今なぜ、野口英世? アフリカの医療に賭けた志と生き様から学ぶこと
アフリカで黄熱病の研究に命を賭けた野口英世博士。日本政府の「野口英世アフリカ賞」選考委員会の國井修選考委員長は、今こそ彼から学ぶことがある、と言います。

アフリカで黄熱病の研究に命を賭けた野口英世博士。日本政府の「野口英世アフリカ賞」選考委員会の國井修選考委員長は、今こそ彼から学ぶことがある、と言います。
アフリカで黄熱病の研究中に亡くなった野口英世博士の志を踏まえ、アフリカでの感染症などの疾病対策や公衆衛生推進のため、医学研究や医療活動において顕著な功績を挙げた人や団体を顕彰する「野口英世アフリカ賞」。2006年に日本政府が創設した。この賞の選考委員会の委員長に今年6月就任した國井修さん(公益社団法人グローバルヘルス技術振興基金CEO)が、野口の志と生き様から日本人が今こそ学ぶべきことを語る。
「野口英世アフリカ賞委員会」の委員長を拝命した。「へえ、そんな賞があったんだ」「野口英世って誰?」という読者もいるかもしれないので、少し説明させてほしい。
野口は今から150年ほど前の明治時代、福島県猪苗代湖のほとりにある農家に生まれた医師・細菌学者である。1歳半の時に囲炉裏に落ちて左手に大やけどを負った。指が癒着して棒のようになってしまい「てんぼう(手ん棒)」、家が貧しかったので「びんぼう」、まわりからは「てんぼう! びんぼう!」といじめられたそうだ。
そんなハンディキャップを背負いながら、医師の家に住み込みで働いて必死に学んだ末に、医師となる。15歳の時に教師や同級生らが募った寄付金で左手の手術をし、医学の素晴らしさに感動して医師を目指したという。
さらには日本の伝染病研究所で働き、その後渡米して研究に打ち込んだ結果、最終的にはノーベル賞候補に3度も挙がるほどの世界的名声を得た。しかし、研究のため移り住んだ西アフリカ(現ガーナ共和国の首都アクラ)で自ら黄熱病に感染してしまい、51歳の若さで命を奪われる。
その偉大な努力と業績をたたえ、ニューヨークのロックフェラー大学図書館入り口には彼の胸像が置かれ、数々の偉人伝・伝記が記されている。日本人のみならず、外国人によっても伝記が出版され、伝記の研究書さえもあるという。そんな日本人はめったにいない。2004年に発行された千円札の肖像画にもなり、野口はまさに「日本の顔」ともいえる。
彼の志を継いで、アフリカの病気と闘う医学研究者や医療従事者に対して、ノーベル賞に匹敵するような賞を創設して贈りたい。そう考えたのが、小泉純一郎元首相である。首相在任中の2006年5月にアフリカのガーナに向かう機中で、そのアイデアがひらめいたという。
既に世界的に名声を博していた野口が、あえてアフリカに渡り、多くの人々の命を奪う黄熱病の研究に身を捧げた。その探求心、使命感、勇気こそが、今、アフリカの病の問題に立ち向かうために求められているのではないか。小泉氏はそう考えたようだ。
この頃、私はニューヨークにある国連児童基金(UNICEF)本部に勤務しており、この賞の設立準備のために知恵を貸してほしいと言われた。この賞に値する人をどのように探し、選考していったらよいのか、誰に選考委員になってもらったらよいか、などなど。創設の準備もかなり大変だったようである。
この賞の設立はある意味で時宜を得ていた。というのも、2000年にニューヨークで国連ミレニアムサミットが開かれ、それを機に設定された世界共通の国際開発目標(国連ミレニアム開発目標)では八つの目標のうち三つが保健医療関係で、特にアフリカの子どもや女性の死亡数の低減や感染症流行への対応であったからである。2000年に日本が議長国となって実施された九州・沖縄での主要8カ国首脳会議(G8サミット)でも、保健医療課題がG8では初めて主要議題となり、世界の感染症流行、特にアフリカでの猛威をいかに抑えるかが重要な焦点となった。
そんな中、この賞が生まれた。最終的にアフリカ連合の委員長やガーナの大統領などからの賛同も得て、また国際機関や世界的に著名な研究者やジャーナリストなどの協力も受けながら、候補者の推薦や選考の準備を進め、官民からの資金調達も進んだ。
