「日本人として認められたい」 フィリピン残留2世の戦後
第2次世界大戦前、フィリピンに移民として渡った日本人男性とフィリピン人女性の子どもたち。今は80代になった「残留2世」たちの父親を捜す人々がいます。

第2次世界大戦前、フィリピンに移民として渡った日本人男性とフィリピン人女性の子どもたち。今は80代になった「残留2世」たちの父親を捜す人々がいます。
第2次世界大戦前に日本の移民政策でフィリピンに渡り、フィリピンの女性たちと結婚した日本人がいる。彼らとその家族の人生は開戦で一変した。戦争で命を落としたり、戦後は日本へ強制送還されたりして家族は離散。終戦から79年となる今も、フィリピンに残された子どもたちは「残留2世」として日本への思いを募らせる。残留邦人の身元捜しを支援する日本人の活動を追った。
79年前、日本の降伏によって終結した第2次世界大戦。しかし、今もなお、「戦後」を生きている人々がいる。戦前、移民の送り出しに積極的だった日本政府の方針の下でアメリカ統治下のフィリピンにわたり、道路建設やジャングルの開墾、農園の経営などを担っていた日本人の男性と、フィリピン人の女性が結婚して生まれた子どもたちだ。
最盛期には3万人とも5万人とも言われる人々が海を渡り、現地に根付いていた日系人社会は、戦争の勃発と日本軍の侵攻によって崩壊した。生活の場は戦場に一変。男たちは、昨日まで隣人や親戚として仲良くしていたフィリピン人と戦うことを強いられ、そのまま前線で命を落とす者が多かった。生き残った者も、反日感情の高まりから抗日ゲリラに殺されたり、米軍の捕虜となり日本に強制送還されたりした。
一方、日本の名前を付けられ、現地の日本人学校に通い、日本人として教育を受けていた幼子たちは、母親とフィリピンに残され、身を守るために母親の姓を名乗り、人目を避けて山の中でひっそりと生きざるを得なかった。別れた時の年齢によって、父親と日本語で会話していたことや、父親が歌ってくれた日本の歌のメロディーを覚えている者もいれば、物心がついて母親や親戚から聞かされるまで自分が日本人の子どもであることを知らなかった者まで、さまざまだ。
歳月が流れ、80歳を過ぎたかつての子どもたちには、今も戸籍がない者がいる。日本人の血を引いていることを隠すために、母親が婚姻契約書や出生証明書、洗礼証明書を焼いたり、市役所や教会が破壊されて書類が残っていなかったりして、身元を証明することが難しいためだ。戦争によって家族が引き裂かれ、無国籍の状態に置かれてきた「フィリピン残留2世」たちは、「父と同じ日本人として認めてほしい」と願い続けながら、今も戦後を生きている。
2023年12月、2人の残留2世が沖縄に降り立った。カナシロ・ロサさん(80)と、アカヒチ・サムエルさん(81)。2人とも生後間もないうちに生き別れた父親の記憶はなく、証拠書類も残っていないため、身元につながる手がかりは、2人がそれぞれ母親から聞いた父親に関する断片的な情報だけだった。
カナシロさんは、「お父さんは沖縄の人」で「理容師」をしていたが、「従軍後に行方不明になった」と母親が話していたのを覚えていた。また、アカヒチさんは「お父さんの名前はアカヒチ」「沖縄からフィリピンに渡り、漁師をしていたが、戦後、反日ゲリラに殺された」と聞いたことがあった。そこで、残留2世たちの支援を行う認定NPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」(PNLSC、東京都新宿区)は訪日調査の実施を決断。渡航費用はこの年の8月にフィリピンを訪問した塩村あやか参議院議員とともにクラウドファンディングで募り、フィリピンの司法省にも掛け合って無国籍者認定を受け、パスポートの代わりに渡航許可を取得した。「東南アジアで初めてフィリピンが無国籍条約を批准していたことで実現した」と、PNLSC代表の猪俣典弘さんは話す。
調査の結果、カナシロさんの父親はフィリピンの理髪店で働いていた南城市出身の金城幸正さんと見られることが分かり、カナシロさんは沖縄滞在中、いとこと見られる男性と対面した。一方、アカヒチさんも、「アカヒチ」という姓がうるま市平安座島に多いことを手掛かりに、父親が赤比地勲さんだと判明。勲さんの親族との対面や、墓参が実現した。
PNLSCは、2003年の発足以来、20年にわたってフィリピン残留2世の身元探しを続けている。これまでに308人が「就籍」という形で日本国籍を回復した。今回のような親族対面も、沖縄ではすでに9回行われているという。今回、身元が明らかになったカナシロさんとアカヒチさんについても、今後は就籍の申請手続きが始まり、「日本人として認められたい」という2人の願いは、ようやく実現に向けて大きく動き出す。
残留2世たちの支援には、膨大な労力と時間がかかる。前述の通り、必要書類がないケースがほとんどであるためだ。
