「子どもを戦争に巻き込むな」 国際NGO人道支援ディレクターの訴え
紛争や自然災害から逃れて暮らす人の支援に携わるプラン・インターナショナルのウニ・クリシュナン氏。来日を機に、現地の状況と求められることを聞きました。

紛争や自然災害から逃れて暮らす人の支援に携わるプラン・インターナショナルのウニ・クリシュナン氏。来日を機に、現地の状況と求められることを聞きました。
終わりの見えないパレスチナ自治区ガザでの戦闘やスーダン内戦などの紛争に加えて、巨大サイクロンや気候変動の影響で、住んでいたところから逃れて暮らす人たちがいます。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、紛争や迫害などによって避難生活を強いられている人は2024年4月末までに世界で過去最多の約1億2千万人に達しました。来日した、国際NGOプラン・インターナショナルで人道支援ディレクターを務める医師のウニ・クリシュナン氏に現地の状況と、求められることを聞きました。
━━パレスチナ自治区ガザでのイスラエルとイスラム組織ハマスとの戦闘や、ロシアによるウクライナ侵攻、北アフリカ・スーダンでの内戦など、世界各地で紛争が起こっています。支援に関わる現地の様子を教えて下さい。
現時点で世界最多の避難民が発生しているのに、十分に注目されていないスーダンの話からはじめましょう。私はスーダンの隣国チャドを5月に訪れました。スーダンでは900万人の難民が発生し、そのうち500万人が子どもだといわれています。加えて、1400万人の子どもが人道支援を必要としています。調べてみたのですが、日本の15歳未満の子どもの数と同規模です。
そして、ガザを含む、これらの地域で起こっているのは、次のようなことです。
危機が起こると、全ての人が困難にさらされます。しかし、直面する困難の度合いは人によって差があります。特に、女の子がより深刻な影響を受けている状況が頻繁に見られるようになっています。
例えば、飢餓です。現在でも世界で7億人以上の人が飢餓に苦しんでいます。インド、中国の人口に次ぐ規模です。ここでも女の子への影響が深刻です。それは、「女の子はいつも一番最後に食べる」ということに起因しています。そして残り物とは、概して量も少ないのです。
また、女の子たちは水くみの仕事を担わされていることが多いです。5月にはチャドのスーダン国境に近い町を訪れました。女の子たちは、気温が43度にも達する中、水を求めて歩いていました。
━━パレスチナでの状況も深刻です。
昨年10月に戦闘が始まってから、私自身はガザには行っていませんが、プラン・インターナショナルとしては、現地NGOなどと連携して様々な活動をしています。
ガザで特に深刻な飢餓問題について説明します。
飢餓は3段階を経て深刻化します。まず食事を抜くことが起こります。ガザのような状況で食事を抜くことは、非常に危険なことです。次に長期間にわたって何も食べないため、体内の脂肪に頼り始めます。最終段階では、体がエネルギーを得るために骨と筋肉を攻撃するようになります。こうなると、肝臓や腎臓、心臓といった臓器の動きが弱まります。飢餓で死ぬことは、子どもにとっても、周りの人にとっても最もつらい死に方です。
国際人道法などで規定されているとおり、「飢餓を紛争の手段とする」というのは、最も残忍な行いです。
どの紛争でも飢餓は生じ得ますが、ガザの深刻さは桁違いです。
━━飢餓の問題は、ハマス幹部やイスラエル首相に対する、国際刑事裁判所(ICC)による逮捕状請求の際にも注目されていました。
我々は政治の専門家ではないですし、ICCの声明についてコメントはできません。
ただ事実として、プラン・インターナショナルのものも含む、食料を積んだ数百台ものトラックが、エジプトとの国境付近にあります。もし国境が開かれれば、20分ほどで飢餓に苦しむ子どもたちのもとに届けられる距離です。私が普段暮らしているロンドンでは、フードデリバリーサービスを頼むと、注文から手元に届くまで20分ほどかかります。それと同じような状況なのに、飢餓で子どもが死んでいるのです。アクセスさえできれば救える命なのです。
━━事態を改善させるために求められることは?
