インドの離島医療を見て考えた 社会的企業と研究者の連携とは
インド・コルカタから片道5時間の離島地域。医者のいない地域に、デジタル技術による医療サービスを広げる社会的企業の活動を通して、企業と研究者の連携を考えます。

インド・コルカタから片道5時間の離島地域。医者のいない地域に、デジタル技術による医療サービスを広げる社会的企業の活動を通して、企業と研究者の連携を考えます。
医者の数が人口比では日本に比べて圧倒的に少ないインド。しかも都市部から遠く離れ、交通手段も限られている離島地域で、デジタル技術を駆使した一次医療サービスを提供するスタートアップ企業があります。社会課題を技術で解決しようと取り組む彼らの姿を通して、デジタル技術と国際開発を研究する金沢工業大学の狩野剛准教授は何を考えたのでしょうか。
インドの医者のいない離島エリアにおける一次医療サービス。この難題にデジタル技術(ICT)を用いて取り組んでいる現地の社会的企業がある。iKure Techsoft社(アイキュア・テックソフト、以下アイキュア)だ。2023年3月、その活動現場を視察する機会があり、離島エリアのe-Health(デジタル技術の医療への活用)ビジネスの実態を学ぶことができたと同時に、研究者である自分がどのようにビジネスに関わっていけるのかという点について気づきがあった。
インドとバングラデシュの国境をまたぐマングローブ原生林地帯、「スンダルバンス国立公園」。バングラデシュ側の呼び名は「シュンドルボン」だ。絶滅危惧種とされるベンガルトラの生息地としても知られる秘境エリアであるが、実は周辺には人々が生活している地域もある。
ここでは、地域に住む医者がいないという社会課題を抱えている。アイキュアは、その課題に立ち向かうべく、インドの西ベンガル州コルカタに本社を構え、患者データを電子的に管理し、定期的に離島を訪問した一次医療サービスなどを行っている。創業者のスジェイ・サントラ氏は西ベンガル州の出身で、大学でコンピューター科学を学んでオラクルなどの米国系IT企業で働いた後、地元の医療問題に貢献したいとアイキュアを創業している。
そんなアイキュアと、日本の技術を活用して医療サービスの質を上げることを目指す共同研究の話が持ち上がり、医工学系研究者の岡崎善朗氏(早稲田大学准教授)、インパクト投資家の功能聡子氏(NPO法人 ARUN Seed代表)、そしてデジタル技術と国際開発を専門とする筆者の3人を中心とするチームで現場を訪れた。
この地域は巨大な湿地帯になっており、陸地の多くが川で分断された離島のようになっている。そこに橋はほとんどない。そのため、車やバスでのアクセスはできず、離島間の主要な移動方法は渡し船だ。それぞれの離島の中では、自転車、バイク、三輪自動車のオートリキシャなどで移動している。
実際、現場へのアクセスは非常に時間がかかった。コルカタから3時間ほど車で移動し、そこから渡し船で15分、オートリキシャで20分、そして渡し船、オートリキシャ、渡し船、オートリキシャと乗り継ぎ、片道5時間近くをかけ何とかたどり着く道のりであった。
離島エリアでは拠点となる島とその先の島々があり、拠点となる島には保健省の出張所があり、その周辺の島々を管轄していた。それぞれの島ではアイキュアのような企業、NGO、公的機関などが健康診断などの一次医療サービスを行っている。写真は保健省の出張所や離島で健康診断やデータの管理をしているシーンだ。複数の機器を使いデータを集め、スマートフォンでコミュニティーヘルスワーカー(疾病予防や健康管理などの一次医療を提供するために選任されるコミュニティーのメンバー。主に女性)が入力し、デジタル管理をしている。
フィールドを訪れる際にコミュニティーヘルスワーカーが背負う、多くの機器を入れたカバンを背負わせてもらったが、非常に重かった。特に体重計がずっしりと重く、新しい機器を使うことで軽量化する余地は大いにあると感じた。
一方、ハイテク機器を取り入れれば解決するわけではない、という現状もあった。市場にはやや高価であるが複数の検査をまとめてできるような機器も発売されているのだが、これらはBluetooth接続や携帯の電波があり、電気が通っていることが前提となっている。これらのハイテク機器は電気・通信状況が安定しない離島エリアではうまく作動しない可能性も出てくる。
そして、ハイテクになればなるほど、うまく動かない時のリスクも大きいこともわかった。例えば最新のスマート機器は物理ボタンが少なく、調子が悪くなるとコミュニティーヘルスワーカーでは対応ができない。一方、アナログな体重計などは電気やインターネットがなくてもデータを安定して取ることが可能になる。アイキュアのe-Healthサービスが、ここまで考えて周到に準備されていることに感銘を受けると同時に、先端技術を導入しすぎることのリスク、ローテクデバイスの便利さも同時に感じた。
