ブラジルはどのように感染症と闘ってきたか? その歩みから学ぶこと
医師で公益社団法人グローバルヘルス技術振興基金(GHITファンド)CEO國井修さんが、「人生観を大きく変えた」というブラジルの、保健医療対策についてつづります。

医師で公益社団法人グローバルヘルス技術振興基金(GHITファンド)CEO國井修さんが、「人生観を大きく変えた」というブラジルの、保健医療対策についてつづります。
世界の低中所得国130カ国以上で感染症対策、母子保健、人道支援などグローバルヘルスに取り組んでいる、医師で公益社団法人グローバルヘルス技術振興基金(GHITファンド)CEOの國井修さんが、「私の人生観や価値観を大きく変えた」というブラジルについて、その保健医療課題や対策の歴史、新たな感染症の脅威をつづります。
今年7月末から8月初めにかけて、ブラジルで二つの会合に参加した。ひとつはリオデジャネイロで開催された「第2回世界パンデミック・サミット」、もう一つはアマゾンのマナウスで開かれたアマゾンの住民の健康を守るプロジェクト「緑のブラジル(Brazil VERDE)」ワークショップだ。
日本から見ると地球の裏側にあるこの国を訪れるのは今回で5度目。うち1回は1年以上住み、その自然や文化にどっぷり浸った。私の人生観や価値観を大きく変え、グローバルヘルス、プラネタリーヘルスの視点からも重要な国だ。本稿でその歩みや魅力を伝えたい。
ブラジルの人口は現在2億1760万人(世界7位)、国土は日本の約23倍(世界5位)で南米大陸の47%を占める大国だ。一方、貧富の格差を示すジニ係数(Gini Index)の高さも世界トップクラスで、私が最初にこの国を訪れた1998年には、街にはストリートチルドレンがあふれ、村には自分の農地を持てない小作農があふれる一方で、富裕層は豪華な邸宅と広大な庭、プールや池、時には湖つきの家に数十人の給仕や庭師を抱えていた。さらに村の地主は、地平線まで続くようなバナナやサトウキビ畑を独り占めしていた。
政治的な紆余(うよ)曲折がありながらも、ブラジルは経済発展を遂げ、2000年代前半には経済新興国で構成するBRICSの一角を占め、2017年には名目GDP(国内総生産)を世界第8位とした。今年は主要20カ国・地域首脳会議(G20サミット)の議長国となり、G20を牽引(けんいん)する。G20には日米英など先進7カ国(G7)以外に、中国、ロシア、インド、インドネシア、南アフリカなど人口・国土・経済の面で大国が結集している。今後の政治・経済、そしてグローバルヘルスや気候変動を含む地球規模課題を考える上でも重要な役割を担う。
私が長期滞在して従事していたのは、JICAの東北ブラジル公衆衛生プロジェクトである。ブラジルでも最も貧しい地域の行政(ペルナンブコ州政府や町・村役場)と大学(ペルナンブコ連邦大学)を支援しながら、三つのプロジェクトサイト、ファベーラ(スラム街)と二つの貧しい農村の保健医療問題に取り組んだ。
大学の教員や学生と一緒に、これらの地域の課題分析や解決に向けたアプローチの調査研究をし、それを行政の保健医療計画に盛り込み、実施のためのサポートも行った。調査結果の一つとして重要だったのは、住民の健康は教育、所得、生活環境、毎日の食事、生活習慣などに密接に関係し、単に地域に病院を建てればいいという話ではなかったことだ。当然の話だが、実際に地域でどのように病気を管理し予防すればよいかとなると、そう簡単な話ではない。
特に、この地域にはシャーガス病やリーシュマニア症、住血吸虫症といった数々の熱帯病が流行する一方で、高血圧、糖尿病などの生活習慣病も増えていた。感染症が十分に制圧されないうちに、非感染症が激増することを「疾病転換の二極化(Bipolarization)」というが、ブラジルのこの地域はまさにこの二極化が進み、人々には二重の疾病負荷がかかっていた。
その背景には貧困がある。土や木で作った粗末な家にはサシガメやサシチョウバエ、蚊などが入り込んで病原体をヒトに注入する。上下水道が整っていないため、川で洗濯や皿洗いをする住民には、足の皮膚から住血吸虫が入り込む。値段や流通、食文化の問題で、栄養のあるヘルシーな食事でなく、安く簡単に手に入る炭水化物、塩、砂糖を中心としたジャンキーな食べ物が多い。地元ではたくさんのフルーツが採れるのに、子どもも大人も甘い清涼飲料水を飲みたがる。先進国の大手メーカーは、どうすればブラジルのアマゾン奥地やアフリカのサバンナの果てにまで、これらの甘くてシュワッとする人間の快感を刺激する飲み物を行き渡らせることができるかを知っている。アルコールやたばこも同様だ。グローバル企業は人間の嗜好(しこう)を知り尽くし、世界の果てまでそれらの商品を運び、売る手立てを知っている。
