「Visionary Voices」は、論説記事を配信するプロジェクト・シンジケートが、発展途上国の直面する課題に関する専門家の論考を提供するシリーズです。with Planetでは、配信記事の中から選りすぐりを抄訳し、掲載します。

4年前、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の爆発的な感染(パンデミック)の真っただ中で、各国政府は国民を守り経済の崩壊を防ごうと奮闘していた。当時、あの存亡の危機への取り組みが政治の最優先課題だったことに異論を挟む者はいないだろう。

かつてノルウェー首相や世界保健機関(WHO)事務局長を務めた私は、COVID-19に対して世界が取った協調的対応に感銘を受けた。たしかに、国内にも各国間にも大きな不平等があったし、特にワクチンの入手機会については社会的弱者があまりに高い代償を払う結果となった。それでも私は、パンデミックの計り知れない影響が政治的な大転換をうながし、将来的な準備や予防、対応にそれまで以上の大きな連帯をもたらすのではないかと、当然のように期待した。

筆者は、ノルウェー元首相で、世界保健機関(WHO)の元事務局長、グロ・ハーレム・ブルントラント氏

期待は裏切られた。COVID-19の教訓が忘れ去られつつあるのは、気がめいるくらい明らかだ。世界は依然として、この過去のパンデミックを特徴づけたパニックとその後の対策放棄というおなじみのサイクルから抜け出せずにいる。政治指導者たちは今、COVID-19やH5N1型鳥インフルエンザ、デング熱といった現在の脅威からあらかた目をそらしていて、COVID-19については、もはや公衆衛生上の緊急事態ではなくなったというのに、しかるべき事後研究に委ねられていない。そして、壊滅的な結果をもたらす新たなパンデミックが発生するのはほぼ確実と言っていいだろうーーとりわけ、気候変動と環境の悪化が進行中の現在だけに。

これらは仮想に基づいたリスクではない。8月14日、WHOのテドロス事務局長は、東アフリカで最近爆発的に感染が拡大したエムポックス(サル痘)を「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」と宣言した。国際社会は今、アフリカの被災国や感染のリスクが最も高い国々を支援するだけでなく、感染がさらに多くの国へ、そして世界中へと広がっていく可能性に備えなければならない。

私はCOVID-19の発生以前から、この悪循環を断ち切らないと私たちは重大な危険にさらされることになると警告してきた。2019年9月、(現在、私が共同議長を務める)世界健康危機モニタリング委員会は、感染症の破壊的流行(すなわち、パンデミック)の深刻なリスクに焦点を当てた報告書を発表した。自分たちの警告がどれほど将来を暗示するものか、私たちは気づいていなかった。

結論の出なかった「パンデミック条約」

そして今、気がつけば私たちは、政治的意志の欠落としか理解しようがない新たな対策放棄の局面を迎えている。COVID-19の時期には崇高な言葉の数々が語られたにもかかわらず、各国首脳や政府は復興努力の障害となる不平等への取り組みを怠っている。豊かな国々が次のパンデミックへの取り組みをより公平な(それゆえ、より効果的な)ものにする努力をほとんどしてこなかった点は容認しがたい。

たとえば、政府間交渉機関(INB)がCOVID-19の再発防止を目指す世界的な協定の策定に向けて2年間取り組んできたにもかかわらず、5月末から6月初めにかけて開かれた第77回「世界保健総会」では新たな「パンデミック条約」をまとめることができなかった。協議を1年延長することにはなった。しかし、そこには由々しき問題がある。パンデミックに対する準備と、対応、そこからの復興には不平等があり、それに取り組む方策の合意には政治的支援が必要なのに、加盟国はいまだ交渉担当者たちにそれを提供する気がないように見えるのだ。

重要事項にコンセンサスが得られないのは、先進国と新興国の間に信頼の欠如が拡大していること、地政学的緊張が深まる中で多国間体制が機能していないことの表れだ。しかしこれを、現代最大級の脅威への対応を遅らせる口実にしてはならない。INBには独立した専門家や市民社会団体の関与を最大限活用する新たな取り組みが必要であり、世界的な公平性の向上という目標に加盟国が(口先だけの賛同でなく)主眼を置いて取り組み続けるよう万全の手を打つ必要がある。

新たな備えに向け、WHO以外の枠組みも

さらに、過去4年で学んだことがあるとすれば、WHO主導の道筋だけでは、パンデミックという存亡にかかわる脅威に取り組むには不十分ということだ。ほかの多国間機関も準備態勢の改善に取り組むべきだろう。9月に開催された「国連未来サミット」に加え、今後のG7、G20の会合でこの課題の緊急性を強調し、世界の指導者たちに行動をうながす必要がある。有意義な変革をもたらすために必要な政治的指導力と資金を確保するうえで決定的に重要なのは、こうしたフォーラムにおいて世界の健康安全保障を目に見える形でどんどん擁護していくことではないか。

その目的に向けて、「エルダーズ」の呼称で知られる元政治指導者グループは、国連の指導者が世界的ショックに対し迅速な対応を動員できるようにする一連のプロトコル「緊急プラットフォーム」が未来サミットで採択されるよう支援している。世界貿易機関(WTO)の加盟国は、コロンビアが提案したように、「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定」(TRIPS協定)の実施を見直すことに同意すべきだ。TRIPSはワクチンや治療法の特許保護を規定する協定で、それゆえパンデミックへの対応努力に重要な役割を果たすものだ。

パンデミックへの備えを強化することは必要にして不可欠だ。しかしそれは、より広範な多国間協調主義が復活することの一環でもあるべきだ。歩み寄りと協力がなければ、人類の最も深刻な課題に立ち向かうことはできないのだから。(翻訳:棚橋志行)