アフリカのスーダンで、軍と準軍事組織による武力衝突が始まってから1年余りとなった。現地では今も武力衝突が続き、国連人道問題調整事務所(OCHA)によると、昨年4月からこれまでに1万5千人以上が死亡し、880万人以上が国内外に避難を余儀なくされているという。深刻な人道危機が続くスーダンでは、日本を含むさまざまな国の組織が支援活動に取り組んでいる。国境なき医師団(MSF)の看護師として今年1月~4月、スーダンで活動した佐藤太一郎さんが、紛争地での医療支援の現実をつづる。 

スーダンで2023年4月、スーダン国軍(SAF)と準軍事組織「即応支援部隊(RSF)」の大規模な武力衝突が始まった時、僕はスーダンの隣国チャドにいた。国境なき医師団(MSF)の看護師として赴任していたからだ。

スーダンの首都ハルツームの宿舎屋上から見えた武力衝突による黒煙=2023年4月21日、ハルツーム、MSF提供 © Atsuhiko Ochiai/MSF

チャドの宿舎でスーダン情勢を伝えるテレビを見た。「これはひどい」。仲間の一人はつぶやいた。その時はまだ、この問題を別の場所で起きていることのように感じていた。

戦火は瞬く間にスーダン全土に広がった。2023年6月になると、戦闘に巻き込まれて国境を越えて逃げる人たちが後を絶たない状態となった。ある日の午後11時、僕らMSFに緊急支援の要請が入った。銃で撃たれた人たちが300人以上、スーダンから国境を越えチャドに到着したという。

深夜に緊急ミーティングが開かれた。チームリーダーは僕に尋ねた。「すぐに現地に飛べるか?」

「行く」と即答した。その瞬間、身体がドクッと脈打った。僕はこの時初めて、自分がスーダン紛争を現実のものとして感じた。僕らはヘリコプターでスーダン国境に近いチャド東部アドレに飛んだ。

スーダン国境に急行

スーダンの面積は日本の約5倍の約188万平方キロ。サハラ砂漠以北のエジプトなどいわゆるアラブ圏と、サハラ以南の非アラブ圏のつなぎ目にあり、アラブ人、ヌビア人、ヌバ人、フール人など多くの民族が暮らす。

以前から政情は不安定だ。約1200万人が暮らす西部ダルフール地方では、2003年から武力対立と混乱が深刻化。大勢の市民が死亡し、多くの避難民を生む事態となった。2011年には南部が「南スーダン」として分離独立したものの、南スーダンも内部の民族対立など様々な問題を抱えている。MSFは1979年からスーダンに常駐して援助活動を続けてきた。

アドレにヘリで向かった僕らは、国境を越えてたどり着く人に24時間体制で医療を提供できるよう、難民キャンプにテントの病院を設営した。1日100人を超える患者さんを受け入れた。9割以上が銃で撃たれた人だった。

僕がスーダン国内に入ったのは、2024年1月のことだ。チャドと国境を接するスーダン西部で戦闘が落ち着いたこともあり、破壊された現地の医療を再稼働するため、西ダルフール州の州都ジェネイナに向かった。

陸路でチャド国境を越えジェネイナに入ると、全く活気はなかった。周囲はRSFの占領地域だ。頻繁にRSFの車が走り、それを避けるようにひっそりと暮らす人たちの姿を時折見かけた。

西ダルフール州の州都ジェネイナ。街は静まり返っていたが、燃え尽きた車両が戦闘の激しさを物語っていた=2024年2月、スーダン・西ダルフール州ジェネイナ © Taichiro Sato/MSF

病院再稼働で子どもたちの犠牲を防げ

一般的に戦闘中は、戦闘に巻き込まれた人たちの外傷による医療ニーズが大きい。戦闘が落ち着き、外傷患者の次に医療ニーズが大きくなるのは、子どもたちだ。そこで、一刻も早く小児病院を再稼働することが、僕たちの任務となった。

プロジェクトが始まった1月は気温が比較的低く、季節性の感染症もまだ少ない時期だった。やがて暑くなって雨期となり、マラリアなどの感染症が増える。想定される食料不足による低栄養や感染症の増加に対応できるよう、一刻も早く病院を復旧させる必要があった。建物の修理、機材や医薬品の配備、戦闘後の地域での医療人材の確保、そしてニーズに合わせた病院の適切な設営。これらを一気に進める必要があった。

ジェネイナで再稼働させた小児病院=2024年2月、スーダン・西ダルフール州ジェネイナ © Taichiro Sato/MS

僕の両手からこぼれ落ちた、小さな命

僕がジェネイナに到着してすぐのこと。赤ちゃんがぐったりとしているのに気付いた。前日に生まれたばかりの子だ。気づいた時、すでに呼吸をしていなかった。即座に新生児の心臓マッサージを始めた。薬は、機材はどこだと、僕はこの子を救うために必要なものを必死に探した。

しかし、ほとんど何もなかった。院内の建物の多くは破壊され、医薬品や医療機器のほとんどが盗まれていたからだ。新たな医薬品や機材の搬入も、まだ始まっていなかった。

薬も機材も足りない。そんな中で僕ら医療者は、本当に無力だ。シリコーン製の袋を手で押して肺に空気を送り込む「アンビューバッグ」を押し続けながら「呼吸しろ!」と強く念じ、赤ちゃんに声を掛ける。振り返り「何かほかに出来ることはないか」と現地スタッフに声をかける。だが、彼らは力なく首を横に振るだけだった。

