子どもたちが児童労働に飛び込むのは、貧困から逃れるためというのが一番の要因ですが、都会への憧れや教育のためというケースも。きっかけはなんであれ、大人に比べて低賃金で働かされたり、教育へのアクセスが断たれたりと、根深い問題です。子どもたちが児童労働をしないようにするにはどうしたら良いのか。児童労働が深刻なネパールの現場で、NGOや行政、学校の取り組みを取材しました。

牢屋のようなカーペット工場で働かされた少年

アフリカに次いで働く子どもたちが多いのが南アジアだ。インドと中国に挟まれた内陸国ネパールでは、NGOや行政、学校などが協力して、貧困が児童労働を生む負の連鎖を断ち切ろうとしている。

首都カトマンズから車で約6時間。国立公園に隣接するマナハリ村は、森と田畑が交互に広がる。道路沿いには「ゾウに注意」の看板が立ち、トラが人里に姿を見せることもある。

幹線道路から脇道に入って川を渡ると、森の中に家々が点在する集落に着いた=2025年4月2日、ネパール・マナハリ村、筆者撮影

ここに暮らすデパック・プラジャさん(18)は3年前、住み込みで働いていた首都のカーペット工場から逃げ出した。

午前4時から午後8時まで働かされ、休みは土曜日の半日だけ。食事も午前10時と午後8時の2度だけだった。

「仕事中にスマートフォンを触ってしまい、殴られた。家に帰りたいと行っても許してもらえず、牢屋のようだった」。相談を受けた父親がオーナーと掛け合っても、「帰して欲しければ5万ルピー(約5万7千円)を支払え」と応じない状況だった。

都会に憧れ、親にも言わずバスに飛び乗った

カトマンズに出たのは、自分の意思だった。数人の友人とバスに飛び乗った。リュックに着替えを数着詰め込み、所持金はほとんどなかった。カーペット工場で働くためで、両親には伝えなかった。

トラックやバスが砂ぼこりを巻き上げ、クラクションを鳴らしながら追い越しを繰り返す山道。車窓を眺めるデパックさんの心の中は、新生活への希望と、残してきた家族への思いで複雑だった。

村には、首都に働きに出ている友人が何十人もいた。ソーシャルメディアで見る友人の生活は、きらびやかに見えた。「彼らは格好いい服を着てうらやましかった」。当時を振り返って、そう語る。

工場から逃げた彼をサポートしたのが、地元NGOの「CWIN」。父親の相談を受けた行政当局からの連絡で、状況を把握。カトマンズやマナハリ村に近いヘタウダ市の事務所にあるシェルターにかくまった。労働雇用局などと連携し、工場への聞き取りも進めた。

カーペット工場から救助されたばかりのデパックさんを映した写真。NGOスタッフが見せてくれた=2025年4月2日、ネパール・マナハリ村、筆者撮影

「当時のデパックは不安定で、涙を流して孤独を感じていた」とCWINのカウンセラー、サムジャナ・アディカリさん(35)。シェルターでの生活を経て、1カ月ほどでマナハリ村に戻った。

今では、森の中の集落で両親と弟、妹と一緒に暮らす。復学した学校は、他の生徒との年齢差もあり、なじめずにやめたが、家族で暮らせていて幸せだと笑顔を見せる。

シングルマザーの母親を支えたくて野菜売りに

ネパールは18歳未満の危険な労働を禁止する「子どもの権利条約」を批准し、国内法で14歳未満のすべての児童労働を禁止する。それでも、都会への憧れや貧困を理由に、児童労働に飛び込む子どもは多い。

ヘタウダ市に暮らすヒマンス・バニアさん(12)はシングルマザーの母親、3人のきょうだいと、トイレや水道が共用の借家に暮らす。窓のない一間にわずかな家財道具とコンロ、ベッドが2台。母親は家政婦を掛け持ちで働くが毎月の給与は9千ルピー(約1万円)ほど。半分は家賃に消える。

シングルマザーの母親(右端)を支えたくて、野菜売りをしていたヒマンス・バニアさん(右から2人目)=2025年4月1日、ネパール・ヘタウダ市、筆者撮影

ヒマンスさんは2年生のとき、母親を助けたい、と学校をやめ、近所の野菜売りの仕事を手伝いはじめた。午前6時から夜9時ごろまで、オクラやキュウリ、青菜やオレンジなどを市場で売った。隣の市まで行商に出ることもあった。

「野菜を運ぶのは重かったし、大声で売り歩くのは大変だった。でも、毎日300~500ルピーもらえて、お母さんの助けになると思うとうれしかった」。母親も「学校を続けて欲しかったが、お金はとても助かった」と話す。

そんなとき、CWINがヒマンスさんが野菜売りをしているとの情報を入手。家庭の状況を確認した上で、サポートを始めた。CWINから制服やカバン、文房具のほか、小額の金銭的援助を受け、彼は学校に復学できた。「ネパール語の授業が好き。給食をみんなで分けたり、休み時間におしゃべりしたりするのが楽しい」