また、そもそも本人が名乗り出てくれなければ存在を把握できないというじれったさもある。PNLSCは、フィリピン各地にある日系人会のほか、ラジオや新聞などのメディアを通じて日系人を捜していることを呼びかけ、申し出があれば村まで訪ねて聞き取り調査を行っている。しかし、夫や子どもたちに自身のルーツを隠し続けてきた残留2世たちも少なくなく、打ち明ける決心を固めてくれるのを待つしかない。
依頼してくれた後も、道のりは長い。父親の名前や出身地、職業など、覚えている限りの情報を聞き取った後は、外務省の外交史料館に残る旅券の発行記録(旅券下付表)の名簿と照合し、渡航時期や年齢なども鑑みつつ、それらしい人物を絞り込んでいく。アメリカの国立公文書館に残っている強制送還者の名簿(俘虜〈ふりょ〉銘々票)や、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会)が所有するファミリーサーチというデータベース、厚生労働省に残る軍歴関係者の名簿にあたることもある。しかし、残留2世たちが音だけで覚えている父親の名前は、当然ながら時間の経過とともに曖昧(あいまい)になったり変わったりすることも多く、日本人らしい名前を類推しながら一件一件照合するのは、「まるで砂漠から一粒の小石を見つけ出すように」地道な作業だ。
それでも、「長い時を超えた再会の場面に立ち会うと、親子の絆が持つ不思議な力に触れ、感動的な思いがこみ上げることもしばしばあります」と、猪俣さんは話す。
たとえば、こんなことがあった。中部ビサヤ地方のドゥマゲッティに住む女性から「父親を捜している」と依頼があり、調査してみると、戦後、強制送還されるまでサトウキビ農園で働いていた「オクママンゾウ(奥間萬藏)」さんの娘であることが判明。萬藏さんはすでに100歳を超えていたものの健在で、女性はすぐに面会に訪れた。ところが、別れた時に3歳だった彼女もこの時、すでに70歳で、萬藏さんは自分の娘だと認識できず、猪俣さんは気をもんだという。
ところが、台風に見舞われ、予定していた墓参りに行けなくなってホテルで共に過ごしているうちに萬藏さんは自然にビサヤ語を口にし始め、3日目には「お前の母さんはどうしてる」と尋ねるなど、父娘の会話が成り立つまでになったのだ。猪俣さんは「なんとドラマチックだろうと感動しました」と振り返りつつ、「彼女の母親は数年前に亡くなっていました。もっと早く身元が分かっていれば3人で会わせてあげられたのに」と、残念がる。
さらに深刻なのが、時間との闘いだ。父を思い、父の祖国である日本に焦がれ続けてきた残留2世たちにとって、戦争の終結から79年という年月は残酷なほどに長い。老いて話せなくなったり、亡くなったりする人の数は加速度的に増えており、「残された時間は限りなく少ない」という思いが、猪俣さんたちを突き動かしている。
2020年に公開した映画『日本人の忘れもの フィリピンと中国の残留邦人』を通じて、フィリピン残留2世や中国残留孤児の思い、猪俣さんらPNLSCスタッフの取り組み、家庭裁判所に就籍を申し立てる河合弘之弁護士の姿を記録し、問題提起した小原浩靖監督も、「当事者の高齢化が進み、問題が表面化する前に消滅しつつある」と強い危機感を抱く。
近年、世界的にも紛争や迫害、暴力、人権侵害などによって故郷を追われる難民や移民は急増している。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の統計によれば、その数は2022年末時点で1億840万人に上り、1年間に増えた人数も、1910万人と過去最多を記録した。UNHCRはその背景として、ウクライナ情勢をはじめ、エチオピアやブルキナファソ、ミャンマー、ナイジェリア、アフガニスタン、コンゴ民主共和国(旧ザイール)などの新たな紛争を指摘。さらに、国籍を持たない「無国籍者」も420万人に上ると推計した(2020年末時点)。
猪俣さんは、「日本は今、技能実習生の処遇や滞在資格、入国管理局の在り方などが問題になっているように、国境を越えてやって来る人々に非常に優しくない」としたうえで、「日本もかつては国を挙げて移民を送り出し、フィリピンをはじめ世界の国々に受け入れてもらっていた側だった」と指摘する。フィリピンでも、そして中国でも、終戦後、現地の家庭に保護され、育ててもらった残留邦人も少なくないという。おりしもフィリピンでは2023年、日本人のフィリピン移住が始まって120周年を迎えた。
世界中でこれでもかというほど戦闘が勃発し、人々の権利が著しく脅かされている今日、戦争に翻弄(ほんろう)され、よりどころを失った人々が戦後をどう生きていくのかという問題は、すべての国に突きつけられていると言っても過言ではない。79年前に家族を引き裂かれて以来、「いない存在」として扱われてきたフィリピン残留2世たちは、今なお戦後を生きており、この問題は、決して過去のものではない。人生の最終章を迎えてようやく重い口を開き、やっとの思いで父の祖国への思いを語り始めた彼らの声が、時間の壁の前に永遠に消えてしまう前に、日本は国としてどう行動するのか。世界の国づくや復興支援にも協力の手を差し伸べてきた日本自身の国の在りようが、問われている。