急速に人口が増加し、経済発展の途上にあるウガンダ。しかしその陰で貧富の格差は広がり、貧困家庭の課題は置き去りにされたままだ。写真家の渋谷敦志さんが、日本の「あしなが育英会」によるウガンダの遺児たちへの支援活動を取材し始めて14年。かつて「貧しさの沼」にあった子どもたちは成長した今、どう生きようとしているのか。渋谷さんが現地を再訪して取材した。

「ジャッジャ(祖母)は勉強しなさいと言った」 ドーリーンさん(21)

7年ぶりに再会した彼女の顔はキラキラとした輝きに満ちていた。

会った瞬間、構図やシャッターチャンスなど写真撮影の際に考えるあれこれは頭から消えた。

「ただ、そこにいて」

14年前にも撮影した、彼女が生まれ育った小さな家の戸口に座ってもらった。シャッターボタンにかける指に意識を集中させる。

「いいねえ、グッド。ワン(カシャ)、ツー(カシャ)。オッケー。もう撮れた!」

あの時、おびえたような目をしていた少女はもういない。一人の人間が変わっていく。その姿にカメラを通してまっすぐに向き合う。14年という時の流れを思い、胸がいっぱいになった。

21歳になったドーリーンさん。2024年10月からイギリスのヨーク大学で法律を学ぶ=2024年7月、ワキソ県ナンサナ、筆者撮影

2022年12月に高校を最上位に近い成績で卒業、2024年10月からイギリスのヨーク大学に留学し、法律を学ぶ。目指すは弁護士だ。「本当は日本に留学することを目標に勉強に励んできた。でも語学の壁もあり、何を学ぶかが重要だと考えて、留学先をイギリスに変えた」と話す。SNSのメッセージで留学のことは知っていたが、本人の口からあらためて報告を受け、「おめでとう」の一言をじかに届けることができた。それだけでもウガンダに来た甲斐(かい)があったというものだ。

ドーリーンさんと初めて会ったのは2010年。親を亡くした子どもの貧困を取材するために、首都カンパラの近郊にあるワキソ県ナンサナにきていたときだった。

その町で、病気や災害などで親を亡くした子どもたちを支援する日本の「あしなが育英会」が、2003年からエイズなどによる遺児を支援する活動を始めていた。現地で主体となる団体「あしながウガンダ」が、基礎教育を提供する「テラコヤ」を開いていた。その教室で、経済的理由により学校に通えない子ども60人ほどが、肩を寄せ合いながら、読み書き、算数などを学んでいた。そこで出会った子どもの一人が7歳のドーリーンさんだった。

テラコヤで学ぶドーリーンさん。当時7歳。ここで小学4年まで学び、その後は地元の小学校に編入した=2010年10月、ワキソ県ナンサナ、筆者撮影

ドーリーンさんは生まれた時から父親の顔を知らない。母親とは幼い時に死別した。エイズが原因だった。母方の祖母に引き取られたものの、若い働き手が不在の生活は厳しいものだった。

当時の暮らしぶりをドーリーンさんはこう振り返る。

「洗濯に水くみ、幼い子どもの世話。そんな家事に追われる毎日。それがあまりに普通だったので、不満や疑問はなかった。ジャッジャ(祖母の意味)が家の前でジャックフルーツや焼きトウモロコシを売って生活費を稼いでくれたので、なんとか食べていくことはできた。つらかったのは、マトケ(料理用バナナでウガンダの主食)があっても味付けのソースがなかったこと。お湯に塩を入れ、浸して食べたけど、それが毎日続いたこと」。彼女は笑って話すが、その描写は14年前に僕が撮ったこの写真から伝わる暮らしそのものだった。

生まれ育った家の入り口に立つドーリーンさん。彼女の足元がキッチン兼ダイニング=2010年10月、ワキソ県ナンサナ、筆者撮影

近所の人たちの助けもあって、飢え死にするようなことはなかった。ただ、「腹を満たす」以上の、病気になったときに医療を受けるとか、子どもを学校に通わせるといった、社会で生きていく上で欠かせない機会は簡単に手に入らなかった。特に現金収入が乏しい「シングル・グランマ家庭」にとって、それらは二の次、三の次で、支援を受ける機会があることを認識すらしていない場合もあった。

そんな貧困状態に陥っていた子どもを地道に取材してまわったのだが、分かってきたのは、子どもの貧困というのは、家庭の貧困であり、その中でとりわけ深刻なのが親を亡くした家庭の貧困だった。

ウガンダを含むサブサハラのアフリカ諸国はエイズ患者が多いことで知られている。国連合同エイズ計画(UNAIDS)の推計によると、2023年時点で世界には約4千万人のHIV感染者がいて、そのうち65%がサブサハラに集中。ウガンダでは2023年に3万8千人が新たにHIVに感染し、2万人がエイズで命を落としており、世界でも有数の深刻な状況にある。

ナンサナに根を下ろした「あしながウガンダ」はまさに「家庭の貧困」に焦点を当て、コミュニティーワーカーを地域の隅々まで張りめぐらせて、貧困家庭の子どもに出会うネットワークを広げていった。

