅で催されたささやかな誕生日会では笑顔と和やかさが家中を包んだ。日常の喜怒哀楽に触れて過ごした貴重な時間だった。

筆者が滞在した家で開かれた、子どものためのささやかな誕生日会=2023年11月、バダクシャン州ファイザバード、筆者撮影

大学の卒業式に出席する親族たちは男性だけだった=2023年11月、バダクシャン州ファイザバード、筆者撮影

レストランのファミリーセクション(男女一緒に食事をすることが可能なスペース)で働く、ウエイトレスの女性たち=2023年11月、バダクシャン州ファイザバード、筆者撮影

山岳部の民家で祈りを捧げる村の男性たち=2023年11月、バダクシャン州ファイザバード郊外、筆者撮影

通学禁止、娘は命を……─ハフィザ

2021年9月の暑い日の朝、15歳の娘モミナは鏡の前で髪をとかしていました。笑顔で学校に行った姿を今でもはっきりと覚えています。10時ごろ突然帰宅したので、「何かあったの?」と聞くと、「もうすぐ学校に行けなくなるみたい」と言って、居間の方へ歩いて行きました。学校への通学が禁止されることがショックだったようです。しばらくして、娘がマグカップの取っ手を持って、何かを考えながらそのカップを何回か回しているのが見えました。

10分後居間に戻ると、娘が口から泡を出しながら倒れていたのです。家には私以外誰もいませんでした。娘はまだ意識があり、あわてて近くの病院に連れて行きました。夫もすぐに駆けつけました。その時に娘が「お父さん、会えてよかった」と話したのが、最期の言葉になりました。

医師から、娘が亡くなった原因は害虫を駆除する毒薬を飲んだことだと言われました。将来はエンジニアや医師などになりたいと話していました。娘ぐらいの年齢の女の子たちはファッションに興味を持っている子が多いですが、娘はファッションには関心を持っていませんでした。勉強が好きで夜もよく本を読んでいたんです。娘の死から2年が経った今でもつらくて娘の友だちを見ることもできません。

―ハフィザ 30歳 バダクシャン州ファイザバード

2021年9月、タリバン政権は多くの地域で女子の中等教育を再開せず、実質禁止した。モミナの自殺原因は不明だが、ハフィザは娘が教育を受けることができずに、命を絶ったと思っているようだ。モミナの遺書などがあったわけではない。私は、母親が娘のことをこう語っているということをそのまま伝えたいと思った。

私は自分の意思で顔を隠す─ハディヤ

 私は大学で助産学を勉強していますが、将来はジャーナリストになりたいと思っています。子どもの頃から好奇心が強く、この国の女性たちのことを伝えたいと思っていました。タリバン政権になってから、国外のメディアはタリバンを悪と決めつけていますが、単純に白黒を決めつけることはできないと思います。どの社会もそうであるように、良い面もあれば、悪い面もあるんです。

女性の教育を制限したことはとても残念です。それに地方での劣悪な医療事情など、この国には様々な問題もあります。ですが、治安は以前よりも安定し、私は個人的には暮らしやすくなったと感じています。宗教的にも、私にとっては今の方が過ごしやすくなったと思っています。私は以前から外を歩く時には必ずニカブで顔を隠しています。

前政権の時には同世代の女性たちから「時代遅れ」「センスがない」などと言われ傷ついたことがありました。私は自分を「古臭い」人間だと思ったことはありません。私の意思でそうしているのです。

ーハディヤ 19歳 ナンガルハル州ジャララバード

自由に羽ばたく姿、蝶(ちょう)に託して─シャキーラ

私は大学でコンピューターサイエンスを学んでいましたが、あまり好きにはなれませんでした。新しいことを始めてみようと思い、2022年にiPhone(アイフォーン)でカブール市内の身近なストリート写真やポートレートを撮るようになりました。写真を撮るようになってから、創造することの楽しさを知り、生きていると実感できるようになりました。

