「国民皆保険」定着するか セネガルの現場でみるODAの現状と課題
8年ぶりに改定された「開発協力大綱」は、日本が長く「得意」としてきた援助分野に影響をもたらす可能性があります。前編に続いてセネガルでの取り組みを取材しました。

8年ぶりに改定された「開発協力大綱」は、日本が長く「得意」としてきた援助分野に影響をもたらす可能性があります。前編に続いてセネガルでの取り組みを取材しました。
2023年6月に改定された日本政府の「開発協力大綱」は、途上国援助(ODA)の現場にどのような影響を与えるのでしょうか。前編「変わるODA、現場はいま セネガルで広める『人間的なお産』とは」に続いて、シニアエディターの藤谷健がセネガルでの「国民皆保険」制度の導入支援について取材しました。
母子保健とともに、日本のODAにおける国際保健分野の柱となるのが、国民皆保険を含むユニバーサルヘルスカバレッジ(UHC)制度の支援だ。UHCとは「すべての人が基礎的な保健医療サービスを必要な時に支払い可能な費用で受けられる状態」を指す。その実現のためには、良質な保健医療サービスの提供とともに、金銭的、物理的、社会・文化的にもだれもがアクセスができることが重要だ。日本では1960年代に国民皆保険の仕組みが出来上がり、乳幼児や妊産婦の死亡率の低下や平均寿命の上昇などにつながったとされる。
日本政府は、自らの経験を共有し、新型コロナウイルス感染症の教訓を活かして次なる危機に備えるため、2022年5月に「グローバルヘルス戦略」を打ち出し、UHCの達成を国際協力の主要な政策目標に掲げた。議長国を務めた今年5月の主要国首脳会議(G7サミット)の共同声明でも、「2030年までにUHCを達成し、SDGsの目標3への進捗(しんちょく)を加速させる」とその重要性をうたっている。
セネガルでは2012年の大統領選で初当選したマッキー・サル大統領(2019年に再選、現在2期目)が、社会福祉や医療保険制度の改革に乗り出し、翌2013年にUHCの導入を始めた。国民の75%が医療保障を受けられることを目標に掲げる戦略計画を策定し、2015年に医療保障庁が保健・社会活動省の管轄のもとで設立された。そのセネガルに対して日本は、2016年の第6回アフリカ開発会議(TICAD)で、ガーナやケニアとともにUHC推進の優先支援国と位置付け、円借款と技術協力の2本立てで支援を本格化させた。
ダカールの医療保障庁の建物内にある国際協力機構(JICA)のプロジェクト事務所に、専門家の清水利恭さんを訪ねた。清水さんによると、セネガルでは、UHCの正式な導入以前から公務員や大企業、高齢者を対象とした医療保険制度があり、人口の2割程度をカバーしていたという。一方で、露天商や運転手、建設労働者など、政府による管理や保護が及ばない非公式部門(インフォーマルセクター)は、ほとんど無保障状態にあった。失業者や地方の農業従事者を含め、保険に加入していないことから、保健や医療サービスを受けるということは費用負担面からも現実的ではなかった。セネガル政府が掲げた目標は、多くが貧困層に属している、こうした人々を医療保障制度に組み込むという野心的なものだった。
医師である清水さんは、これまで世界保健機関(WHO)アフリカ地域事務所の医務官や、セネガルやベトナムなどで保健分野の政府アドバイザーなどを務め、アジアやアフリカの途上国で保健・医療サービスの質の向上や全国展開などの協力支援に携わってきた。こうした経験から、国際社会の支援を受けて、国内で一定の質の保健や医療サービスが確保できても、保険による補填(ほてん)がなく個人の負担が重すぎるため、住民がそのサービスを受けられない事例を見てきた、という。
セネガルの例で言えば、前編で取り上げた母子保健やその他の医療の質が向上し、サービス提供の裾野が広がっても、個人の費用負担が重くのしかかるため、肝心の貧困層がこうしたサービスから取り残される状況が続くことになる。そこで日本が目指すのは「質の高いサービスの提供・拡充と、医療費負担を社会が共有する医療保障制度の強化」(JICA人間開発部の伊藤賢一次長)。つまりUHC達成に向けた「両輪の支援」(同)だ。
「医療費負担の社会共有」としていま力を入れて取り組まれているのは、コミューンと呼ばれる、人口数千人から2万人程度の自治体ごとに、保健共済組合を設立し、インフォーマルセクターの人々の組合加入を推進するプロジェクトだ。医療保障庁が2020年に公表した年報によると、何らかの医療保障を受けている国民は、全人口の53%に達したという。今後、さらにこの加入率を増やすためには、人口の8割を占めるとされるインフォーマルセクターの従事者の取り込みが必須となる。地域の保健共済組合はいま、全国で670を超え、2015年に50万人強だった加入者数が5年間で383万人に増えた。しかし「その機能や運営能力は十分ではなく、医療機関や民間薬局の理解促進や住民への広報強化などが課題となっている」(JICA)という。そのため医療保障庁を中心として組織や人材の能力強化のため日本などでの研修を実施したほか、ティエス州を含む3州からパイロット県を選び、保健共済組合に対する人材育成や物資供給などでの支援を続けている。
