放置された二重苦 ヨルダンに18万人以上、ガザ出身者への差別
パレスチナのガザ地区から半世紀以上前にヨルダンに逃れた難民は、「ガザ出身者」と呼ばれ差別と貧困に苦しんでいます。村山祐介さんが現地取材しました。

パレスチナのガザ地区から半世紀以上前にヨルダンに逃れた難民は、「ガザ出身者」と呼ばれ差別と貧困に苦しんでいます。村山祐介さんが現地取材しました。
パレスチナ自治区ガザから半世紀以上前にヨルダンに逃れた難民約18万5千人が今も、外国人として厳しい差別を受けている。「エクスガザン」(ガザ出身者)と呼ばれて就労から教育、医療に至るまで様々な制約が課され、最貧の暮らしから抜け出す道は見えない。帰るべき故郷ガザが日々破壊されるなか、不条理にあえぐエクスガザンたちの胸中を探った。(敬称略)
首都アンマンから車で約1時間。北部ジェラシュの街から郊外の丘に入ると、雰囲気は一変した。外壁がはがれた民家が密集する路地は車1台が通るのがやっとで、でこぼこの路面をポリ袋が舞う。生ごみがあふれ、すえた臭いが漂うゴミ用コンテナの近くを子どもたちが駆け回っている。
東京ドーム16個分の丘の上に約3万5千人が暮らす「ジェラシュ難民キャンプ」。9割がガザの元住民とその子孫で、「ex-Gazan」(エクスガザン、ガザ出身者の意)と呼ばれている。
「最も密集したキャンプの一つで、そして残念ながら最も貧しいキャンプです」
ヨルダンで10カ所の難民キャンプを運営する国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の地区長、アイマン・バカール(56)はそう表現した。失業率は5割を超え、約53%がヨルダンにおける貧困ライン(1日の収入が約480円)を下回り、医療保険にも88%が入っていないという。
貧困の最大の理由は、ガザ以外の地域から来たパレスチナ難民とは違ってヨルダン国籍を与えられていないことだ。就労は厳しく制約されて収入は乏しいのに、公的サービスを受けるための「国民番号」がないため、学費や医療費、許認可費用に至るまで「外国人」として数倍もの割高な支払いを強いられている。
キャンプで理髪店を営むファイク・アブシャバブ(28)は、左腕にある10センチほどの手術痕を私に突き出した。
「自費診療で2千ディナール(約43万円)もかかりました。医療保険があれば4分の1で済んだのですが……」
ファイクはUNRWAが運営する学校で教職に就くことを目指し、半年ごとに休学して学費を稼ぎながら7年かけて大学を卒業した。「私にとって働き口はUNRWAか企業、自営業しかありません。でもガザ出身者が自営業者として働く許可を得るには毎年1千ディナール(約22万円)も払わなければなりません。1人で食べていくのが精いっぱいで、とても将来家族を持って養うことなどできません」
頼みのUNRWAも慢性的な資金不足に加え、イスラエルによるガザ攻撃以降、欧米や日本などからの資金拠出を一時止められた時期もあり、清掃員などの欠員補充もままならない状態が続く。就職をしたくても3~4年待ちは当たり前だという。
エクスガザンがヨルダン国内の公務員になる道は閉ざされている。また、弁護士や薬剤師など専門性の高い職種に就いたり、民間企業で働いたり、開業したりするには、ヨルダン政府当局による身元調査を経て外国人向けの高額な就労許可を得なくてはならない。ほとんどの人が農作業や建設作業員などの日雇い仕事で食いつないできた。大学を出たファイクの4人の姉や兄も定職に就けず、友人も日雇い仕事ばかりという。
制約は暮らしの隅々まで張り巡らされている。
自分名義で家を買うことはできず、パスポートは有効期限が短く手数料も数倍の「一時旅券」、大学の学費も2~3倍の外国人料金……。ほかのパレスチナ難民の友人たちには無縁の悩みで、ファイクは「アンフェアだ」と感じている。何をするにも、エクスガザンの自分に許されるのかどうか、入念に考えなければならず、眠れない夜が続く。
「薬物やお酒に手を出す若者たちもいます。信仰があるから自殺しないでいますが、実は……欧州に移民として渡ることを考えています」
UNRWAによると、ヨルダンに暮らすパレスチナ難民約250万人のうち、エクスガザンは約18万5千人。なぜガザ出身者だけが外国人として扱われているのか。
話はイスラエル建国に伴う1948年の第1次中東戦争で約75万人が故郷を追われた「ナクバ」(大破局)にさかのぼる。その後、ヨルダン川西岸は隣国ヨルダンに併合され、住民にはヨルダン国籍が与えられた。ガザは隣国エジプトの統治下に入った。
