保護主義でパンデミックは防げない:Visionary Voices
今回の筆者は、国連合同エイズ計画(UNAIDS)のウィニー・ビャニマ事務局長と、ロンドン大学ユニバーシティーカレッジのマイケル・マーモット教授です。

今回の筆者は、国連合同エイズ計画(UNAIDS)のウィニー・ビャニマ事務局長と、ロンドン大学ユニバーシティーカレッジのマイケル・マーモット教授です。
「Visionary Voices」は、論説記事を配信するプロジェクト・シンジケートが、発展途上国の直面する課題に関する専門家の論考を提供するシリーズです。with Planetでは、配信記事の中からよりすぐりを抄訳し、掲載します。
グローバルノース諸国(北半球にある先進諸国=訳注)の多くが内向きになる中で、対外援助は格好の標的になっている。米国際開発局(USAID)の解体がメディアの見出しを大きく飾っているが、英国や欧州の多くの国も対外援助の予算を削減している。こうした国々の政策立案者は、この支出を一種の慈善事業と見なし、自国の経済力と軍事力を強化することのほうが、より多くの人々により多くの利益をもたらせると考えている。
筆者は、国連合同エイズ計画(UNAIDS)事務局長で国連事務次長のウィニー・ビャニマ氏と、ロンドン大学ユニバーシティーカレッジの疫学教授、同大学の健康公正研究所所長のマイケル・マーモット氏
これは近視眼的な考えだ。19世紀から20世紀初頭にかけての強国の野望を想起させる姿勢であり、その姿勢は結果として2度の壊滅的な世界大戦をもたらした。その未曽有の悲劇から、ブレトンウッズ体制、国際連合、二国間対外援助プログラム、CAREやOxfamなど国際人道支援NGOも含めたグローバルガバナンスの枠組みが生まれ、それらは当初、復興のニーズや人道危機への対応に重点を置き、その後、開発に目を向けた。このアプローチは欠点も抱えていたが、10億人以上の人々を極度の貧困から救い出して、世界中に安定した繁栄する経済を築く力となった。
世界的な保健システムはその一例だ。米英をはじめ裕福な国々からの資金援助で構築されたこのシステムは、感染症の発生率や健康格差を大幅に縮小し、より安全で安心な世界をつくり出してきた。そして5年前には新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の検出と拡散の追跡、世界的対応の動員に貢献した。
しかしCOVID-19はまた、貧しい国々や貧困世帯がいかに不平等とパンデミック(世界的大流行)の悪循環に陥っているかを示す契機にもなった。換言すれば、グローバルノースの援助は過大で、その見返りは過小という主張とは裏腹に、貧乏くじを引かされているのはグローバルサウス(南半球に位置する途上国、新興国の総称=訳注)なのだ。私たちもメンバーである「不平等、エイズ、パンデミックに関する世界評議会(Global Council on Inequality, AIDS and Pandemics)」が、査読を受けた何百もの研究を集積して分析した結果、貧困層や社会から置き去りにされた人々は、病気の流行時に医療サービスの入手に苦労し、感染症や病気にかかる確率も、死亡する可能性も高いことが明らかになった。ウイルスやその他の伝染病はこのような脆弱(ぜいじゃく)性を食い物にし、アウトブレーク(集団発生)をエピデミック(広域流行)へ、エピデミックをパンデミックへと広げ、それが不平等を深めて悪循環をさらに悪化させる。
COVID-19の流行初期には、グローバルノースの国々で、この不平等とパンデミックの悪循環が明らかになった。ホワイトカラーの専門職は高速インターネットや遠隔会議システムのおかげで、自宅で安全に働くことができたが、小規模の企業や工場は閉鎖され、ブルーカラーの労働者は生活の危機に見舞われた。これらの国々でパンデミックから最大の打撃を受けたのは、低所得者や黒人、少数民族(マイノリティー)のコミュニティーだった。