ドーリーンさんはローラーで地ならししていくようなこの調査で「発見」され、テラコヤで学ぶようになった。そして小学5年からは地元の小学校に編入学し、その後も奨学金がもらえる成績を維持して、中学、高校へと進学を果たした。励みになっていたのは祖母の応援だったと話す。

「ジャッジャから毎日、勉強しなさいと言われていた。ジャッジャは学校に行っていないはずなのに、分からないところを熱心に教えてくれた。課題をクリアして何か景品を持ち帰った時、とても喜んでくれた。そんなジャッジャの喜ぶ顔を見たかったから、がんばれた」

地元の小学校に通うようになったドーリーンさん。1クラスの人数は100人を超えていた=2015年7月、ワキソ県ナンサナ、筆者撮影

貧困が生まれる構造を変えるために

貧困の沼から抜け出すはしごに足をかけた彼女はいま、それでもまとわりついてきた不利な状況を一つひとつふり落とし、もう一つの未来を切り開こうとしている。

そんな挑戦が可能だったのは、「あしながウガンダ」を含む子どもの成長を支える団体が地元にあったこと、教育費の負担を減らす奨学金の支給、そして大学による学生支援制度があったからだ。ただ、そうしたシステムには限界がある。「ネットワーク」ですくい上げた子ども全員に教育の機会が与えられるほど資金は潤沢ではない。教育支援を受けられるのはむしろ一部。ドーリーンさんの成功はその一部の中でも稀有(けう)なケースであるのは確かだ。

もちろん彼女の成功の裏には彼女自身のひたむきな努力があった。しかしその努力でさえも、どのような家庭状況で育ったかで中身がちがってくる。貧しい家庭の子どもたちは多くの場合、本人の力だけでは圧倒的な社会的不利を変えられない。「私は運がよかった」という自覚がドーリーンさんにもあった。

「両親がおらず物質的には貧しかったが、遺児だったために奨学金をもらえた。学校には両親がいても貧しい子どもはたくさんいた。『学費を取りに帰れ』と教室から追い出された子どももいた。その子が向かったのは家ではなく、ゴミ置き場。お金に換えられるゴミを集めるためだった。政府は子どもは働くなというが、働く以外に生きる方法はなく、どんなに働いても貧しいまま。彼らは学校には戻ってこない」

なぜ貧困はいつまでたってもなくならないのか。経済が発展しても貧困がなくならないという社会構造は変えられないのか。「親ガチャ」などというが、生まれた家庭の運不運で未来が左右されてしまうような環境を、このままにしていいのか。

週末、テラコヤで行われる「心のケア」プログラムでボランティア活動をするドーリーンさん=2024年7月、ワキソ県ナンサナ、筆者撮影

ドーリーンさんの言葉に耳を傾けていると、14年前に自らにつきつけていた問題意識が、いつの間にか薄らいでいたことに、はっとした。

それでも、この14年、遠い国で起きている事象を知ってもらいたいと願い、現場を歩いてきた。そして、現実を単に社会問題として伝えるだけではなく、出会った人の「人間らしさ」も一緒に伝えることが大切だということを学んだ。

胸によみがえった思いを抱えて子どもたちを訪ね、マイクとなって声を聞き、カメラとなって素顔を写し撮る。そんな営みを粘り強く続けることで、自分の、そしてメッセージを受け取る人々の、貧困に対する意識に揺さぶりをかけていくしかない。そう襟を正したのだった。

人口増加と経済成長のひずみ

ウガンダでは内戦が終結した1986年以降、ムセベニ大統領による長期政権が続く。2006年には北部地域の反政府勢力「神の抵抗軍(LRA)」とも停戦し、安定した発展を続ける中、世界有数の人口増加率で、2024年には5千万人に達した。その約6割が18歳以下の若年層といわれており、ウガンダの今後の経済成長を牽引(けんいん)していく原動力と考えられる。

ただ、急激すぎる人口増加は発展の陰でひずみを生み出す。ただでさえ過密化していた首都カンパラに農村部からどんどん人口が流入しているが、多くの労働力を吸収できるだけの産業は育っていない。インフラ整備や宅地開発の遅れも深刻だ。ひどい渋滞、多発する交通事故、広がるスラム街、水や空気の環境汚染など、社会のひずみは大きくなるばかり。仕事にあぶれた人々は農村に戻ることはなく、物価や家賃の高騰に音を上げ、カンパラ中心部から外へ外へと押し出されていく。無秩序に拡張していく首都圏。周縁化された地域において、変貌(へんぼう)著しい町の一つがナンサナだった。

カンパラから北西地域に抜ける幹線道路の入り口に位置するナンサナでは、平日休日問わず、路上は自動車とバイクでごった返し、常に渋滞が発生している。歩いた方が早いほどだが、バイクの運転マナーが憤りを覚えるほど悪く、とても歩く気にはならなかった。2週間ほどの滞在中、何度、バイク事故を目撃しただろう。社会問題は多々あるが、この国で命が奪われる危険性が最も高いのは交通事故にちがいない。

