パレスチナ自治区ガザのイスラム組織ハマスとイスラエル軍の戦闘が始まってから、1年あまり。イスラエル軍の攻撃が続くガザから隣国エジプトに逃れた人たちが行き場を失っている。子どもたちは学校にも行けず、見知らぬ街で息をひそめる。戦禍のガザから逃れても、「難民」としての保護すら受けられない。そんな国際社会のセーフティーネットの隙間に落ち込んだガザの人たちの境遇をジャーナリストの村山祐介さんが追った。(敬称略)

引き裂かれた家族

8月上旬、カイロ東部ナセルシティーの新興住宅地にあるアパートを訪ねた。ソファとテレビがぽつんと置かれた部屋に、ガザから逃れた9歳から22歳の姉妹6人が暮らしている。髪を後ろで結んだ小学生のラニーン・エルサタリー(12)が、「パレスチナの絵を描いたの。見たい?」と私に話しかけてきた。

ノートに青いボールペンで、ガザ地区南部ハンユニスでの暮らしが描写されている。

ラニーンが描いたガザ南部ハンユニスでの12人家族の暮らし。母と兄、弟妹が死亡、父は行方不明になった=2024年8月7日、カイロ、村山祐介撮影

「伝統の窯でパンを焼いてて、子どもたちが伝統のダッカダンスを教わっていて。じいじとばあばが一緒に遊んでくれた。でもいまはもう……」

ラニーンは無言で首を振った。そんな家族12人のにぎやかな生活は、昨年10月のイスラム組織ハマスによる越境攻撃、それに続くイスラエルによるガザへの報復攻撃で一変した。長女マラハ(22)は家族が次々に失われていく長い逃避行を語り始めた。

昨年10月25日の夕方、避難していた親族の家屋が突然崩れ、一帯が炎に包まれた。イスラエル軍機の空爆だった。焼け跡から母(40)と3歳の妹が遺体で見つかった。母の腕には、4歳の弟とみられる小さな焦げた遺体が抱かれていた。12棟が破壊され、親族だけで32人が命を奪われた。

「母はおばの家族と一緒に死んでしまいました。みんなです」

マラハの目から涙がこぼれた。

「母も、おばの家族も死んでしまいました。みんなです」。マラハの目から涙がこぼれた=2024年8月7日、カイロ、村山祐介撮影

「家族を失ったおばが『あなたたちのことを放っておかないからね』って励ましてくれたんです。いったい誰が誰を励まさなきゃいけないんでしょうか」

その数日後の未明、重度の腎臓病で週3回の人工透析を受けていた次男ラファト(15)が突然、全身けいれんを起こして意識を失った。空爆時に頭を打って脳を損傷していたのだ。12月にはイスラエル軍の避難勧告で最南部ラファに避難したが、その直後から父(54)とも連絡がつかなくなった。

病院はけが人であふれ、十分な治療を受けられないラファトの容体は日に日に悪化していく。今年2月になってやっと重傷者として国外搬送が認められたが、同行するはずだった長男(18)がラファ検問所で、「成人男性の出国は不可」と拒まれてしまう。係官に窮状を訴え、土壇場でマラハら女性だけは同行が認められた。

長男を1人ガザに残してエジプト側へ越境し、ようやくカイロの病院にたどり着いた翌日、ラファトは集中治療室で息を引き取った。手遅れだった。

マラハは幼い妹5人を前に悲嘆に暮れる間もなく、やっと見つけたこのアパートに転がり込んだ。ガザの親族からの仕送りで食いつないできたが、イスラエル軍が5月にラファを制圧した後にそれも途絶えた。国連機関や援助団体に掛け合っても話は進まず、いまはベルギーで難民申請中の次女(21)夫妻からの送金だけが支えだ。出費を抑え、一日中家にこもって過ごしている。

「しばらく普通には眠れていません。ときどき1日や2日寝てばかりいたり、突然、全く眠れなくなったり……」

エジプトでの居住許可証がないため、妹たちは地元の学校にも通えない。パレスチナ自治政府が運営するオンライン授業に申し込んだが、1人しか認められなかった。

「私はダメでした」と首を振ったラニーンは毎日、詩を書いたり、パレスチナの歌をノートに記したりして独学を続けている。一緒に遊んだり、通学したりしていた友達を何人も失った。「大きくなったら何になりたいか、打ち明けあったこともありました。私は先生になりたかったんです。でも、今は医者になりたい。もっと多くの命を救いたいから」

その思いを聞いた私は、言葉が出てこなかった。「きっとなれるよ」と声をかけると、ラニーンはにこやかに何度もうなずいた。

医者になりたいというラニーン。「きっとなれるよ」と声をかけると、うれしそうにうなずいた=2024年8月7日、カイロ、村山祐介撮影

在カイロ・パレスチナ大使が5月にロイター通信に語ったところによると、昨年の攻撃後にエジプトに逃れたガザ住民は約10万人。短期滞在しか認められておらず、居住許可証がないため就学や公的医療の利用、銀行口座の開設などができない状態が続いているという。

