東南アジアの国際河川メコン川が、気候変動と開発の影響で大きく変化している。それは流域の人々の暮らしや文化、産業に直結する課題だ。ベトナムを拠点に農業支援を続ける伊能まゆさん(特定非営利活動法人「Seed to Table」代表)は、地域の特性や環境を維持しながら人々の暮らしを豊かにする方法を、長年にわたり現場で模索している。伊能さんが見たメコン川と流域の人々への影響とは。

気温が下がらない、花が咲かない

「マンゴーの花が咲かないんだよ」

2023年12月、ベトナム南部のメコンデルタに位置するドンタップ省で、農薬や化学肥料を使わずに在来種のマンゴーの栽培を行っている農家さんが困っていた。例年、マンゴーの花は12月頃から咲き始め、少しずつ実をつけていく。当然のことながら、花が咲かなければ実もならず、マンゴー農家にとっては死活問題だ。

この農家さんになぜ花が咲かないのか、聞いてみたところ、気温が下がらないことが原因の一つだという。マンゴーの木が花芽を出し、花を咲かせるためには気温が24度から28度ぐらいまで下がる必要がある。ところが、気温がそこまで下がらず、マンゴーの花がなかなか咲かないとのことだった。

マンゴーの栽培を始めてから20年以上の経験を持つベテランの農家さんでも、気温はコントロールできない。気候変動の影響は大型台風の発生など、見えやすいものだけではなく、地域の生態系や農業など、見えにくいところへも静かに、そして、確実に表れている。

私たち、特定非営利活動法人Seed to Tableは、ドンタップ省におけるマンゴーの有機栽培を目指して農家グループと活動を始めている。メコンデルタにおけるマンゴーの栽培は他の果物と同じく、農薬や化学肥料が多く使用されている。理由は、熱帯に位置するメコンデルタは年間を通じて気温が高いため、果樹栽培を行う際、病気や害虫のリスクがあるからだ。

生育期間が短い野菜などは化学肥料や農薬を使用する慣行農法から有機農法へ比較的スムーズに移行できるが、果樹は成長に時間がかかるため、慣行農法を実践してきた農家が有機農法へ移行することは容易ではない。そのため、減農薬から始める必要がある。また、本来、ドンタップ省の在来種のマンゴーは1年に1回花をつけ、実をつけるが、マンゴー農家は収入を安定させるために、植物成長調整剤を活用し、1年に2回、収穫できるようにしている。そのため、有機農法への移行はさらにハードルが高くなる。

難しい果樹の減農薬栽培

こうした状況の中、私たちが活動を始めて3年目に、果敢にもマンゴーの減農薬栽培に取り組み無農薬、無化学肥料、そして植物成長調整剤を使用せずにマンゴーを栽培していけるようになりたいという農家たちが現れた。

この農家たちと共に減農薬栽培に取り組み始めた矢先、マンゴーのつぼみが出てこない、または花が咲かない世帯が続出した。ある世帯は「今年の2回目のマンゴーの収穫量は2トンほどになりそうだ。以前は10トン、収穫できたのだけどね」と話していた。

原因はまだ明確にはなっていないが、植物成長調整剤の使い過ぎでマンゴーの成長サイクルが狂ってしまったとも、前述のように高温が続いて気温が下がらないためとも考えられている。今年に入ってから、少雨と高温が続いており、このような気候が少なからずマンゴーの木に影響を与えていると考えられる。追い打ちをかけるように資材費や人件費が上昇し、経営は圧迫され、中にはマンゴー栽培をやめてホーチミン市に出稼ぎに出た農家もいる。

花芽の育成が止まってしまったマンゴー。植物成長調整剤を活用しても、気温が下がらないままだと花芽が出てこないという=2024年7月、ベトナム・ドンタップ省、筆者撮影

穏やかなメコンデルタの気候に守られ、これまで安定的にマンゴーを生産していた農家にとって、収入が激減したり、廃業したりせざるを得ない状況に追い込まれる危険性が高まっている。

「お袋の味」が消える?

