「見えない地球課題」をテーマに12月14日に開かれたトークイベント(主催・with Planet)に、作家の角田光代さんといとうせいこうさんが登壇。国際NGOの案内で長年にわたり世界各国を訪れている2人は昨年、同時期にバングラデシュのロヒンギャ難民キャンプを訪れた。キャンプの現状を伝えるとともに、世界の課題に関心を持ったきっかけや活動の原動力について、竹下由佳編集長を交えて語り合った。

ロヒンギャ難民キャンプで出会った「忘れられた人々」

角田さんは2009年から国際NGO「プラン・インターナショナル」の案内で、いとうさんは2016年から「国境なき医師団」(MSF)の案内で支援の現場に足を運んできた。今回のイベントが初対面だという2人だが、2024年6月にそれぞれバングラデシュ南東部コックスバザールの難民キャンプを訪れていた。ここには、隣国ミャンマーから国境を越えてきたロヒンギャの人々が暮らしている。

視察したロヒンギャ難民キャンプについて語る作家の角田光代さん(中央)=2024年12月14日、東京都中央区、葛谷晋吾撮影

はじめに竹下編集長がロヒンギャについて説明し、実際のキャンプの様子を2人にたずねた。

ロヒンギャは仏教徒が9割を占めるミャンマーにおいて西部ラカイン州に古くから住む少数派のイスラム教徒。1982年の国籍法の改正にともない市民権を剥奪(はくだつ)され、無国籍となった。2017年にはロヒンギャの武装勢力の蜂起がきっかけでミャンマー国軍による大規模な掃討作戦が始まり、70万人以上がバングラデシュに避難。現在は100万人以上が国を追われているとされる。

角田さんが難民キャンプで目にしたのは、竹と防水シートで作った簡素な家が立ち並ぶ光景だった。「彼らを長く滞在させないため、バングラデシュ側がコンクリートの家を作らせない」からだが、掃討作戦から7年がたった今も帰還のめどは立たない。キャンプ内で多くの子どもが生まれ、人口は「1年で4万人ずつ増えている」(いとうさん)が、その多くが栄養失調に陥っているという。

難民キャンプの中を行き交うロヒンギャの人々=2024年11月27日、バングラデシュ南東部コックスバザール、朝日新聞社

問題はキャンプの中だけに限らない。角田さんがキャンプ近郊に暮らす住民から話を聞いて驚いたのは、受け入れ側の負担の大きさだ。約12平方キロメートルと東京都千代田区ほどの広さがあるキャンプ一帯はもともと、ゾウが住むジャングルだった。森を切りひらいた結果、「山からきれいな水が出なくなったと怒っていた」。憎しみの矛先が支援団体に向くこともあり、「キャンプ内外で苦しい思いをする人がいて、歯がゆさを感じた」と明かす。

苦しい状況の中に感じた、一つの希望

今回の視察で角田さんは、ジェンダー問題に対する啓発と教育支援を主な活動とするプラン・インターナショナルが設置した教室を訪ねた。14歳から24歳までの男女を対象に読み書きを教えている。

ロヒンギャ難民キャンプで読み書きを教える教室を訪ねた角田光代さん=2024年6月、プラン・インターナショナル提供

数人の生徒に「勉強ができるようになって良かったこと」をたずねた角田さん。「自信がついた」「将来の夢ができた」「自分の子どもに教えられる」など、さまざまな声が聞かれる中、ある男児の言葉に心を揺さぶられたという。

「前は何もやることがなかったけど、今は学校で勉強ができてうれしい」。角田さんは、ミャンマー・ラカイン州を拠点とする少数民族武装勢力のアラカン軍などがキャンプ内で子どもを武装勢力に勧誘する事例が後を絶たない状況を踏まえ、「することがない時に『お金をあげるからきて』と言われたら、私だったら行ってしまう。勉強の機会があるのは、私の想像を超えて良いことだと思った」という気づきを語った。

