「縮小する関係」が問う日本の在り方:アフリカと日本
TICAD9を前に、長年アフリカ大陸に向き合ってきた専門家の皆さんのコラムを連載します。第2回は、日本貿易振興機構上席主任調査研究員の平野克己さんです。

TICAD9を前に、長年アフリカ大陸に向き合ってきた専門家の皆さんのコラムを連載します。第2回は、日本貿易振興機構上席主任調査研究員の平野克己さんです。
with Planetでは、8月に横浜で開かれる「第9回アフリカ開発会議」(TICAD9)を前に、「アフリカと日本」と題した専門家によるコラムを掲載しています。これまでの歩みを振り返りつつ、なぜアフリカと関わるようになったのか、アフリカの現状や未来、日本との関係をどのように捉えているのか、提言も交えながらつづっていただきます。第2回は、40年にわたりアフリカと向き合ってきた「アフリカニスト」、日本貿易振興機構(JETRO)上席主任調査研究員の平野克己さんです。
アフリカに特段の興味があるわけではなかった。大学院で経済学を専攻していた私は、経済が壊れ人命に危機が及ぶような極限状況を実際に見て経済システムの根幹を知りたかったのである。そこで1年間留年し、バイトをしまくって金をため、その資金で行ける最も貧しい国、スーダンに向かった。出発前にかき集めた紹介状のつてで国立ゲジラ大学にタダで潜り込み、学生寮で生活しながら資料を集め、それを元に修士論文を書いた。
帰国後、紹介状を書いてくれた方々にあいさつ回りをしていたら外務省につれていかれ、在ジンバブエ大使館に専門調査員として赴任することになる。任務は南部アフリカ開発調整会議(現SADC)の調査であった。これはアパルトヘイトを実施していた南アフリカからの経済自立をめざす組織で、外務省は関係強化を図っていた。
ジンバブエから帰国したら笹川平和財団から声がかかる。「緑の革命」で有名なノーマン・ボーローグ博士の指揮下でアフリカ農業開発プロジェクトに従事し、予算作りから政府との交渉まで様々な経験を積ませてもらったが、なにより農業に関する知見を得たのは大きかった。
笹川平和財団勤務3年目にアジア経済研究所の試験を受けて研究職に就く。私は南アフリカ民主化の実態を調査するため、この国初の1994年民主選挙の前後2年間、ウィッツウォータースランド大学に派遣された。革命を目の当たりにし、マンデラ大統領に会うこともできた。
帰国後は論文を書きまくり、大学で教鞭(きょうべん)もとったが、アジア経済研究所がJETROと統合したことで今度はJETROの所長として再び南アフリカに赴任した。
資源高によってアフリカ経済が急成長を始めていた時代で、中国のアフリカ攻勢が急ピッチで動いており、また南アフリカ企業が世界展開を進めていた。日本企業のアフリカビジネスを支援する方法を模索したものの、当時は官民の隔たりが大きく難儀した。しかし2008年のTICAD4では官民連携が打ち出され、今日の体制につながっていく。帰国すると日本でもアフリカブームが到来、講演依頼が増えてメディア出演も多くなった。
2015年にJETROの理事に任命されると、研究所の運営のみならず、JETRO全体のアフリカ事業を背負うことになり、アフリカがらみの会議と書類が押し寄せてきた。日本の中枢に近いところで仕事ができたためにいろいろな仕組みが分かり、アフリカの政府閣僚や大使たちとの交流も増えた。
理事職を退いてから再び研究室に蟄居(ちっきょ)して最後の本を上梓(じょうし)した後、一線から退く決断をして郷里北海道に戻り、学界からも引退した。いまはオンラインで現場の相談を受け、若い職員相手に古老語りをする「元アフリカニスト爺(じじ)」である。
であるからしてアフリカニストとしての私のキャリアは、よく言えば多彩であるが、あっちに行ったりこっちに来たりの乱脈ともいえる。研究生活が短く業績作りには不利な面もあったが、研究室にいられるときは倦(う)まずたゆまずだった。