ドンタップ省の人々の暮らしは、身近に流れるメコン川の変化にも影響を受けている。国際河川であるメコン川の最後の終着地はベトナムである。中国にある源流から、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジアを通り、ベトナムに流れ込む。その豊かな水量を活用し、流域国内で大小さまざまな水力発電用のダムが造られてきた。

電力を他国に売電することで外貨を得ている国もあるが、ダム開発によって川の流れや水量が変わり、または地形が変わったことで生態系が崩されたり、急な洪水が起こったりするなど、メコン川流域に住む多くの人々の暮らしは激変している。かつて人々の生活を豊かにしていた多種多様な魚類も品種および漁獲高ともに激減し、漁を生業としていた人々は別の仕事を探さなくてはならない状態に陥っている。

ベトナムも例外ではない。

例えば、カーリン(コイの仲間)はドンタップ省を代表する淡水魚であり、人々の暮らしや食文化に密着している。ドンタップ省の人々はカーリンを食べるだけではなく、魚醤(ぎょしょう)の原料として用いてきた。カーリンで作られた魚醤はドンタップ省の伝統的な調味料であり、家庭ごとに仕込んでおり、代々、受け継がれてきた「お袋の味」なのである。

私たちは、中学生や高校生と有機野菜を栽培する学校菜園事業を実施しており、その一環として、プロのシェフから、収穫した有機野菜と伝統的な食材や調味料を用いた伝統的な料理を教えてもらい、生徒たちと一緒に作る活動を行っている。そこで、必ず、生徒たちに魚醤について学ぶ機会を設けている。

プロのシェフたちによる伝統食作りの研修で、伝統的な魚醤と大量生産の魚醤の違いについて話を聞く高校生たち=2023年、ベトナム・ドンタップ省、筆者撮影

大量生産された魚醤と伝統的な方法で作られた魚醤の味比べをし、さらに栄養価の違いについても考える。生徒たちに自宅ではどんな魚醤を使っているか聞いてみると、他省の生徒たちは伝統的な魚醤よりも大量生産された魚醤を口にしている割合が多いが、ドンタップ省の生徒は、半数以上が自宅で作られたカーリンの魚醤を使っている。

しかし、4、5年前からカーリンの漁獲量が少なくなり、村でお母さんたちが「今年はカーリンが少なくて、魚醤が作れなかった。去年、仕込んだ魚醤がまだ残っているけど、来年はどうなるのか」と不安げに話すようになった。

「(淡水魚の)カーリンが獲れなくて、魚醤ができないかもしれない」と戸惑いながら話す女性。カーリンは2020年から極端に獲れなくなったという=2021年、ベトナム・ドンタップ省、筆者撮影

影響が懸念されるカンボジアの大運河建設

たくましいベトナムの人々は、メコン川の魚が少なくなってきていることを敏感に察知し、カーリンも含め、様々な淡水魚の養殖に乗り出している。今後、生態系がさらに崩れていけば、メコン川はかつての生命力を失った、味気ない「養殖場」と化していくであろう。

それでも水量と水流があれば、人々は養殖を行い、生計を立てていくことができるかもしれない。しかし、もし、上流で大規模な水路が建設され、メコン川の水量と水流が大きく変わっていくとしたら……。生態系への影響を考えただけでぞっとする話であるが、それが現実味を帯びている。

カンボジアで進行中の「フナン・テチョ運河」の開発によって、メコンデルタに住む人々がこれまで経験したこともない困難に見舞われるかもしれないからだ。フナン・テチョ運河は、物流の改善と貿易の促進を目的としてカンボジアの首都プノンペン近郊のメコン川からタイ湾へ18キロにわたり整備される予定である。中国が資金援助をする事業との報道もあり、ベトナムとしては様々な意味において、穏やかではいられない。

メコンデルタは世界屈指の穀倉地帯であり、ベトナムの食料安全保障という点においても、重要な地域である。これまで穏やかな気候と豊かな生態系を持つ大河に抱かれて人々は暮らしてきたが、これからは気候変動と開発の負の影響にどう向き合って生きていくのかを真剣に考えなければならないだろう。

私たちが取り組んでいるのは、ドンタップ省の皆さんの連携を促し、環境保全型の農業を推進すること。そして、加工を通じて在来の農産物の付加価値を高め、地域でビジネスを立ち上げ、運営していける若い人材を育成することだ。様々な困難を乗り越えていくために地域の人々の「足腰」を強くしていくこと、つまり、食料安全保障、環境保全、地域経済、そして人々のつながりを強化していくことが重要だと考えている。

今日もドンタップ省の甘いマンゴーを食べながら、厳しい現実をかみしめる。