2050年までに温室効果ガス排出量を実質ゼロにする「ネットゼロ」を目指し、世界各国で取り組みが加速している。注目すべきは、英国とフランスだ。両国は国の気候変動対策に保健・医療システムを統合し、多様なセクターを交えて対策を講じている。日本医療政策機構(HGPI)が1月19日に開いたオンライン講演会に両国の専門家がオンラインで登壇し、日本の指針となりうる事例を紹介した。

サプライチェーン全体の取り組みで「低炭素のケア」提供 英国

英国の事例として取り上げられたのは、国営の医療制度「国民保健サービス(NHS)」。1948年に開始され、現在は230以上の医療組織(一つで複数の病院を含む)と約7千の一般診療所において無料で医療を提供する。主な財源は税金だ。2020年には医療制度として世界で初めて、温室効果ガスの排出量を差し引きゼロにする(ネットゼロ)目標を掲げた。

日本医療政策機構(HGPI)が主催する「健康な地球へ向けて:国家保健医療システムにおける気候変動の緩和・適応と公衆衛生の統合戦略」の告知スライド

ネットゼロ達成に向けた具体的な目標は二つある。2040年までの目標(スコープ1)は、NHSの活動から直接排出される温室効果ガスの実質ゼロ。中間目標として2028年〜2032年で1990年比80%の削減を設定した。第2段階(スコープ2)では2045年までに、医薬品や医療機器メーカーなど約8万の企業が関わるサプライチェーン全体でのネットゼロを目指す。この巨大な供給網から排出されるガスの総量は、NHS全体の6割以上を占める。

講演会にオンラインで登壇した英国NHSでネットゼロの対策を担当するサラ・ウェノン氏は「NHSの温室効果ガス排出量は英国全体の4〜5%に及ぶ。私たちの活動が気候変動の一因となっていることは無視できない事実だ」と、NHSがネットゼロに取り組む意義を説明した。

「ネットゼロ」に向けたNHSの取り組みの一つに、自家発電機の設置がある。東ヨークシャー州キャッスルヒル病院の隣にあるのは、太陽光パネルが20列ほど並ぶ、通称「夢の野原」。同病院で必要なすべての電力をこの場所でまかなうという。ウェノン氏は「ここ2年間のエネルギー価格の上昇で、思っていたよりも早く投資を回収できそうだ」と明かす。

イギリスの事例を報告するサラ・ウェノンさん

医薬品に関わる分野でも取り組みを進める。NHS全体で排出される温室効果ガス排出量の「出所」を表示したカーボンフットプリントを見ると、医薬品に関わる分野の排出量は、製造過程も含めて4分の1を占める。そのうち5%は、麻酔薬やぜんそくの吸入器に関わるものだ。

麻酔薬に関しては「ここ数年で二酸化炭素(CO2)の排出量が急激に減少した」(ウェノン氏)。温室効果ガスのひとつとされるデスフルランを使った吸入麻酔薬の代わりに、鎮静剤を静脈内に投与する方法をとる医師が増えたからだ。2023年のCO2排出量は5年前と比べて6分の1ほどで、ほとんど0に近くなった。

ぜんそくの治療や慢性閉塞(へいそく)性肺疾患(COPD)に使う吸入器も同様だ。ガスを使って肺に薬を送るものを、粉末の薬剤を自分で吸い込む機器に変えた。患者に強要するのではなく、同意を得たうえでの変更だという。

ネットゼロに向けた取り組みを加速するには、医薬品そのものに関わる改善だけでなく、約8万社のサプライヤーとの協力も欠かせない。NHSは「NHSネットゼロ・サプライヤーロードマップ」を開発し、取引先に2028年までに求める要件を4段階で定めた。2022年の要件は、最低でも10%のネットゼロを達成している製品を調達すること。2023年以降は一定額以上の取引を行う企業に対し、ネットゼロの目標に向けた計画の策定を順次求めているという。

「NHSが提供するのは『低炭素のケア』。良質な治療を提供するためにシステムの効率化を図り、病気の治療よりも予防に重点をおく」とウェノン氏。「私たちのケアが成り立つのは、(自分たちの活動によってCO2が生じるという)現状を理解し、ネットゼロを目指す病院の方針を支持する職員の存在があってこそ」だと強調した。

政府が主導する脱炭素計画 フランス

フランスの事例を説明したのは、同じくオンラインで登壇したフランス保健省プロジェクトマネジャー、へレーヌ・ジルカン氏。「フランス国内の温室効果ガス排出量で医療機関が占める割合は8%。このうち55%は医薬品と医療機器に関わる。同機関では年間約70万トンの廃棄物がでて、患者1人当たりの水の消費量も多い」と現状を訴えた。

フランスの事例を報告するヘレーヌ・ジルカンさん

ジルカン氏は、こうした課題を解決するための民間の取り組みも進んでいると前置きしつつ、行政の体制を説明した。「ボルヌ前首相は2022年10月、国をあげて脱炭素を進めるための計画を発表した。この改革を進めるため、保健省は医療や社会福祉に関する分野を統括する特別委員会を設置。2023年5月に各省の大臣や医療機関の代表、専門家を集めた最初の会議が開かれた」

フランス政府は、こうした会議の内容をまとめ、ネットゼロに向けた方針を示している。政府が掲げる大目標は、温室効果ガスの排出を年間5%ずつ削減し、2050年までにネットゼロを実現すること。目標達成のため、八つの優先分野に焦点を当てた約60の具体的な対策を明記した。

具体例の一つは、いくつかの病院で2023年9月に設置した「エナジー・エコトランジション・アドバイザー」。政府が開発した評価ツールを使って自院のカーボンフットプリントを算出し、地域の脱炭素戦略を指導する役割を担う。2023年7月以降は公共の医療機関の管理者に向けて、環境に対する意識を高めるための研修も無料で提供している。

2024年から2026年にかけては、使い捨て医療機器の再処理プロジェクトが実施される予定だ。気候変動への関心の高まりが、この実験的な取り組みを後押ししたという。「こうしたプロジェクトは専門家の支援なしには実現できない」(ジルカン氏)

また、英国、フランスともに、ネットゼロの達成に向けて国際的な連携を強めるという。第26回気候変動枠組条約締約国会議(COP26)で掲げられた目標に対して具体的な行動を求めた「気候変動と健康に関する変革的行動のための同盟(ATACH)」には、両国をはじめ70カ国以上が参加し、持続可能な保健システムの構築に取り組んでいる。