全身が土色のようになってしまった赤ちゃんが、一度、すうっと大きく呼吸した。その瞬間、僕の体の中にもぶわっと酸素が入ってくる感覚になった。

しかし、それが最後だった。小さな鼓動が止まるという事実はあまりにあっけなく、残酷で、僕らの心に拭っても拭い切れない、べっとりとした感情を残した。

タオルに包まれた小さな塊をトントンとさする。「苦しかったね。つらい思いをさせてごめんね」。僕は、なんだか謝りたくなった。

子どもたちの死は、こたえる。この日、厳しいケースが続いた。父親が少女を抱きかかえて病院に走り込んできた。しかし、少女は既に息を引き取っていた。帰国してこの記事を書いている今も、少女の死も赤ちゃんの死も、僕の脳裏に焼き付いている。

「できることには限界がある。それでも前に進め」

この地で何とか最低限の医療が出来るように、僕らはミーティングや交渉を重ね、自らの体を動かし、人を動かした。物流が困難な状況で必要な医療器材を搬入し、機能が失われていた薬局を立て直した。建物を修復して電気が使えるように発電機を据え付けた。

この地で唯一の病院が、何とか機能し始めた。低栄養、つまり飢餓状態の子どもたちを受け入れる「低栄養センター」も開設し、入院を受け入れ始めた。改善した母子が退院する姿を見ると、緊迫した日々の中で少しの安堵を覚えた。

病院が機能することで、紛争で経済が麻痺(まひ)した地域に少しばかり雇用を生み出し、ほんの一部でも社会が動き出したようにも感じた。

それでも問題は起き続けた。ある日、現地スタッフから相談を受けた。退院しても帰宅できない母親がいて、自分が産んだのではない子どもも抱えているという。状況が理解できず、僕は彼女と直接、話した。彼女はうつむきながら言った。

「帰る場所がないんです。家もお金も仕事もありません。同じ時期に入院していた友達が、子どもを置いてどこかに行ってしまいました。病院を出たら、私とこの子たちはどうすればいいんでしょうか」

地域の状況は厳しいままだ。実際に低栄養が改善して退院しても食物を買うことができず、再び低栄養に陥り戻ってくる子もいた。さらにこの頃、夜の病院はたくさんの人びとが集まる場所となっていた。夜のジェネイナは暴力が横行する。一方で病院には食べ物と電気があり、襲われる心配もない。だから身を寄せようとするのだ。

MSFのスタッフ同士で話し合った。必要なのは、安全な社会の再構築だ。しかし、これは僕たちの任務である「医療の再稼働」という活動の枠を超え、国際社会が協力して取り組む必要がある大きな課題だ。そこで、僕らに何ができるのか。

この母子に病院内での滞在を認め、地元に帰るための交通費と少しばかりの生活費などのサポートもすることになった。さらに子どもの面倒を見ることができる施設に、この母子の支援を依頼した。それが当時できる全てだった。僕らは、自分たちの限界とも向き合わなければならなかった。

ジェネイナに到着した直後の病院の一部の様子。内部は略奪され破壊されていた=2024年1月、スーダン西ダルフール州ジェネイナ © Taichiro Sato/MSF

目の前の現状、点ではなく線でとらえる

僕は緊急支援プロジェクトに関わることが多い。そこで大切にしている感覚がある。それは現地の状況を、これまでの経緯を踏まえた「線」で見ることだ。

現地に着くと、まず取り組もうとするのは悲惨な現状の改善だ。しかし、その一瞬の「点」で事象をとらえてしまうと、大事なものを見落としてしまうことがある。スーダンでの活動もそうだった。

僕が現地に入った時点で、医療レベルはかなり悲惨だった。スタッフの入れ替えも選択肢に入る。しかし彼らと対話し、流れを線でとらえると見方は変わる。

暴力が激しかった時期、この病院では50人を超える職員が亡くなった。生き残った職員のほとんどは隣国に逃れた。僕たちが病院に着いた時、そこで働いていたのは戦火の中でも逃げず、あるいは逃げることができず、給料もないままボランティアとして職員のいなくなった病院で働き始めた、地元の人たちだったのだ。

彼らは荒らされた病院を掃除し、マットレスを拾い集めて部屋に並べた。薬も底を突いたが、傷を洗ったりしてできることを続けた。そんな人たちを「レベルが低い」と切り捨てられるだろうか。

チームの現地リーダーのムハンマドは会議で、よくこんな言葉を口にした。

「彼らはヒーローだ。それを分かった上でサポートしよう」

後から来た外国人の僕らが、彼らの一番の理解者になれるよう、そして良きサポーターでいられるよう最善を尽くそうと、メンバー間で認識を共有した。MSFは彼らを雇用という形で支え、トレーニングした。こうした活動のすべては、日本や各国でいただく貴重なご寄付が原資となっている。

ムハンマドはこう続けた。

「退院した人たちが、帰る場所がなくて病院にいる。でも、病院というこの地域で一番安心できる場所を作ることができたなら、ひとまず、それでいいじゃないか」

医療体制や物流、経済、そして人々が、少しずつジェネイナに戻ってきた。MSFは小児病院の再稼働という当初の目標を達成し、いまは更なる医療の質の向上と地域医療の問題解決に活動を広げている。僕は4月、今後の課題を後続のチームに託し、スーダンを後にした。

今も理不尽な暴力にさらされる人たちがいる。そんな人たちのために現地で医療を提供し続けるスタッフがいる。彼らの勇気と行動力、人を助けたいという熱い思いに、最大限のリスペクトと感謝を送りたい。

そして、現地の人たちの「声なき声」を伝えることは、現地での医療活動に加えて僕にできる、もう一つのライフワークかもしれない。そう思い、この一文をつづっている。

チャドのアドレでスーダンから逃れた多数の負傷者に対応した時の筆者=2023年6月、チャド・アドレ © Taichiro Sato/MSF