タイで35年以上にわたり、隣国ミャンマーからの難民や労働者らを無料で診療している医師、シンシア・マウンさん(65)が昨年11月に来日した。ミャンマーでは2021年2月、軍事クーデターが発生。国軍による市民への弾圧や少数民族武装組織との戦闘などが広がり、国境をはさんだ地域の医療をめぐる状況は悪化の一途をたどっているという。シンシアさんにこれまでの取り組みを振り返ってもらうとともに、現状や課題について聞いた。

都内で開かれた講演会で話をするシンシア・マウンさん=2024年11月10日、東京都豊島区の立教大学、渋谷敦志氏撮影

国境の無料診療所

ミャンマーのヤンゴン近郊で生まれたシンシアさんは、医科大学を卒業後、医師として、ヤンゴンの病院で診療にあたるほか、自身のルーツでもある少数民族カレンの無医村で医療支援に従事してきた。1988年に学生を中心に広がった民主化運動に参加したが、国軍の弾圧を受け、国境を越えてタイ北西部の街メソトに難民として逃れた。翌年、7人の仲間とともに診療所「メータオ・クリニック」を開設した。

「タイとミャンマーの間には長い国境があります。私たちは、ミャンマーから移り住んだ人たちに医療サービスを提供してきました。患者の中には、出稼ぎ労働者や、紛争や抑圧などから逃れてきた避難民もいます。またミャンマー国内で保健サービスに従事する人たちの研修などを実施してきました」

メータオ・クリニックでの診療風景。日本のNPO法人「メータオ・クリニック支援の会(JAM)」から派遣された看護師らも活動する=2017年4月5日、タイ北西部メソト、渋谷敦志氏撮影

患者数は多い時で年間15万人に達したという。活動は国際的にも高く評価され、2002年にアジアのノーベル賞と呼ばれる「マグサイサイ賞」を受賞した。

民政移管で国境を越えた治療も

クリニックが大きな転機を迎えたのは、2011年に始まったミャンマーの民政移管だ。軍政と、対峙(たいじ)していた少数民族地域の政治組織との間で和平に向けた話し合いが始まった。2015年の連邦議会選挙でアウンサンスーチー氏率いる政党が大勝し、政権を握ると、民主化の流れが加速した。こうした動きに伴い、これまでクリニックを支えてきた国や団体などからの援助や寄付がミャンマー国内に向けられるようになった。クリニックの運営は、資金不足のため厳しい状況に置かれたが、規模の縮小などで乗り切ってきた。

2012年4月に実施されたミャンマー連邦議会の補欠選挙で当選し、首都ネピドーの連邦議会に初登院するアウンサンスーチー氏(中央)=2012年5月2日、藤谷健撮影

一方、ミャンマー国内での和平機運が高まる中、ミャンマー政府の保健省と少数民族地域の保健医療担当部門との協力が進んだ。

「子どもたちは初めて国の予算で予防接種を受けられるようになるなど、少数民族地域の保健医療サービスが強化され、拡大しました。またリファラルシステム(患者紹介制度)を活用し、重症患者などが国境を越えてメータオ・クリニックに送られ、タイ側で治療を受けることが可能になったのです」

軍事クーデターで避難民が急増

しかし、2021年の軍事クーデターで状況は一変する。

「保健省で働いていた人たちの多くは国軍に反対しました。その結果、600人の医療従事者が解雇され、900人が逮捕されました。また多くはタイ国境に逃れました。ミャンマー国軍は、ワクチンや医薬品を含む人道支援物資が(国境沿いの)少数民族地域に入ることを制限したり、妨害したりしています。例えば、マラリア対策が中断され、治療薬が国内に入らなくなり、感染者が急増しています。国軍による少数民族地域の攻撃は激しさを増し、現場に残る医療従事者たちは、救命救急サービスに従事しなければならなくなっています」

「少数民族地域では多くの人が家を追われ、国境を越える人が増えています。クーデター前、私たちの活動している国境地域には、(ミャンマーからの)およそ25万人が暮らしていました。そのほとんどが出稼ぎ労働者でした。いまは40万人程度に増えています。国軍の政治的な弾圧から逃れてきた人々、例えば、医師や看護師、医療関係者、教師など、都市部から来た人々をより多く見かけるようになりました。また目立つのは、軍の徴兵制度の導入によって、多くの若者が徴兵を逃れるために国境に逃げてきていることです」

保健省と少数民族地域の保健医療担当部門の関係が断絶したことで、多くの問題が生まれている。医療へのアクセスが失われ、住民の健康状態が著しく悪化している。またワクチン接種が実施されなくなり、過去3年間にミャンマー国内で生まれた多くの子どもは一度もワクチンを接種していないという。

「(ミャンマー国内の状況との)因果関係は分かりませんが、ジフテリアなど、ワクチンで予防できる疾病がタイ国内でも起き始めています。タイ政府は疾病対策プログラムに非常に力を入れています。私たちも疾病監視や症例発見、発生制御システムの能力を強化しなければなりません」

急増するマラリア患者

メータオ・クリニックの状況も再び大きく変わった。新型コロナウイルス感染症のパンデミックを受けてミャンマーとの国境が閉鎖されたことで、受診者は大幅に減少し、2021年は3万人だった。しかしクーデター後は患者数が急増している。2022年は6万5千人、2023年は10万人と増え続け、2024年は10月までですでに10万人を超えた。