その結果、第1回野口英世アフリカ賞は、医学研究部門がロンドン大学衛生熱帯医学校の教授、ブライアン・グリーンウッド博士(英国)、医療活動部門はケニア国家エイズ対策委員会委員長のミリアム・ウェレ博士(ケニア)に決まった。
グリーンウッド博士は、30年以上にわたりアフリカの現場に密着した研究活動を行い、特にマラリアの免疫病理学、疫学、人類学、行動学など多角的な研究を通じて、実践的かつ効果的な対策を示してきた。薬剤を浸漬(しんし)させた蚊帳、アルテミシニンをベースとした混合療法、乳幼児に対する化学的予防法、RTS,Sワクチンなど、マラリア対策では画期的、ある意味でゲームチェンジャーともいえる対策の研究を主導し、ヘモフィルス・インフルエンザb型(Hib)や肺炎球菌、髄膜炎菌など他の感染症についてもワクチン開発などで多大な貢献をしてきた。
ウェレ博士は、アフリカ最大の保健NGOであるアフリカ医療研究財団(AMREF)の理事長、ウジマ財団の総裁、ケニア国家エイズ対策委員会委員長、アフリカ連合首脳会議の保健問題アドバイザーなどを通じて、40年にわたり東アフリカにおけるヒト免疫不全ウイルス(HIV)などの感染症対策、乳幼児死亡率低減を目指した母子保健対策や公衆衛生活動などに貢献してきた。特に、若年層、性産業従事者、同性愛者、麻薬の静脈注射使用者などと直接対話を行いながら、具体的かつ効果的な対策を計画・実践し、ケニアのHIV感染率の減少や抗レトロウイルス薬(ARV)服用者数の拡大(2002年から2007年にかけて2千人から15万人に増加)に大きく貢献した。
第2回野口英世アフリカ賞の医学研究部門受賞者は、エボラウイルスの発見者のひとりで、HIV/エイズを含むアフリカに多く存在する疾病の研究に多大な貢献をし、国連エイズ合同計画(UNAIDS)の初代事務局長、またロンドン大学衛生・熱帯医学大学院の学長も務めたピーター・ピオット博士(ベルギー)、医療活動部門受賞者はアフリカで長い間医療が行き届いていなかった人々にHIV/エイズの治療・ケア・支援を普及させるモデルを作って実践し、ウガンダをはじめ、アフリカで医療サービスを普及させたアレックス・G・コウティーノ博士(ウガンダ)に与えられた。
2019年に授与された第3回野口英世アフリカ賞は、医学研究分野がエボラウイルス病などの研究において多大な貢献をしたジャンジャック・ムエンベタムフム博士(コンゴ民主共和国)、医療活動分野は世界の保健人材危機への対処や人材重視の保健医療制度の構築において多大な貢献をしたフランシス・ジャーバス・オマスワ博士(ウガンダ)が受賞した。
2022年の第4回受賞者は、医学研究分野がサリム・S・アブドゥル・カリム博士とカライシャ・アブドゥル・カリム博士(南アフリカ共和国)のご夫婦。両博士は、アフリカの貧しい若年女性が10歳以上年上の男性からHIVを感染させられている現状を疫学研究で明らかにし、その感染リスクを低下させるための抗ウイルス薬添加膣用(ちつよう)ジェルなどの研究を推進したが、それ以外にもHIVと結核の重複感染者への治療改善の研究や、新型コロナウイルス感染症対策でも、アフリカのみならずグローバルな貢献をした。
医療活動分野は、カーターセンター(ジミー・カーター米元大統領が創設)が主導する国際的キャンペーンである「ギニア虫症撲滅プログラム」が受賞。ギニア虫症とは不衛生な水を飲むことで幼虫が体内に入り、成長すると1メートルにもなる成虫が皮膚に移動し、かゆみや痛みを伴う水膨れとなる寄生虫の病気で、人に感染する病気としては天然痘に次いで史上2番目の根絶を目指している。
実は第4回野口英世アフリカ賞の医療活動分野の選考委員として、私も数日間の集中的な選考に関わった。推薦された候補者はどの方、どの機関も素晴らしい活動をしており、そこから1人、または一つの機関を選ぶのは容易ではなかった。