保護の網から抜け落ちた人たち

戦火から逃れたガザの人たちが、なぜ国や国際社会の保護を受けられないのか。

そこには1948年のイスラエル建国に伴い、約75万人のパレスチナ人が故郷を追われた「ナクバ(大破局)」以来の複雑な歴史が影を落としている。

国連機関において難民支援は、「国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)」が受け持っている。だが、パレスチナ難民だけは、ナクバを受けてUNHCRに先んじて一時的につくられた「国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)」が担ってきた。ガザやヨルダン川西岸、そして隣国ヨルダンとレバノン、シリアに逃れた約600万人を支え、病院や学校を運営し、いまや約2万8千人の職員を抱える巨大組織だ。

しかしエジプトは自国内でのUNRWAの活動を受け入れず、UNHCRがパレスチナ人を支援するのも認めなかった。避難先で定住が進むと、パレスチナの地を解放して難民を帰還させるという「大義」の妨げになるという立場をとってきたためだ。

カイロ・アメリカン大学移民難民研究所副所長のマイサ・アヨウブは論文で、「パレスチナ人としてのアイデンティティーを保ち、最終的に帰還させるのが目的でしたが、その後も、定住させないためにパレスチナ人を訪問者や客人として扱う立場を変えませんでした」と指摘する。その結果、エジプトに逃れたパレスチナ人は、「難民」としての保護の網からすっぽりと抜け落ちたまま放置されてきた。

昨年来の攻撃で犠牲者が増え続けても、隣国のエジプトやヨルダンはガザの人たちの難民としての受け入れをかたくなに拒んできた。エジプト外交を長く担った元エジプト外務次官補ガマル・バヨウミ(87)は私のインタビューに、「パレスチナ人が国を出たり、それをエジプトが受け入れたりするのではなく、パレスチナ人の抵抗を支援し、自らの地にとどまるのを私たちは後押ししてきました」と語った。武装勢力がシナイ半島に紛れ込むことへの警戒感や、物価高と財政難の中でスーダンやシリアなどからの難民・移民約900万人を受け入れており、経済的に余力がない事情もある。

ガザから逃れた人たちを難民として一時的に受け入れる可能性について問うと、「決して、決して、決してない」と繰り返した。「もちろん傷病者は受け入れますが」

イスラエルに封鎖され、「天井のない監獄」と呼ばれてきたガザ。戦時下ですら難民としての受け入れを拒まれ、大半の人は空爆の中を逃げまどうことしかできない。こうして昨年来のガザ攻撃は、4万人を超える死者を出しながら、大規模な「難民問題」が表面化しない閉ざされた人道危機となった。

1人75万円の「VIPルート」

ただ、イスラエル軍がラファを制圧する5月まで、脱出口はわずかに開いていた。

外国人と欧米など外国のパスポートを持つ二重国籍者、そしてラファトのような重傷者らの越境は公式に認められていたのだ。そしてもう一つ、大金さえ払えば越境できる「コーディネーション」(調整)と呼ばれる越境サービスも存在していた。

「お客様をVIPラウンジでおもてなしします」

ハラのフェイスブックページ。右下のガザから左下のエジプトまで「VIP」として越境できると宣伝されている=2024年10月10日、フェイスブックより

ナセルシティーに本社のある「ハラ・コンサルティング・アンド・ツーリズム」という旅行業者がフェイスブックに投稿した宣伝だ。ラファ検問所での越境の手続きから、カイロへの移動までまとめて手配するとうたう。様々な旅行業者が手掛けてきたこうした越境サービスは昨年の攻撃で中止されたが、ハラだけはほどなくサービスを再開した。

独占状態となったハラの「調整料」は、跳ね上がった。

1人数百米ドルだった大人料金は5千ドル(約75万円)超へ。16歳以下はその半分。ガザの大家族がそろって逃れるには、数百万円の大金を用立てなければならない。ガザに残る家族や友人を何とか救い出そうと、「GoFundMe」などのクラウドファンディングサイトには悲鳴にも似た寄付の呼びかけがずらりと並んでいる。

この「VIPルート」でガザを逃れた家族が今年オープンしたパレスチナ料理店が、ナセルシティーの雑居ビルの1階にあった。

本店は1960年に創業し、ガザに3店舗あった老舗で、創業家の名をとってエルホザンダールと名付けられている。昼どきはほぼ満席で、あちこちからパレスチナなまりのアラビア語が聞こえてきた。ガザを逃れた人たちが集うコミュニティーのような場所になっている。

ハラのVIPサービスで脱出したガザの家族がカイロで開いたパレスチナ料理店エルホザンダール=2024年8月5日、カイロ、村山祐介撮影

料理長で創業家の三男イスマイル(30)らは、親族22人で北部ガザ市から南部ハンユニス、そして最南部ラファへと逃げまどった。「あらゆる場所に爆撃があり、飲料水も電気も何もありませんでした」。五男マフムード(24)は「誰も生き残れないと思い、家族を守るためにガザを脱出する方法ばかり考えていました」と話す。