インド全体の医療事情、特にe-Health関連にも少し触れておきたい。まず、そもそもの話として1人当たりGDP(国内総生産)が2400ドル程度(2022年、世界銀行)と日本の10分の1以下のインドにおいて、日本より進んだe-Healthなどあるのだろうかと思う人がいるかもしれない。しかし、実は規制の多い日本と違い、逆にインドの方が進んでいることも多いのが実情である。
例えば、MediBuddyやApollo247といった医療サービスでは、365日24時間、予約から最短10分以内でオンラインで医者の診察を受けることができ、なんとその後2時間以内に家に処方された薬が届く。驚くようなe-Healthサービスが展開されているのだ。日本では平日の日中に電話で予約して医療機関に行き、問診票の紙に書き、紙の処方箋(せん)をもらって最寄りの薬局に行く、といった生活が当たり前であることを考えると、はるかに進んだデジタル医療サービスがそこにある。
ただし、だからインドの医療サービスは日本より素晴らしい、と手放しでほめたたえたいわけではない。インドの厳しい医療事情がそのようなサービスを必要とし、提供する企業が生まれているという社会背景も大いにある。例えば、1万人あたりの医者の数は、日本の約26人と比べてインドでは7.3人と非常に少ない。そのため、多くの医者は都市部に住み、特に地方では看護師やパラメディクスと呼ばれる救急隊員が医者の代わりとなって活動をしているケースも多い。
また、インドでは薬局が至る所にあり、そこで格安のジェネリック薬品を販売することで、医者にかかるお金がない低所得者層を支えている。つまり、インドは、医者に診てもらう機会自体が、医者の数や経済的な制約で明らかに日本より厳しい状況にあるがゆえに、デジタル医療サービスが発達した。逆にいうと、日本では医療機関の数や皆保険制度などで良好な医療サービスを受けられることから、急速なデジタル化に至っていないとも言える。
また、今回の現場訪問では参加した方々と、スタートアップにおける研究者の役割や関係性について道中で様々な議論を行った。中でも、アイキュアがいい意味で研究者をうまく活用していると感じたことは興味深かった。アイキュアは日本の研究者のみならず、地元のインド工科大学カラグプルをはじめ、アメリカのマサチューセッツ工科大学など複数の大学と共同研究を行い、ビジネスの拡大に生かしている。
アイキュアのCEO(最高経営責任者)であるスジェイ氏に対して「なぜアイキュアは研究者と積極的に組むのか。ビジネスと研究のスピード感はだいぶ異なるため、メリットは多くないのではないか」と、率直に聞いてみた。それに対してスジェイ氏は以下のように答えてくれた。
「私たちの会社はまだ小さく、独自に研究開発をするのは容易ではなく、日々のオペレーションを回すことで精いっぱいな状況である。そんな時に研究者たちは、私たちの持つローカルネットワークを活用して様々な社会課題解決のアイデアを試したいと相談してくる。そのような際には、私たちは面白いと思ったアイデアや技術には積極的に協力することにしている。なぜなら、研究者たちは自分たちで研究資金を確保し、現場で試し、評価までしてくれるからだ。そのサポートを通して、地域の医療に役立つサービスになると確信したものはアイキュアのビジネスに積極的に取り入れることができる。これは研究者と組む大きなメリットだと考えている」
この話を聞いて妙に納得する自分がいた。確かに私自身が研究者として開発途上国の現場に関わる際のモチベーションについて聞かれれば、こう答えるだろう。「フィールドを得て新しいアイデアを試し、評価をすることを通じて社会課題解決に貢献すること、それ自体が報酬であり、それで論文を書けるならば喜んで知恵とノウハウを提供する」。報酬は大学や研究資金など他のところから得るので、開発途上国の現場から得るつもりはない。つまり、スタートアップ側から見ると、技術提供とPoC(Proof of Concept、概念実証)を実施するコンサルタントと無償で組めるような感覚にも近いのかもしれない。
このように、非常にしたたかに、かつ互いに利益を得る「Win-Win」な関係性を築いて研究者を活用するアイキュアであるが、共同研究がどのように進むかはまだわからないし、研究内容の詳細を説明するには時期尚早である。しかし、離島エリアでのe-Healthサービスを実践するアイキュアの活動現場と、そこで見たスタートアップと研究者の関係からは、私たちにも学べるものが大いにあるのではないかと感じた。またいつか続報を書けることを願いつつ、プロジェクトを進めていきたい。