いずれにせよ、ブラジルの貧困地域には保健医療課題が山積みだ。そんな中、ブラジル政府も手立てを考えた。
1988年に制定された憲法で「国家は国民の健康を守る義務がある」ことを明記し、すべての国民に無償で医療サービスを提供するため「統一保健医療システム(Sistema Único de Saúde=SUS)」を導入。すべての国民に総合医療保険を提供し、地域住民に訪問指導、健康相談および健康教育を提供するためのコミュニティー・ヘルスワーカー制度や地域医療チーム制度を創設した。当時、これほど画期的な政策を施行した国は世界でも少ない。
ブラジルは南南協力にも積極的だ。ブラジルと同じポルトガル語を公用語とする国々(アジアの東ティモール、アフリカのモザンビークやカボベルデなど)やラテンアメリカの国々にも、ブラジルの経験や技術を伝え、保健医療協力を進めていった。
その協力の一例がHIV/エイズ治療(抗レトロウイルス薬)の普及である。今でもHIV感染症を根治させる治療法はなく、一生治療を続けなくてはならないが、1996年に開発された多剤併用療法(HAART、Highly Active Antiretroviral Therapy)によってHIV感染者の死亡率は激減し、生命予後は飛躍的に改善した。
しかし、当時、1人当たりの年間治療費は150万円以上と高額で、低中所得国の貧困者が治療を受けることは実質的に不可能。そこでブラジルは1998年、世界に先駆けて、独自のノーブランドの抗レトロウイルス薬を安価に製造し、国内のエイズ患者に無料で投与して効果をあげた。開発された薬剤を分析して、それと同じ効果のある薬を製造できる技術力・国力がブラジルにはあった。が、開発した米国の製薬企業に莫大(ばくだい)な特許権使用料を払う経済的余裕はなかった。
これによってブラジルのエイズ関連死亡が激減したのみならず、新規感染者も減少した。それをみて国連もこの政策を支持し、他の開発途上国もこれにならうように推奨したのだが、これに対し、米国政府は特許の保護を主張して強く反発し、世界貿易機関(WTO)に提訴した。
当時の世界のエイズ流行状況を説明すると、1990年代初頭に世界全体で800万人程度であったHIV陽性者の人口が、2000年には3倍以上の3千万人に急増した。その7割は貧しいサハラ以南アフリカに集中し、中には人口の3人に1人が感染する地域もあった。「薬がなければほぼ100%死亡する」といわれたHIV感染症の前に、多くの国が存亡の危機に立たされていた。
そういった背景がブラジルの政策を後押しし、2001 年11 月にドーハで開催された第4回WTO閣僚会議で「TRIPS協定と公衆衛生に関する宣言」が採択された。TRIPS協定とはWTO加盟国が守るべき知的財産権の最低限の保護水準を定めた協定だが、この宣言では、TRIPS協定は、加盟国が公衆衛生を保護するための措置を取ることを妨げるものではない、との認識を確認した。これによってエイズのような感染症流行も国家の緊急事態とみなされ、特許権所有者の承諾を得ることなく、特許取得製品の製造を許可することができるようになったのだ。
このようにエイズ・パンデミックでは世界の模範として、感染者や死亡者も抑制することに成功したブラジルだったが、新型コロナに関しては死者数70万人以上と、アメリカに次いで世界で2番目に多くの死者を生み、失敗国とみなされていた。
その大きな理由が政治的リーダーシップといわれる。当時ブラジルの大統領だったボルソナーロ氏は一貫してコロナ対策よりも経済を優先し、「新型コロナはちょっとした風邪」「みんないつかは死ぬのだ」と述べ、マスクなしで支持者と接触するような行動をとった。その結果、1日あたりの新規感染者数が、ある時期には世界トップとなり、特にアマゾン地域では医療崩壊によって死者が急増し、熱帯雨林を切り開いて墓地を造成した。
新型コロナは未知の病原体で人間に免疫がなかったために爆発的に広がったが、ブラジルを含むラテンアメリカは、そのような惨禍を1492年のコロンブスの襲来以来、何度も経験してきた。旧大陸(ヨーロッパ)から持ち込まれた天然痘、麻疹、水ぼうそう、ペスト、百日ぜきは、それらに免疫がなく、栄養状態も悪い先住民の間で瞬く間に広がり、致死率が8割を超えることも多かったといわれる。その結果、先住民の人口は1518年の推計2500万人から100年足らずで100万人にまで減少し、「銃・病原菌・鉄 一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎」の著者であるジャレド・ダイアモンドが指摘する通り、疫病に免疫のある人たちが免疫のない人たちに病気をうつしたことがその後の歴史の流れを決定的に変えていった。