ハラのVIPサービスでガザから脱出し、カイロでパレスチナ料理店を開いたイスマイル(左)とマフムードの兄弟=2024年8月5日、カイロ、村山祐介撮影

親族で貯金を持ち寄り、車2台を売って4万2千ドル(約630万円)を工面したが、調整料は大人5千ドル、子ども2500ドル。10人分ほどにしかならず、話し合いの末、父が7人の子どもの中からイスマイルとマフムードの家族らを第1陣に選んだ。

2月中旬、臨月だったイスマイルの妻の陣痛が予定日より約2週間早く始まった。

鎮痛剤も尽きていたラファの病院でなんとか出産したものの、妻の出血が止まらない。そのさなかにハラから「明日出発してください」と電話を受け、妻は止血しながら新生児を抱えて出国した。

「妻の容体は非常に悪化していました。でもあの瞬間に出発していなければ、もう二度と脱出できなかったでしょう」

戦火は逃れたものの、エジプトの居住許可証はなく、他国に逃れることもガザに戻ることもできない。知人に借金を重ねて4月に自力でこの店を立ち上げた。

マフムードは首をひねる。「難民としての支援は何も見つかりませんでした。パレスチナ人は国連の保護のもとにあるといつも言われているのに、国連は今どこにいるんですか? UNRWAはどこなんですか?」。イスマイルも「避難民はほとんどのお金を使い果たしていて、エジプトで生活するためのお金は残っていません。食べていくためにはあらゆる助けが必要です」と訴えた。

この店で従業員として働く男性(19)も3月下旬、ハラの手配で越境した。

ガザで旅行会社やレストランなどを経営し、アパートを3棟貸す裕福な家で、親族16人分として7万ドル(約1040万円)をハラに支払った。大人はやはり5千ドルだった。

男性はスマートフォンで、ハラがSNSに掲載していた「越境者リスト」を見せてくれた。

スマホには親族の情報が載ったハラの越境リストの画像があった(氏名はモザイク加工しています)=2024年8月8日、カイロ、村山祐介撮影

「182」といった通し番号と氏名、生年月日がアラビア語で並び、子どもは同じ欄にまとめて記されている。地元の情報サイトがウェブに掲載した5月6日分のリストは「ガザからカイロへの旅行者」と題されており、約400人の名前が並んでいた。

男性は申し込みの約1カ月後に自分たちの名前をみつけ、小さなリュック一つで翌朝午前6時にラファ検問所に集まった。ガザ側とエジプト側で越境の手続きをして、ハラの大型バスで翌日午前1時にナセルシティーに着いた。

「家族をだれ一人失わずに済んでほっとはしましたが、こんな苦境の中で国を去ることはやりきれませんでした」

100億円規模の「越境利権」

命を脅かされたガザ住民から莫大(ばくだい)な「調整料」を取るハラの手口が欧米メディアで相次いで報じられて批判が高まった2月、エジプトのシュクリ外相は英スカイニュースに「あらゆる措置を講じる。この状況を利用した金もうけは許されない」と約束した。

だがその後もサービスは続き、英紙タイムズは4月、ハラの越境者リストの分析から、同社が3月上旬からの数週間で2万人以上の越境を手掛け、少なくとも8800万ドル(約130億円)の収入を得た可能性があると報じた。

戦時下に巨額のカネを生む「越境利権」をなぜハラは独占できたのか。

調査報道を手掛ける非営利組織「組織犯罪と汚職報告プロジェクト(OCCRP)」によると、ガザに隣接するシナイ半島の部族長でもある有力な実業家イブラヒム・オルガニがハラの親会社を所有しており、エジプトのシーシ大統領の出身母体であるエジプト軍とのつながりが深く、軍系企業との合弁会社もあったという。

この実業家は米紙ニューヨーク・タイムズのインタビューに、調整料は「子どもは無料、大人は2500米ドル」であり、「ハラが提供するのはVIP向けのサービスで、戦争でコストが急増しており必要な額だ」と妥当性を主張した。

結局、この「VIPルート」は5月、イスラエル軍がエジプトとの国境にある緩衝地帯(通称・フィラデルフィ回廊)を制圧したことで閉ざされた。イスラエルは回廊に軍を駐留させ続けることを主張し、米国が仲介するハマスとの停戦交渉は暗礁に乗り上げている。

親族の中で先陣として越境したはずだったマフムードたちは、今もガザに残る兄弟姉妹を脱出させるすべを失った。インターネットが不安定で、ときどき連絡がつかなくなるという。マフムードは言った。

「お金さえあれば、全員で越境できたのですが……」

           ◆

家族が分断され、搾取され、逃れた先でも制約下に置かれ、支援の手も届かない――。ガザの人たちが直面するこの不条理は、今に始まったものでも、エジプトに限ったことでもない。

「エクスガザン」(ガザ出身者の意)

イスラエルのもう一つの隣国、ヨルダンにそう呼ばれる人たちがいる。故郷ガザが壊滅状態になるなか、どんな思いで暮らしているのか。私は「エクスガザン」の人たちに会いに行った。