保健共済組合に加入することで、住民は地域の診療所などで医療サービスを受けた場合、診療費の本人負担は2割、薬は種類によって2割から5割の自己負担で済むという。1人当たりの保険料は年間で7千CFAフラン(約1680円)で、収入が低い場合や障害者などに対しては、政府がさらに補助する仕組みになっている。課題は、制度や仕組みが十分に浸透していないことに加え、掛け金の支払いによる家計への圧迫感から、足踏み状態にある加入率をいかに増やすかにある。また貧困層については政府の補助が十分ではない、という指摘もある。
全国に3カ所指定されたJICAプロジェクトのパイロット県のひとつ、ティエス州の南西にあるンブール県の保健共済組合県連合の事務所を訪ねた。ダカールから国道1号を1時間半ほど南下し、ンブールの町の中心部を通る幹線から、赤茶けた土が路面を覆う脇道に入る。数百メートルほど行くと、右側にややくすんだ白色の2階建ての建物があった。
1階の事務所で、県連合の責任者、スレー・ンジャイさんと職員のアイサトゥ・ンドンさんが出迎えてくれた。壁に貼られた模造紙には月ごとの加入者数が手書きで記されている。机には書類をとじたバインダーが並び、サル大統領の写真も見える。
「政府がUHCの導入を始めて以来、国全体で加入率を20%から60%近くまで引き上げることができた。今後はこれをいかに100%に近づけることができるかが問われている。鍵を握るのが、人口の8割を占めるインフォーマルセクターの人たち。その加入を増やすことが、コミューンの組合に課せられた最大の使命だ」と、ンジャイさんは強調する。そのためにいま力を入れている取り組みがある、という。
一つ目は、コミュニケーションの強化。ンジャイさんは「とにかく情報を広げていくこと。加入し、保険料を納めることで、きちんとした医療サービスを適正な費用負担で受けられることを知ってもらわなければなりません」と話す。次に重要なのは継続だという。加入してもらうだけでなく途中で脱退しないようにすることが加入率を上げるためには絶対に必要だ。そのためには、保健や医療サービスへのアクセスをしやすくすることが大切だ、とンジャイさん。
今後の取り組みとしては、現在、コミューン内での適用に限られている医療保障を県や州をまたがって使える「携行性」のあるものにアップグレードする計画もあるという。
「日本からの支援にとても感謝している」と話すのは、ンドンさん。これまでマーケティングやリーダーシップ、コミュニケーション、管理手法などを学ぶJICAの研修に参加した、という。JICAではこのほか、チラシやTシャツ、啓発用ビデオなど広報資材の支援などを実施している。
一方で、課題も少なくない。保健共済組合は地域ごとに運営されるため、その財政は加入者数に大きく依存する。また職員は一部を除き、ボランティアであるため、多くの組合で運営能力の限界が指摘される。こうしたことから、2人は「地域の保健共済組合の強化のため、中央政府や地方自体にはもっと積極的に関与してほしい」と話す。
前編で取り上げた母子保健と合わせ、日本が、自らの経験を踏まえた、得意とする分野におけるODA支援の具体的な取り組みをセネガルの現場で見てきた。いずれのプロジェクトも、国連の持続可能な開発目標(SDGs)や日本の開発協力大綱でうたう「人間の安全保障」の観点から高い評価を受けており、今後はいかに全国に広め、制度として定着させることができるかが課題に上がる。また他の援助国・組織の活動との重複を避け、協調できるかどうかも鍵となりそうだ。
日本のODA予算は2015年以降、微増傾向が続くものの、トップドナーだった1990年代と比べると、約半分に減少。さらにウクライナ支援の強化は他の途上国への援助の縮小などの形で影を落とし、日本の強みを生かした母子保健など地道な援助にも影響しかねない状況になっている。
こうした中、今年6月に8年ぶりに改定された新しい開発協力大綱には、途上国からの要請を待たずに積極的に提案する「オファー型」がODAの戦略的な活用方針として盛り込まれた。背景には、途上国で存在感を強める中国への対抗や、日本が進めてきたインフラシステム輸出戦略の強化などがあるとされる。
市民社会からは「日本の外交政策、安全保障政策および経済振興策とODAとは明確に切り離すべきです」(「『開発協力大綱』改定に対するNGO要請書」)といった批判が上がった。
またオファー型といっても、「一方的なアイデアの提示ではなく、パートナーである開発途上国の関係者との真摯(しんし)な対話を通じて、二国間の長期的な信頼関係・財産につながる取り組みを進めたい」(JICA企画部長の原昌平氏)(「開発協力大綱改定に思うこと〜不易流行〜」 )と肯定的に捉える意見も出ている。
立場によって援助に対する考え方は違うが、セネガルの現場を歩いて見えてきたことは、現状では日本側の財源を含めたリソースが十分ではないということだ。日本の強みを生かした支援を広げるには、セネガル側のこれまで以上の主体的な取り組みが必要に思える。
こうした状況を乗り越える一つのアイデアとして、日本の外務省関係者は、援助の実情を踏まえた上で、「途上国が日本との二国間ODAだけに頼らず、自国の予算や国際援助機関(マルチドナー)の資金を活用し、日本が進める支援を拡大していく方向に働きかけることが重要ではないか」と指摘する。
(後編では、セネガルで新しい支援の形を模索するNGOの取り組みを紹介します)