さらに目立つのが、マラリアの患者の増加だ。かつて国境地域では、治療薬に耐性を持つマラリアが蔓延(まんえん)していた。2012年に筆者が取材でメータオ・クリニックを訪れた際、耐性マラリアに感染したと見られる患者が、治療を受けているにもかかわらず、本来なら数日で下がるはずの熱が一向に引かずに長期の入院を強いられていた。

マラリアに感染し、治療を受けるミャンマー人女性。高熱が続いたため、夫に連れられてきた=2012年7月30日、タイ北西部メソトのメータオ・クリニック、藤谷健撮影

シンシアさんによると、2012年から2014年にかけて、国境を挟んだ両国でマラリア対策が本格的に始動したという。ミャンマー国内ではマラリア対策のために訓練を受けたボランティアがコミュニティーに配置され、予防や早期発見・治療などにあたった。和平の流れの中、保健省と少数民族保健当局との連携がこうした取り組みを後押ししたほか、タイ側の協力も得たことで、過去10年間でマラリアの症例は大幅に減少したという。

「マラリアの治療で最も大切なのは、早期の発見と適切な治療です。それを支えるのが、医薬品や医療機器の流通システムと情報システムの整備です。患者はどこにいて、(複数の種類のあるうち)どのマラリアに感染しているのか、罹患(りかん)率や死亡率などのデータを収集することが対策につながります。しかしクーデターはすべてをリセットしてしまいました。クリニックで治療するマラリア感染者は、クーデーターの直前まで年間15人前後だけだったのが、年間300人を超えるまでに増えました。タイ政府や研究機関は薬剤耐性の問題が再燃することを極めて警戒しています」

メンタルヘルスの問題も

ミャンマー国内で長期化する紛争は、国境地域の医療活動に大きな影を落とす。

「国軍との戦闘で負傷し、より複雑な手術を必要とする患者が増えており、国境に逃れてきた医師や看護師によって治療を受けています。避難民の中には、うつ病や心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しむ人がいて、メンタルヘルスの問題も深刻化しています。心理的・社会的な支援やリハビリテーション支援が必要です。またミャンマー国内では対応ができず、国境を越えて緊急産科医療を必要とする女性が増えています」

ミャンマーからの移民の子どもたちが学ぶ学校で話をするシンシア・マウンさん=2017年、渋谷敦志氏撮影

タイ政府は難民条約を批准していないため、ミャンマーから国境を越えてくる人たちを、難民ではなく、避難民とみなす。そのため、国境地域に臨時の安全区域を設け、紛争時に1~2週間という期間を区切って、滞在を認めているという。その後、ミャンマー側に戻されるが、多くはミャンマー側の国境付近にある国内避難民キャンプにとどまることになる。メータオ・クリニックは、タイ政府の許可を得て、国境近くの村のリーダーや検問所と調整し、ミャンマー側に食料や医薬品、医療用品を送っているという。

増える国内避難民、人々守る支援を

さらにミャンマー国内では、国軍とこれに対抗する勢力との戦闘が長引く中、国内避難民も急増している。国境沿いの民族地域だけでなく、多数派のビルマ族が多い中央部でも国内避難民は増えている。それにもかかわらず、支援はほとんど届いていないのが現状だという。

「現在、約300万人が紛争地からの避難を余儀なくされています。それだけでなく、国内では人口の3分の1にあたる約1700万人が人道支援を必要としています。しかし国軍は、国内避難民への薬や医療品の供給や、医師や看護師など医療スタッフの派遣を一切認めていません。またこれまでに300を超える医療施設が戦闘によって破壊されました。一方、こうした非常に不安定な状況の中でも献身的に働く医療従事者がいます。いくつかの大学のスタッフや元学生、教師らが、医療ユニットを組織し、重度の緊急事態に対応したり、その地域でプライマリーケアを担ったりしています。こうしたネットワークは少しずつ広がり、昨年3月には新しい組織が生まれました。国外からの支援は時間はかかりますが、こうした組織に届くようになってきました」

グローバルヘルス関係の合同学会で基調講演を行うシンシア・マウンさん=2024年11月16日、沖縄県糸満市の「くくる糸満」、亀山仁氏撮影

シンシアさんは、日本をはじめとする国外からの支援の大切さを力説する。

「人道支援は非常に重要です。それは金銭的な支援だけにとどまりません。人々の保護を確実にしなければなりません。民間人が空爆や砲撃、爆撃、村の焼き打ちの標的になっているように見える場合、民間人を保護し、学校が攻撃されて子どもたちが殺されるのを防ぐ必要があります。あらゆる暴力を阻止し、民間人を保護すると同時に、人道介入に取り組む民間組織や人道支援組織を保護しなければなりません。とりわけ女性や子どもたちの保護とリハビリテーションに焦点を当てる必要があります」

「ミャンマーの現状は非常に深刻です。目の前の緊急なニーズにこたえるだけでなく、より持続可能な国の将来を築くためにも、日本や国際社会からのさらなる協力と支援を必要としています」