先住民の人口が急減してプランテーションなどでの労働力が不足したため、16世紀からはアフリカから大量の人々が奴隷としてラテンアメリカ地域に送られた。この際持ちこまれた黄熱病やデング熱などのウイルスと、それを媒介するネッタイシマカ(Aedes aegypti)などの蚊や昆虫は、現地の人々を大いに苦しめ、現在もその闘いは続いている。
これらの病気に立ち向かい、大いなる貢献をした医師がいる。オズワルド・クルズ(Oswaldo Cruz)である。彼は1872年生まれ、リオデジャネイロの医学校で学び、フランスのパスツール研究所に留学し、ブラジルに最新の科学知識をもたらした。リオデジャネイロ市の衛生局長にもなり、黄熱病、ペスト、天然痘などの感染症と闘い、予防接種キャンペーンや衛生改善を行い、その結果、地域の衛生状態は大幅に改善し、黄熱病も一時的に撲滅した。
ブラジルの近代医学と公衆衛生の父と呼ばれるようになったクルズのレガシーは今でも生きている。彼が1900年に設立したマングイーニョス連邦血清療法研究所は、現在、オズワルド・クルズ財団(FIOCRUZ)と呼ばれる政府所管の国立機関となり、ブラジルの公衆衛生と生物医学研究の中心的役割を担っている。
私は今回、この財団を訪問した。リオにある敷地だけでも東京ドーム15個以上の広さがあり、研究所からワクチンや医薬品、診断薬などの製造所、教育機関、病院など11の機関を有する。敷地の中心の丘には、スペインのアルハンブラ宮殿の影響を受けたムーア式とヨーロッパ式が融合した「フィオクルス城」、別名「マングイーニョス宮殿」が立ち、その荘厳なたたずまいには圧倒される。財団はリオ以外にもブラジル国内10州に研究・教育・医療機関、アフリカには事務所を持ち、年間7千人以上の人材育成も行っている。
財団の免疫技術研究所(BioーManguinhos)は、黄熱病ワクチンと抗レトロウイルス薬については世界最大級の製造量を誇り、ポリオ、MMR、髄膜炎(ずいまくえん)、HiB、DPTなどのワクチン、HIV、シャーガス病、デング熱、リーシュマニア症、レプトスピラ症などの診断用試薬も製造している。私が所属するGHITファンドの研究開発パートナーでもあり、ハンセン病ワクチンやマラリアワクチン候補の開発に我々も支援してきた。また、GHITが資金提供し、製薬企業のメルクやアステラスなどが連携協力して開発し、今年5月にWHOから事前認証を受けた住血吸虫症の小児用薬剤は、本研究所で製造してもらった。住血吸虫症で苦しむ子どもは世界で5千万人にも上るため、アフリカなどでの現地製造と患児への迅速な提供に向けて尽力しているところである。
ブラジルでも住居環境、衛生・栄養状態が改善し、保健医療サービスも向上する中、感染症対策も進み、感染や死亡は減ってきている。その一方で、地球温暖化やグローバリゼーションなどによる影響で、既存の感染症の再燃、新たな感染症の発生が問題になってきている。
たとえば、過去に制圧に成功したと思っていた黄熱病は2016年から2017年にはブラジルだけでも2千人以上の感染者と700人以上の死者を生んだ。ネッタイシマカやヒトスジシマカなどが媒介するデング熱は、2024年にブラジルで大流行し、1月からの6カ月間で1千万人近い感染者が報告され、3千人近い死亡が確認されている。
1955年にトリニダード・トバゴで初めて確認されたオロプーシェ熱(Oropouche Fever)は、中南米全域で推定50万人以上を感染させ、2024年にもブラジルで流行している。聞きなれない感染症かもしれないが、これはヌカカと呼ばれる体長1~2ミリの小さいハエ目の昆虫が運ぶ感染症で、通常は発熱、頭痛、倦怠感(けんたいかん)、関節痛、筋肉痛などだが、時に髄膜炎や脳炎を引き起こす。ちなみにヌカカは別名「スケベ虫」とも呼ばれ、服の下にこっそり忍び込んで刺すのだが、日本にも生息し、キャンプや釣りなどで刺されることもあるので対岸の火事とは言ってはいられない。
また、1947年にウガンダのジカ森林(Zika forest)で発見されたジカウイルスは2015年にはブラジルを含む南アメリカ大陸で大流行したが、妊婦が感染した場合、胎児が小頭症になることがあるために恐れられた。1952-53年にアフリカ・タンザニアで流行し、ウイルスが分離・同定されたチクングニア熱も、2013年以降、ブラジルを含むカリブ海地域や中南米に広がり、北米にも上陸している。チクングニアとは変わった名前だが、これは激しい関節痛のために「かがんで歩く」様子を表すアフリカの言葉から来ているらしい。
このように様々な感染症が再燃、そして新興している要因として、地球温暖化による蚊の生息可能域の拡大、計画性のない急速な都市化や不適切な水の貯蔵や排水システムなどによる蚊の繁殖場所の増加、グローバル化による人の移動と病原体の拡散、媒介蚊の都市部への適応などがある。