バッグのデザインをするようになったのは、2023年7月です。私の家族はバーミヤンから来ました。決して経済的に豊かな環境ではありませんでした。刺繍(ししゅう)やデザインはYouTubeの動画を見て独学で習得しました。私のブランド名は「BABONA collection」と名付けました。BABONAとはカモミールという意味。カモミールの美とエレガンス、フレッシュネスを象徴させたいと思ったんです。

最近はインスタグラムで私のバッグを紹介し自宅で制作していますが、少しずつ注文が来るようになりました。蝶のデザインのバッグ「Della」は、自由に羽ばたいていくという思いを込めてデザインしました。私の民族ハザラの模様をモチーフにしたバッグは「VIVA」と名付けました。アフガニスタンの女性や文化を象徴したメッセージ性のあるデザインをバッグに取り入れています。

私のスタイルはあくまでもシンプルでミニマム。世界中どこで暮らす女性でもおしゃれに使えるアーティスティックなバッグを作り続けていきたいです。アフガニスタンには様々な問題があります。それでも、希望を失わずにいれば、いつか必ず私のブランドは世界的なブランドになると信じています 

ーシャキーラ 23歳 カブール州カブール 

シャキーラの自宅の部屋の窓辺には、韓国人の作家キム・スヒョンの著書「私は私のままで生きることにした」の読みかけの翻訳本が置かれていた。=2023年12月、カブール州カブール、筆者撮影

自分なりのやり方で、若い女性たちの道を照らしたい─サハール

アフガニスタンで出会った女性の中でも、特に印象に残っている女性が私と同世代、35歳のサハール。バダクシャン州のファイザバードで何度も通ったレストランの女性専用フロアには、「ファミリーセクション」(男女一緒に食事をする空間)があり、私はある日の夕方、滞在していた家庭の長男オマルと2人でこのレストランを訪れた。

その時ちょうど、16歳の息子と誕生日を祝うために入店してきたのがサハールだった。他に客がいなかったため、流れで一緒に祝うことになった。オンラインで英語を学んでいるサハールとは直接コミュニケーションが取れた。息子の「僕のお母さんは、母であり、父でもあるんです」という言葉、以前はメディアに関わる仕事をしていたということ、「カブールには悲しい思い出しかない」と結婚生活を送ったカブールの話をする時の哀(かな)しげな表情、普段の凜(りん)としたたたずまい。サハールの独特な雰囲気に私は惹(ひ)きつけられた。

お互いの連絡先を交換し、この日以降、取材の合間に何度も彼女と会うようになった。女性限定のバザールやその中の小さな食堂、車の中、川辺のカフェなどで、アフガン女性のキャリア、結婚と離婚、政治、哲学的な話など、時間を忘れて彼女の話に聞き入った。サハールは12歳の時から趣味で詩を書いており、書きためている詩を見せてくれることもあった。「アフガニスタンにはたくさんの偉大な詩人がいます。私は素人でうまくはないですが、その時々の心情をそのまま詩に表現して、残しておくと心が落ち着くんです」と、彼女は言った。

私たちは「アフガン女性」という一つのカテゴリーに入れられ、語られてきました。「かわいそうな女性たち」「貧しく、虐げられた女性たち」というくくりの中で捉えられ、そのように生きることを期待されているかのように感じます。国際社会は「アフガニスタンの女性を救う」という名目で、アフガニスタンでの欧米の政策を文化的にも政治的にも正当化してきました。

欧米の援助のおかげでインフラが整い、道が整備され、発展したのは事実です。私も含め、多くのアフガン人女性たちが様々な苦しみに耐えていたのも事実です。しかし、欧米のシステムの恩恵を受けることができたのは、それを上手く利用し、自分を高めることができる環境にあった一部の女性たちだったと思っています。