パンデミックの不平等な影響は、国家間にも見られた。ワクチンは記録的な速さで開発されたが、これは戦略的産業に目覚ましい多国間投資が行われた結果だった。しかしワクチンのほとんどは高所得国が購入し、その余剰分を発展途上国に分け与えようとしなかった。このワクチンの買い占めによって100万人以上が死亡し、世界経済は推定2兆3千億ドルの損失を被ることとなった。
エイズ流行の初期対応にも同じパターンが見られた。20世紀末、グローバルノースでは効き目の確かな抗レトロウイルス薬が入手可能になった。しかし、エイズはグローバルサウス、とりわけサハラ以南のアフリカで何十万もの命を奪い続けた。救命治療を受ける機会を拒まれた理不尽な状況は世界的な怒りに火をつけ、それが国連合同エイズ計画(UNAIDS)、グローバルファンド(世界エイズ・結核・マラリア対策基金)、米国の大統領エイズ救済緊急計画(PEPFAR)の設立につながった。2002年には、抗レトロウイルス薬を利用できるHIV感染者は100万人に満たなかったが、現在では3千万人以上が利用できるようになっている。治療を受けられる機会を拡大することで、これまでに推定2600万の命が救われた。また、最近の対外援助削減以前の世界であれば、2030年までに公衆衛生の脅威としてのエイズを終結させる、という目標を達成できていたかもしれない。
エイズの終結を目指した数十年に及ぶ道のりは、保健システムや医学研究の重要性、ワクチンや医薬品の製造に投資することの大切さを、グローバルノースとサウスの両方で明確に示してきた。さらには、雇用の安定や所得水準、教育、手頃な住宅の入手機会、権利の尊重などを含めて、しばしば「健康の社会的決定要因」と呼ばれる「人々の生活環境」が彼らの幸福を左右することも浮き彫りになった。
例えば、1996年、エイズの流行でとりわけ大きな打撃を受けた(南部アフリカの)ボツワナは、国の公教育制度に中等教育を1年追加するという効果的な対策を打った。この政策はHIV感染のリスクに学校教育がどのような影響をもたらすかという、集団レベルでの自然実験場となった。旧制度と新制度の下で就学した膨大な若者群を分析した結果、就学年数が1年増えると、若者のHIV感染リスクが8.1ポイント減少することがわかった。この防護効果が最も大きかった対照群が「女性」で、就学年数が1年増えることで女性のHIV感染リスクは11.6ポイント減少した。
より公平な社会を構築することは、病気の集団発生に対応してパンデミックを防ぐ準備の整った、より健康的な人口を生み出すことに結びつく。対照的に、公教育への資金援助を打ち切り、社会的セーフティーネットを縮小し、関税を課し、国境を閉鎖し、対外援助を削減し、多国間協力から撤退することは、不平等を拡大し、政治の不安定性をあおり、経済移民(より良い就労機会を求めて自国を離れること=訳注)を加速させ、ウイルスが繁殖する条件をつくり出すことになる。
これは現在のウクライナに顕著だ。医療制度が過剰な負担を強いられ、戦争で荒廃した地域社会を通じて薬剤に耐性を持つ感染症の広がりが加速している。一方、グローバリゼーションと気候変動の影響もあって、世界ではエボラ出血熱、エムポックス(サル痘)、麻疹(はしか)、マールブルグ病などの発生と流行が増加傾向にある。世界的な保健システムを弱体化させることは、こうした感染症の流行を悪化・拡大させ、人命を奪い、不平等を深め、社会を不安定化させることにつながる。専門家はすでに、USAIDが提供したものを含む米国の援助プログラムの削減により、2029年までにエイズによる死亡者数が400%増加する可能性を警告している。
パンデミックの不変の教訓は、みんなが安全になるまでは誰も安全ではないということだ。壁を築き、世界を遮断しても、人々を守ることはできない。みんなを守るには、不平等を減らし、世界規模の保健システムに投資するしかない。この文脈においては、協力こそが究極の利己的行為なのだ。(翻訳:棚橋志行)