経済学徒だった時のテーマは「低開発」。かつて南北問題と言われた低開発は徐々にサブサハラアフリカの地域問題と化し、開発経済学はアフリカ学の色合いが濃くなっている。私は「アフリカの相対的高賃金が製造業の競争力を弱めている、相対的高賃金は食糧生産農業の低生産性が原因である」という論を立て、統計資料を多用しながら論文を書いた。1990年代まで、日本のアフリカ研究では国連統計などを使った統計学的手法は一般的ではなかった。当時は「アフリカは低賃金」というのが通念だったが、各種統計ではアジア諸国を上回る数字が出ていたのである。アフリカ製造業の高コスト体質と資本装備率(企業内の労働力に対する設備投資の比率)の高さは、ビジネスの世界では常識だ。
また1990年代は日本の政府開発援助の全盛期で、世界的にみても対アフリカ政策の主体は援助だった。援助は不思議な政策である。歴史的にみると政策目的が不明瞭なうえ、ときどきに変化して、掲げられた目的からはその分配や増減を説明できない。援助を外交手段として捉え、国際関係の文脈でみなければ、その実態と歴史は分からないのである。この分野の先行研究は貧寒としているが、それでも私は援助研究を柱の一つとしてきた。
民主南アフリカの新体制作りを観察するに際しては政治学を勉強した。現地の学界では当時、「多極共存型民主主義モデル」が研究されており、健全だったころの与党アフリカ民族会議(ANC)には自由主義の伝統が生きていた。自由主義と民主主義の共存は世界的課題だが、その前提となる市民社会論や国民国家論がアフリカではなかなか通用しない。「誰のための国家か」という根源的な問いが常につきまとうのである。
他方、民主化に際して南アフリカの企業家が発揮した大胆不敵な経営戦略をみて、経営学の勉強にもいそしんだ。経営学は経済学とはまったく違う学問だ。経済学の基本は市場競争にあるが、経営学の重鎮マイケル・ポーターは「競争を避けよ」と言う。価格競争は利潤のそぎ落としであり、創造的差別化こそが企業を潤すのであって、アフリカビジネスも同様である。
研究生活の最後は人口学に挑んだ。人口学は最長の分析スパンをもつ社会科学で人類学にも近接している。私はアフリカの特性を食糧生産農業に求めてきたが、それはアフリカ独特の家族形態と表裏一体であって、そのことが高い出生率をもたらすのである。
日本では「アフリカは遠い」という言説をいまだ耳にする。物理的距離なら南米のほうがはるかに遠いし、そもそも現代は距離が意味をもつ時代ではない。世界を遠近感で眺める感覚のほうが問題だ。私がアフリカニストとしての職業生活で学んだこと、それらが与えてくれた視角の先にあるのは世界の在り方であり、日本の姿である。
私は「貧しいアフリカ人を救え」とは主張しない。数億人の貧困層や数百万人の難民を前にして日本にできることは限られている。日本の困窮児童に手を差し伸べるのが先だろう。また「アフリカ市場にぜひ進出せよ」とも主張しない。進出するかしないかは、それぞれの業態によるし、経営者が判断すべきことだ。ただ、アフリカを考慮に入れられないようではグローバル企業にはなれないし、世界市場を見ていない企業に利潤拡大の機会は訪れない。
グローバル企業の視野には必ずアフリカが入っている。縮小を免れない国内市場に依存する経済では、日本が先進国の位置にとどまることはできない。今日本は、世界各国のなかで最低水準にある輸出比率や投資受け入れ比率を向上させる必要に迫られている。日本は世界の中で最もグローバル化されていない国の一つだ。その逼塞(ひっそく)のなかで縮小し続けている。
アフリカの人口は半世紀以上にわたって毎年2.5%ずつ膨張してきた。国連はこれが急激に減速すると予測するが、その兆候はない。人口予測が外れるのは出生率が読めないからだ。私は、今世紀末には人類の半分がアフリカ人になっている可能性が大きいと考えている。少なくとも、アフリカ人が人類の構成上、圧倒的存在になっていくことはまちがいない。
従属人口(年少人口と老年人口)が膨大で投資率が低いアフリカは、経済成長には向いていないが、一方で消費者の数は急速に増え続けている。このことはビジネスチャンスを生み出しもするが食糧問題の淵源(えんげん)でもある。アフリカという人口増大圏と、その他の人口減少圏という二極構造が、人や財の移動に強く影響を及ぼしていくことになるだろう。
現状日本とアフリカの関係は縮小傾向にあるが、これは日本の国力が減退している証しである。対アフリカ関係が問うているのは、アフリカではなく日本の問題なのだ。