まずはなによりも、停戦です。それも、数日間の停戦では意味がありません。停戦しないことには、深刻な飢餓の問題も改善しません。
そして、拘束されている市民、特に子どもたちの解放が求められます。子どもを戦争の一部にしてはなりません。
ガザにせよ、スーダンにせよ、政治やその他の論点があるとは思いますが、もし全ての人が少しでも子どもの視点で世界を見たら、世界はより良くなると強く信じています。
━━東日本大震災の時には東北の被災地を訪れたそうですね。
はい。津波発生から数日が経ったばかりのときに、宮城県多賀城市などに行き、印象に残ったことがいくつもありました。
訪れた学校では、余震が起きた際に、全ての人が速やかに上の階に移動しました。災害への早期警戒と準備の重要性を感じました。
また、建物の耐震化の重要性なども日本での経験を通じて改めて学びました。プラン・インターナショナルでも学校の校舎を強化し、災害リスクを減らす活動に関わっています。地震だけでなく、気候変動による気象災害や洪水、サイクロンなどの被害を減らすためにも活動の重要性は高まっています。
また被災地で出会った10代の若者も印象的でした。彼らは掲示板を使い情報をまとめていました。想像力を使って、人々のニーズに応じた活動をしていました。ニーズが支援のあり方を決める、というのは人道支援活動の大原則です。
━━今回の訪日では、能登半島地震の被災地への視察にも行かれたと聞きました。ちょうど行かれているタイミングで最大震度5強の地震もあったようですが、大丈夫でしたか?
揺れがあったときは金沢市内のホテルで朝食を取ろうとしていたときでした。スマートフォンの緊急地震速報のアラームが一斉に鳴り、揺れに備えるように呼びかけました。これはすばらしい仕組みであり、重要なことです。他の国ではありえないことです。思わずアラートを知らせる画面のスクリーンショットを撮ったほどです。
日々テクノロジーを使った進歩があり非常に感銘を受けました。
━━南インドご出身ですが、どのような経緯で現在の活動に従事するようになったのでしょうか?
私の出身地である南インドのケララ州は、インド国内の他の地域に比べると災害の少ないところです。そんな私がこれまで70カ国以上も訪れ、紛争や災害の問題に取り組むことになったのは、とても不思議なことです。
私は1991年に医学部を卒業したのですが、学生時代から人道支援活動に携わってきました。1984年にインド中部ボパールで発生した大規模な化学物質流出事故で、ボランティアとして支援活動に加わったのが始まりでした。
とても大きな事故で、数千人から1万人以上もの犠牲者が出たとも言われ、多くの人が化学物質の影響で視力を失っていました。けが人は学生の私に「どうしたら良いのか」と尋ねてきましたが、十分な情報もなく、何も答えられませんでした。
ただ、亡くなっていく人の手を握りながら強く感じたのは、尊厳を持って人生最期の瞬間を迎えることの大切さです。この思いはその後の活動でも一貫して大切にしています。
━━人道支援のプロフェッショナルとして、日本社会や日本の政策決定者にどのようなことを期待しますか?
慈善活動には、他者を助けること、時間を使うこと、寄付をすることという三つの柱があります。日本は世界でも有数の経済大国です。もっとできることがあるのでは、と思います。特に現地で活動するNGOや団体への直接的な支援を強化して欲しいと思います。
また、難民の受け入れ数も徐々に増えているとは言え、まだ少ないです。
一方で日本のすばらしいところは、戦後一貫して世界平和への継続的な貢献をしている点だと思います。
日本社会や日本の政策決定者に限らず、全ての人に言えることですが、寝る前に、「どうしたら、明日は今日の自分より他者に優しくなれるだろう」と自身に問いかけることが大切だと思っています。