そして1967年の第3次中東戦争で西岸やガザなどがイスラエルに占領され、再び多くの住民がヨルダンに逃れた。すでにヨルダン国民となっていた西岸住民とは異なり、ヨルダン国籍を持たないガザ住民は外国人として一時的に受け入れられることになった。これがエクスガザンのルーツだ。その多くは二つの戦争で家を2度追われた「二重難民」でもあった。
その苦しみは日々増している。昨年来のイスラエル軍の攻撃で、戻るはずの故郷ガザが無残に破壊されていく様を見せつけられているためだ。ほとんどの人たちがガザに親類を持ち、4万人以上に達した犠牲者の情報をかき集めている。
主婦トゥルファ・アヤシュ(80)はガザに住む親族3人が命を落とした。「みんな死ぬのを見ているだけで、何もしてくれません。ニュースを見ていると夜も眠れません」
そして首を振り、ひじ掛けを2度たたいた。「ああ、神よ、もうこんな人生は嫌です」
地元ジャーナリスト、ムスタファ・ジャルボウ(28)もガザの親族を失った。
「逃げまどっていて連絡が取れず、何が起きているのか正確にはわかりませんが、空爆で少なくとも親族37人が殺されたことだけはわかっています」。エジプトと同様、ヨルダンは現在ガザからの難民受け入れを拒んでおり、多くのエクスガザンがなけなしのお金や衣類、食料をガザに送っているという。
ムスタファは「みんな疲れ切っています」と言った。「憤りを抱え込んだ若者たちは、粗悪な薬物に依存したり、けんかばかりしたりしています。状況はどんどん悪くなるばかりで、希望を失っています」
エクスガザンの窮状は半世紀が過ぎた今まで、なぜ放置されてきたのか。私はヨルダン外務省パレスチナ局(DPA)のジェラシュキャンプ運営委員会を訪ねた。自身もエクスガザンで、委員長をボランティアとして務める元教師のカイド・ガイス(62)は「アラブ首脳が一部のパレスチナ人の市民権を維持させ続けることを申し合わせたためです」とパレスチナ問題全体と絡み合う事情を語り始めた。
パレスチナ難民は1948年の国連総会決議で故郷への「帰還権」が認められ、アラブ諸国はその実現を「パレスチナの大義」として掲げてきた。これに対し、イスラエルは一貫して帰還権を否認してきた。
カイドは、西岸出身者のように避難先のヨルダン国籍を持つ人ばかりになると、「イスラエルは『帰還を待っている難民などいない』と言うでしょう」と語った。「いつの日か帰還について交渉するためには、『パレスチナ難民』が存在し続けることが必要だったのです。そうでなければ、難民問題は『解決済み』となってしまいますから」
交渉のカードとして、「帰還すべき難民」が存在することの「生き証人」とされたエクスガザン。だが、その役割を担わされたまま時は流れた。
イスラエルとパレスチナの2国家共存を目指した1993年のオスロ合意は頓挫し、イスラム組織ハマスが制圧したガザは2007年からイスラエルに封鎖されて出入りを厳しく制限され、「天井のない監獄」となった。その後も数年おきに大規模なガザ攻撃が繰り返された。帰還は遠のくが、大義をおろすわけにもいかない――。そんなアラブ社会が抱えるジレンマの中でエクスガザンの不遇は放置され、やがて関心も向けられなくなった。
カイド自身は納得していない。「私たちはいつまでたっても、どの国籍も保有していないままです。パレスチナの国籍すら持っていません。エクスガザンを一時的な状況に置き続けることには個人的には同意できません。アンフェアです。故郷を失った状態で70年もの間苦しんでいるのですから」
若い世代の将来はどうなるのか。カイドは私が質問をし終える前に言った。
「真っ暗です。光が見えません」
そして自らの若いころと重ね合わせるように言った。「キャンプ内にいるうちは問題ありません。でもその先の進路で壁にぶち当たります。ほかの人は応募できるのに、自分には認められていない。ほかの人はヨルダン人だけど、自分は違う。いったいどこに行けばいいのだろう。キャンプ以外はダメと言われても、と」
エクスガザンが背負ってきた不条理は、若い世代にものしかかっている。
放課後になると、町外れにあるスポーツセンター「ガザクラブ」に若者たちが集まってきた。
バレーボール部のムハンマド・アブハシシ(16)は日本の中学校相当の課程を終えたばかりで、この秋から電気技師を目指して職業訓練校に進む。「ハイブリッド車は将来有望で、収入にもつながります」と語ったあと、「本当はホテル運営を学びたかったんですが、僕はエクスガザンでだめなので」と打ち明けた。