家族のために学校をやめて野菜売りをしていたヒマンス・バニアさん。「将来はお金が稼げる人になりたい」と語る=2025年4月1日、ネパール・ヘタウダ市、筆者撮影

変わりつつあるネパールの社会規範

児童労働には、貧困に悩む子どもと、その家族を助けているように見える側面もある。

しかし、ヘタウダ市に事務所を置く労働雇用局のルドゥラ・ナラヤン・サイ局長は「児童労働は通常より支払いも少ないし、スキルやキャリアも形成できない」と断じる。NGOや警察と協力して取り締まりを強化しており、直近3カ月でも子どもを働かせていた雇用主10人に2万5千ルピー(約2万7千円)の罰金を科したという。

NGOの努力や行政の取り締まりで、社会規範も変わりつつある。

ヘタウダ市で食堂を営むサントス・ガルトゥラさん(36)は、5年前から子どもを雇うのを止めた。大きな道路沿いの4階建てビルの1階にある店の入り口の壁はカラフルな絵が描かれ、清潔な店内で従業員らが忙しく働く。定番の豆カレーとご飯のセット「ダルバート」が人気の店だ。

ガルトゥラさんはかつて、店の周りをぶらぶらする子どもに声を掛け、掃除や皿洗いなどをさせていた。まかないの食事も与え、良かれと思っていた。

それでも、取り締まりを受けたこともあり、気持ちを改めた。「今では児童労働に罪悪感を覚える。子どもが働く店を敬遠する客も増えてきて、自分のビジネスにもプラスになっている」

食堂を営むサントス・ガルトゥラさん(中央)。約5年前から児童労働をさせないと宣言している=2025年4月1日、ネパール・ヘタウダ市、筆者撮影

子どもたちが学校に通い続けるためには

学校の役割も非常に重要だ。

デパックさんが暮らす村には、長く差別されてきた少数民族「チェパン」の人々が住む。18年前に地域のリーダーたちが設立した小学校を訪ねた。

チェパンの子どもたちが多く通う小学校。この日は学期末の休みで、子どもたちの姿はなくがらんとしていた=2025年4月2日、ネパール・マナハリ村、筆者撮影

チェパンの人々は伝統的に土地所有が許されずに貧困率が高い。学校に通ったことのない親も多く、教育への関心の低さが児童労働につながっていた。小学校は当初、子どもを集めるのに苦労したというが、今はチェパンの子を中心に145人が通う。

校長のゴルカナ・バハドゥ・ティトゥンさんは「スポーツやゲームの要素を授業に取り入れて魅力的な教育をすることを心がけている。保護者会にほとんどの親が参加するなど、理解も高まってきた」と語る。働きに出るために学校をやめる児童も、10年前には年間20人ほどいたが、3、4人程度に減ってきたという。

カトマンズの親戚宅で家事手伝いをさせられたことがある、サワスティカ・プラジャさん(左)=2025年4月2日、ネパール・マナハリ村、筆者撮影

この学校に通うサワスティカ・プラジャさん(12)も、およそ3年前に児童労働を経験した。カトマンズの学校に通わせてくれると聞いて身を寄せた親戚宅で、子どもの世話や家事を担わされた。

親戚の夫婦が仕事で不在の日中は1歳の女児と二人きり。学校にも行かせてもらえず、働かされた8カ月間、外に出ることすら許されなかったという。父親が病死したことをきっかけに自宅に戻れたが、給与などは一切支払われていない。

今では学校に復学して、4月から5年生に進級したサワスティカさん。欠席もほとんどせず、通学を続けている。「英語と算数が難しいけど、何でも話せる親友もできた」と語る。

スマホの普及で新たな課題も

国際労働機関(ILO)と政府が2021年にまとめた児童労働の数も、2008年の160万人から2018年には110万人に減った。

地元NGO「CWIN」の事務所内にあるシェルターのキッチン。児童労働から救出された子どもなどが最大半年半生活できる=2025年4月2日、ネパール・ヘタウダ市、筆者撮影

ただ、CWINと協力してマナハリ村のほかネパール各地で児童労働の問題に取り組む日本のNGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」のネパール事務所長、横田好美さん(43)は、近年、新たな課題が出てきていると打ち明ける。

農村部でもスマホが普及し、子どもたちがネットで自ら仕事を探して働いてしまうケースが増えているという。「以前はレストランや工場で働いていないかを確認して、救助することが解決になっていたが、より複雑になってきている」

行政の取り締まりには、児童労働をよりアンダーグラウンドに追い込む危険性もあるとも指摘する。貧しい子は、学校へ行くより日銭を稼ぐために働きたくなる。教育につなぎとめるには、親の関与や教育支援、貧困対策など包括的な対応が欠かせないという。