武装勢力やギャングらの存在はキャンプ内の治安に影を落とす。いとうさんによると、夜になると響く銃声にストレスを抱える人や、ギャングに恐喝された人もいる。2人が視察を終えた直後には、キャンプ内で武装勢力間の衝突が激化。昨年8月にはミャンマー側でも大規模な衝突があり、「バングラデシュに何千人も逃げてきたが、食料支援が足りていないと聞いた」(いとうさん)。

視察したロヒンギャ難民キャンプについて語る作家のいとうせいこうさん=2024年12月14日、東京都中央区、葛谷晋吾撮影

こうした衝突に巻き込まれた人に治療を施すのが、いとうさんを案内したMSFの活動の一つだ。バングラデシュの難民キャンプで1992年から活動を始めたMSFは、基礎医療や感染症の治療、妊婦へのケアを提供するほか、キャンプ内で井戸を掘ったり、公衆トイレを整備・点検したりと、住民の暮らしを幅広く支える。

2人がキャンプを訪れた当時、C型肝炎が急速に蔓延(まんえん)していた。MSFの調査によると、成人した難民の20%がC型肝炎に感染。いとうさんは腹膜炎を併発した重篤な患者らの写真を見せながら、「正確な原因は医師でもつかみきれないが、原因の一つは注射針の使い回し」だと説明。「住民が苦しむのは感染症に限らない。高血圧や糖尿病などの慢性疾患を抱える人も少なくない」と加えた。

苦しい状況だが、その中でいとうさんは一つの希望も感じた。難民のつらい体験に耳を傾けたり、手洗いの仕方などを教えて衛生面の啓発をしたりするヘルスプロモーターの存在だ。いとうさんが出会った女性は、彼女自身もロヒンギャであり、「自分たちで同胞を守ろうとする誇りを感じた」という。

いとうさんはまた、「胸を打たれた一人」として日本人の看護師を挙げた。幼い頃に病弱だったその女性は病院でMSFを知り、「病気が治ったらMSFに入って人を救う」と決意。退院後に英語を習得し、いくつもの国に出向いてきたという。このほか、MSFがキャンプ内の高台で2018年から運営する「丘の上の病院」に派遣されていた日本人医師も紹介した。

竹下編集長は「この地で日本人が活躍していることに希望を感じた」と述べた。

見えない地球課題と関わりを持ったきっかけ

竹下編集長は次に、2人が世界の課題に関心を持ったきっかけを聞いた。

角田さんは2009年にプランから視察の依頼を受けた。当時は「寄付のその先」に関心があり、「寄付金が途中でいくら引かれ、どれだけの額が支援先に届くのかが知りたかった」と引き受けた理由を明かす。最初に訪れた西アフリカのマリでは、プランが展開する女性器切除(FGM)廃止運動を視察した。

首都バマコから車で長時間をかけて訪ねた村で、女性たちがFGMについて話し合う場面を見た角田さん。そこで自身の考えが変わる出来事があった。「男性で唯一、そこに参加していた人がいた。理由を聞くと『だって(この問題に)関わっちゃったから』と。それを聞いて、寄付金がどうなるかなんて理由がばからしくなって。このスタンスでいいなら、私にもできることがあると思った」

角田さんはこう続ける。「実は、FGM廃止運動も西洋的な価値観の押し付けだとしたら、それは嫌だと思っていた。でも実際は、さびたナイフで処置をして感染症や出血多量で命を落とす女の子が多くいて、当たり前だと思っていた習慣がそうではないと知った現地の人は怒っていた」。間違いに気づき、怒りをぶつけることが重要な第一歩だと感じたという。

いとうさんのきっかけは、自身が寄付していたMSFから受けた取材だった。そのとき初めて、MSFには仮設住宅や共同トイレ、井戸などを整備・管理する人や難民の証言を集める人など、医療関係者に限らず多様な人材が活躍していると知った。だがその事実を世の中に発信しきれていないと聞き、その場で「自分に書かせてほしい」と頼んだという。