進路選択の時期を迎えると、誰もが自分がエクスガザンだという現実を突きつけられる。ムハンマドが「他人と違う」と気づいたのは2年前のことだった。親族の多くが定職についていないことを不思議に思って調べたところ、エクスガザンの就労には高い壁があることを知った。
「何て言ったらいいのかわかりません。めちゃくちゃ変だ話だなと。その時に分かったんです。僕たちにはできることと、できないことがあるんだと」
同級生でバスケット部のムハンマド・アルアブス(16)は獣医師になって、大きな馬小屋でたくさんの馬を育てるのが夢だという。
「でも問題がありそうで心配です。友達も親戚も獣医師になった人はいませんから。でも僕はやってみます」。そして指折り数えながら言った。「僕たちには将来なんかないんだと感じています。結婚もできないし、家族を養うこともできない。実際、できることなんて何もありません」。数日前、家の近くの路上で少年に「エクスガザンはここから出て行け」と言われたという。ムハンマドは一度も行ったことのないガザに「帰りたい」とつぶやいた。
女子生徒ラハフ・ヤフヤ(15)は医師になる希望をあきらめ、看護師を目指すことにしていた。
「できれば医者になりたかった。でもいいんです。私はヨルダン人ではありませんから。もちろんいい気持ちはしませんが、私には似合っていると思うので看護師を目指していきます」
キャンプの住民支援団体でボランティアをしているエクスガザンのジョンディヤ・アワド(51)は、若者たちの将来を危惧している。国全体として失業率が高止まりするヨルダンでは、自国民の雇用を優先する姿勢が強まっているためだ。「キャンプの若者の9割は就労許可を取れません。取得費用が最近高くなり過ぎていますから。この5年で状況は本当に悪化しました。コロナ禍で大勢が日雇い仕事すら失いました。若い人たちは私たちと同じような暮らしすらできないでしょう」
抑圧されたストレスがキャンプの若者たちの心をむしばんでいるとも感じている。「薬物依存が増え、犯罪率も上がっています。19歳の女性が今年、大学の学費のめどが立たなくて自殺しました」。ジョンディヤは「私はキャンプを愛していますが、何もできません」と深くため息をついた。そして、思い詰める前にヨルダンを出て行くよう促している、と明かした。
「この国を出るようみんなの背中を押しているんです。カナダや、オランダなどの欧州に行った人たちがたくさんいます」
そしてこみ上げる憤りをぶつけるように、右足で強く床を踏みつけた。「エクスガザンと分かったら、土足で踏みつけられるのよ。がんじがらめにされて、いったいどうすればいいのでしょう」
「天井のない監獄」はガザだけではなかったのだ。ジョンディヤは右腕を振り上げて言った。「パレスチナに帰って暮らしたい。砂漠の中でもいいから」
若者たちの話を聞きながら、私は、文系か理系か、選択科目を悩んでいた自分の娘(14)の姿と重ね合わせていた。エクスガザンであるがゆえに、一方的に砕かれる将来への夢。それは次の世代を担う若者たちには理不尽すぎる仕打ちだった。
呪縛を断ち切ろうと、多くの人たちが国を出ることを考えていた。ただ、安全なヨルダンに難民として暮らすエクスガザンが、欧米で新たに難民認定を受けられる可能性は乏しく、豊かなペルシャ湾岸諸国もかつてほどパレスチナ難民を歓迎していない。その結果、より危険な道を進む人たちが増えている、とジョンディヤは言った。ヨルダンで生活していた「エクスガザン」という出自を隠すため、あえて内戦中のシリアや武装勢力が割拠するリビアに渡ったうえで欧州を目指す人たちが後を絶たないというのだ。
取材をしていて唯一希望を感じたのが、貧しい暮らしにもかかわらず教育熱が非常に高いことだった。「教育はこの状況から抜け出せる唯一の道」「学位は武器」といった言葉をあちこちで耳にした。厳しい制約にもかかわらず、サイバーセキュリティーやハイブリッド車に関する知識や技術の取得に挑もうとする若者たちもいた。
エクスガザンのカイドは、将来について「真っ暗です。光が見えません」と言った。確かに境遇の抜本的な改善、ましてや帰還の実現は容易ではない。でも少なくとも、今を生きる人たち、そして次の世代に対し、「真っ暗」で危険な道ではなく、努力の先に「光がみえる」道をつくるのが私たち国際社会の務めだと思った。