いずれにせよ受賞者は、アフリカの在外公館や世界保健機関(WHO)を含む国際機関、研究機関などのネットワークを駆使して候補者を推薦してもらい、その中から日本人を含む世界の有識者によって厳正に審査されて選ばれる。最終受賞候補者は首相に推挙され、決定した受賞者には、3年ごとに開催されるアフリカ開発会議(TICAD)の際に、表彰状、賞牌(しょうはい)及び賞金(各分野それぞれ1億円)が授与される。授賞式・晩餐(ばんさん)会には天皇、皇后両陛下のご臨席を賜り、首相も出席するなど国家を挙げての大行事でもある。
委員長を任されたからには、単に第5回の受賞者としてふさわしい方々を選考するだけでなく、その方々を通じて、アフリカの保健医療課題をいかに多くの日本人、いや世界の人々に知ってもらうか、アフリカへの支援や貢献に関心をもってもらい、できれば参加してもらうか、も考えたい。また、今後の野口英世アフリカ賞のあり方も検討し、より多くの方々からそれに対するご支援やご協力もいただきたい。
ところで、野口の輝かしい業績や、睡眠3時間程度で働き続ける「人間ダイナモ(発電機)」と呼ばれた勤勉さ以外に、どんな境遇にあっても、自らチャンスを見つけ、逃さないで、切り開いていく姿が私にとっては印象的だ。
野口は英語を学ぶためにプロテスタントの教会に通って受洗し、フランス語を学ぶためにカトリックの教会に通い、会津中学の教師からは当時医学界で公用語とされたドイツ語を習得した。
コッホの指導を受けた北里柴三郎が帰国し、福沢諭吉の援助で伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)が開設された時に、野口がそこに入所できたのは、ドイツ語中心の当時の日本の医学界において、英語やフランス語にも通じていたためともいわれる。それも簡単に就職口が決まったわけでなく、野口は持っている人脈のすべてを使ったそうだ。
伝染病研究所に入ったものの、実際にやらされた仕事は単なる図書係で、外国語論文の抄録や雑誌の編集だったらしい。それでも腐らず、そこで論文を読みあさり、抄録作りや編集をすることで研究論文の書き方、まとめ方も習得したようだ。
赤痢菌の一種であるフレクスナー菌を発見したジョンズ・ホプキンス大学教授サイモン・フレクスナーが来日した時に、野口が案内係として選ばれたのも英語ができたためだったという。その際、野口は米国に留学したいとの希望を伝え、快諾されたと都合よく解釈したが、実際にはフレクスナーは住所を教えただけだったという。その後野口はフレクスナーに手紙を書くも返信がなかったにもかかわらず、知人から留学費用を捻出してもらい、渡米に踏み切る。フレクスナーに会ったが、初めは助手の申し出も断られた。
それでもめげず、最終的にフレクスナーの知人で蛇毒研究の権威であるサウラス・ミッチェルに紹介してもらうも、毒蛇に毒を吐かせるだけの仕事だった。それでも熱心に仕事をこなし、休日も図書館にこもって蛇毒の文献を抄録し、リポートにまとめて提出した。それが評価され、少しずつ機会が与えられることで業績も生まれていったようだ。
七転び八起き。百折不撓(ひゃくせつふとう)。与えられた環境の中で最大限の努力をしながら、次の機会を虎視眈々(こしたんたん)と狙って準備する。機会が得られたならば、人並み以上の努力によってさらに上を目指す。そういった野口のハングリー精神は、今の日本にははやらないかもしれない。安全で安心に生活ができて、食べ物はおいしくて安く、ほぼ何でも手に入る。そんな満たされた国で、がむしゃらに働くこと、努力することの意味や価値が失われつつある。
ただし、急速に変化する世界の変化についていけず、多くの国に追いつかれ、追い抜かれ、いつの間にか取り残されそうになっている日本の現実も直視しなければならない。チャンスがあっても取りにいかない、リスクや問題ばかりを見て行動しようとしない人や組織も少なくない。失敗や不幸を他人や環境のせいにして、不満ばかりを言う人も多いと感じる。
そんな日本人には、野口の生き様をもう一度思い起こし、次のような一言を覚えておいてほしい。
「家が貧しくても、体が不自由でも、決して失望してはいけない。人の一生の幸も災いも、自分から作るもの。周りの人間も、周りの状況も、自分から作り出した影と知るべきである」
「第5回野口英世アフリカ賞」候補者の推薦の締め切りは9月20日(金)。是非、ご応募いただきたい。