初対面だという角田光代さんといとうせいこうさん。トークイベントでは、息の合ったやりとりが続いた=2024年12月14日、東京都中央区、葛谷晋吾撮影

カリブ海の島国ハイチを皮切りに、現在までに8カ国・地域を訪れたいとうさん。2019年に訪問したのはパレスチナ自治区ガザ地区だ。MSFのオフィスと宿舎の写真を見せながら、その様子について語った。

「取材を終えて1年半後、写真の建物のほど近くにあるMSFの診療所が空爆された。付近の道路が陥没し、MSFの職員も出入りできない。(医療行為への道を断つための)嫌な攻撃だ」。平和的なデモに参加していたガザの人々の足を狙う攻撃については「骨も肉もぐちゃぐちゃになった患者を治療し続ける間に国力は落ちる。国力を下げて、殺さない。これが今の戦争なんだと思った」と主張した。

いとうさんはまた、ロヒンギャとガザの人々との共通点についても触れた。「長年にわたる抑圧の結果としての攻撃がきっかけで、アンバランスな暴力を振るわれている点が似ている」と指摘。「難民キャンプの子どもの5人に1人は『Free Palestine(パレスチナ解放)』と書かれたシャツを着ていた。物心つく前の子たちに着せたシャツを通して私たちに訴えていた」

それぞれの立場で、できることに取り組む

見えない地球課題を知れば知るほど、悲しみに暮れるときもあるはず。それでもこの活動を長年続けてきた2人に、竹下編集長はその原動力について聞いた。

「正直、バングラデシュでは気持ちが落ちてしまった」と明かした角田さん。「キャンプ内では病気が広がり、衝突も起きている。寄付は減っても人はどんどん増え、でも(故郷に)帰る希望が見えない」。だが、どんな状況でもプラン・インターナショナルのメンバーは前を向いていた、という。

作家の角田光代さん=2024年12月14日、東京都中央区、葛谷晋吾撮影

「当時の局長は『私たちは難民を母国に帰すことはできないけど、キャンプでの暮らしをほんの少しでも快適にすることはできる』と話していて。この言葉で、私が一人で政治を背負った気になっていたと気づいた」。各地に足を運ぶたび、こうした学びを得られることが活動を続けるモチベーションの一つだという。

いとうさんは、人々のストーリーを伝えるのが自分の役目だと感じている。「自分なら耐えられないような苦しい状況を生き抜いてきた人と話すたび、その声を必ず伝えなきゃ、と思える。伝える役であればどこにでもすぐに行く」

作家のいとうせいこうさん=2024年12月14日、東京都中央区、葛谷晋吾撮影

竹下編集長は最後に、世界から顧みられない人々を訪ねてきた2人の活動は、作家としての活動にどんな影響を与えたのかを聞いた。

角田さんは「現地で見たものを小説に生かすのには倫理的な葛藤がある」と吐露した上で、「この人にこれを聞いたら失礼なんじゃないかと逡巡(しゅんじゅん)し、本当は10聞きたいのに4しか聞けないときも多い。でも、ためらわずに質問できるようになったらそれは自分ではない気がしていて。この感覚を持ち続けたいとも思う」と正直な思いを打ち明けた。

竹下編集長はジャーナリストとしての考えを述べた上で、「それぞれの立場で、それぞれの方法で情報を発信することが大切だと思った」と応えた。

「『国境なき医師団』を見に行く」シリーズとしてウェブや書籍で積極的に発信しているいとうさん。「支援する側もされる側も、話をすると人間の尊厳に関わるストーリーを持っている。だから、メモに残した話はほとんどすべて書く。『私たちは忘れられている』と言う人もいるけど、『そうじゃない。僕が聞いたことは全部書きます』という気持ちだ」と明かした。

その上で「日本はビルマ(現ミャンマー)と第2次世界大戦時から深い関係があるし、バングラデシュにも多額の支援をしている。現在の問題は、日本と必ずつながっているといった話も伝えることに意義があると思う」と力を込めた。

with Planet主催のトークイベント「見えない地球課題を考える」の様子=2024年12月14日、東京都中央区、葛谷晋吾撮影