そうではない女性たちは地方に多くいました。なのに私たちは「アフガン女性」という言葉でくくられ、消費され、政治的にも利用されてきたとも思うのです。私たちの視点や主体性を社会に投影する可能性を探ることがもっと必要でした。

2021年の政変前、私はアフガニスタン女性の権利と地位の向上を促進するための省で働き、ライターとしても活動をしてきました。その間、暴力などを受けていた、たくさんの女性たちから直接相談も受けました。私自身も18歳で結婚をし、夫の暴力に苦しんできました。義母からは「いい嫁は、家庭の問題を誰にも相談しない」と言われ続け、近所の友人の家を訪ねたり、実家に帰る時でさえ夫が同行しました。自殺をしようとしたこともありましたが、イスラムでは自殺をしてはいけないという教えがあり、思いとどまりました。

2016年に離婚をしてからは、子どもたちのために強くならなければ、と自分に言い聞かせて、生きています。私はこれまで本当に様々な経験をしてきました。いつか、私の人生をつづった本を出版したいという夢があります。「鳥の群れを銃で撃つと、一羽は死ぬけれど、他の鳥は飛び立って救われる」という内容のことわざを聞いたことがあります。私の人生や教訓を伝えることで、同じアフガン女性として、私なりのやり方で若い世代の女性たちを救い、彼女たちの道を照らしたいのです。

―サハール 35歳 バダクシャン州ファイザバード

山岳部の村の民家=2023年11月、バダクシャン州アルゴ、筆者撮影

二元論ではない現実 彩り豊かな彼女たちの人生

今、メディアでアフガニスタンのことが伝えられる時に、「タリバンは善か悪か」という、二元論のみを軸にして、この国で起きていることが報道されているような印象を受ける。その社会の中には多様な人生観を持って生きている人々の日常がある、という当たり前のことに想像力を向けたい、と取材を通して自然と感じるようになった。

カブールからジャララバードへ一緒に行き3日間を過ごした19歳のハディヤが、タリバンについて「単純に白黒決めつけることはできない」と言っていた。この国で暮らす人々の価値観やタリバン政権下の社会の受け止め方も実に多面的であると感じた。各地の取材先での交渉の際には、話し合いが普通に出来る常識的なタリバンの幹部も多くいた。ある意味「秩序」が保たれていることで、以前よりも安心して暮らせているという人々もいれば、一日も早く外国へ移住したいという人々もいた。

タリバンにより女子の中等教育と大学教育は大幅に制限されている一方で、「娘には教養のある女性になって欲しい」と私にさりげなく話すタリバンもいた。女子教育よりもまずは医療や食糧の確保が優先されるべきだという人々もいれば、何よりも教育が重視されるべきだという人々もいた。ブルカを強制的に着用させられていると話す女性もいれば、自分の意思でブルカを着ている、という20代の女性もいた。

ブルーモスクに掲げられたタリバンの旗=2023年11月、バルフ州マザリシャリフ、筆者撮影

自宅で夕食のしたくをするサルマ=2023年11月、バダクシャン州ファイザバード、筆者撮影

それぞれの境遇は地域や社会的な立場や家庭環境により、さまざまだ。私が出会った女性たちも、この国で暮らす女性たちのごく一部であり、彼女たちの言葉によって、この国の全体像だと決めつけることはもちろんできない。それでもここに生きる女性たちのイメージを「アフガン女性」という言葉で一くくりにすることの危険性に気付き、個人が発する言葉の重みを受け止めることで、ベールの下にある、この国の女性たちの多彩な人生や個性に想像力を持って向き合うことができるのではないかと思う。

そして、ここに紹介した女性たちの境遇はさまざまだが、共通しているのは、厳しい環境の中で状況を受け入れたり、折り合いをつけたり、または「わずかでもきっと変化を起こすことができるはずだ」と信じながら、それぞれの人生に真剣に向き合って生きているということだ。

滞在した家の長男オマルが撮った筆者=2023年11月、バダクシャン州ファイザバード、筆者提供