通い慣れた道を車でノロノロと移動していると、車窓に重機で更地にされた土地が広がっていた。以前、その辺の道端は雑多な小商いでにぎわっていた記憶がある。商業施設か何かができるのかと、案内役のルベガ・ロナルドさんに聞くと、先月(6月上旬)、そこにあった家がすべて壊され、住民は「環境保全」の名目で、約300世帯が強制的に立ち退きさせられたという。

住宅が破壊された跡地。およそ300世帯が生活拠点を失った=2024年8月、ワキソ県ナンサナ、筆者撮影

「昔、そこは沼地だったが、バイパス道路に近くて便利なので、多くの人が住むようになった。それをまた沼地に戻すというが、本当かどうかは分からない。それから、これもよく分からないが、家が一つだけ壊されずに残っている」と、ロナウドさんは道路脇にある土壁の家を指さした。

「なぜ自分がこんな目に」 ナントゥメさん(17)

不自然な空き地にポツリとたたずむその家に行くと、チョービジャ・ズライカさん(52)、ナントゥメ・ハディジャさん(17)とナンタム・ルカイヤさん(16)の姉妹が出迎えてくれた。ナントゥメさんとナンタムさんは物心つく前に父親を病気で亡くしている。母親はその時に失踪して顔も知らない。父親の妹のズライカさんが母親代わりとなり、2人を育ててきた。

ナントゥメさん(左)と妹のナンタムさん。周囲の住宅は解体され、自分たちの家だけが残された=2024年7月、ワキソ県ナンサナ、筆者撮影

同居する家族は子ども8人を含め12人。ズライカさんは95歳の母と心を病む妹の世話をしながら、小売店を切り盛りするほか、路上でトマトなどの野菜を売ったり、軒先の土地を洗車用に貸し出したりして、馬車馬のように働き家族を支えた。貧しいながらも、大家族のにぎやかな生活が続いていた。

そんな暮らしが立ち退きで一変した。

「目の前で家がどんどん壊されていって恐怖だった。泣き叫ぶ人や、ショックで気を失った人もいた。3週間以内に立ち退くようにいわれていましたが、お金も引っ越し先も用意されず、その日が来た。父が1950年ごろからここに住んでいたはずなのに、急に違法居住だといわれ、どうすればいいか分からなかった」

逃げようにも身動きがとれない。牢獄に入れられているような感じで、大量のがれきを前に、途方にくれて泣き寝入りするしかなかった。ところが、どういうわけか、この家には重機が入らずに工事は終わり、取り壊しを免れた。高齢で病に伏しているズライカさんの母親への温情があったのではないか、とズライカさんは考えている。

家は残された。だが、収入源は失われた。報道を見て、不憫(ふびん)に思った人たちが食料を寄付してくれたので当座をしのいでいるが、以前のような暮らしは望めないのが実情だった。

そんな中、最もやり場のない悲しさと怒りに悶々(もんもん)としていたのは、ナントゥメさんだった。学費の支払いが滞った途端、通学が認められなくなっていた。

「みんなが授業を受けている前で教室を出なさいといわれて悲しかった。なぜ自分だけこんな目にあうのか、とても惨めだ」と、ナントゥメさんは肩を落とす。財政難なのか、ウガンダの学校は以前にもまして世知辛くなっていた。「苦しそうな声をあげるおばあちゃんを助けたくて看護師をめざしていた」が、そんな希望も、あらがえない力に突然、奪われてしまった。「おばあちゃんが亡くなったら、家を追い出されるかもしれない」。寝たきりの祖母に付き添い、食事やトイレの手助けをしながら、先の見えない日々に鬱屈(うっくつ)とした思いを抱える。

病気で寝たきりの祖母を交代で看病するナンタムさんとナントゥメさん=2024年7月、ワキソ県ナンサナ、筆者撮影

「苦しむ人を助けたい」 ナンタムさん(16)

一方、1歳下の妹ナンタムさんは学校に通い続けている。「あしながウガンダ」の奨学金から学費が支払われているからだ.。奨学金が出されるのは原則1世帯に1人。姉妹間に生じてしまった不公平な状態に胸がふさがれる。でも、ここで勉強をやめるわけにはいかないという強い思いが、ナンタムさんにはある。

「早く高校を卒業して、いい仕事を見つけて、家族を助けたい。そしていつか医師になって、大勢の苦しむ人を救いたい」

医師を目指して勉強に励むナンタムさん。制服を着ていると家庭が貧しいことはわからない=2024年8月、ワキソ県ナンサナ、筆者撮影

勉強は、自分や自分の家族のためだけのものではない。社会で困っている人々の問題解決に役立てるためのものでもある。そのことを彼女らは誰よりもわかっている。ウガンダの社会の片隅にこういう若者がいるのだということを知ってほしいし、彼らと連帯してもらいたい。そして、ウガンダのすべての子どもが、少なくとも前期中等教育(日本の中学)を卒業できる環境にするためにサポートする感覚を持ってほしい。それは世界中のどんな子どもにも与えられている権利のはずだ。僕は2人の姿を前に思った。

最後に、2人の若者の目に今のウガンダの社会はどんなふうに映っているのか、質問を投げかけてみた。妹のナンタムさんが次のように答えてくれた。

「豊かな人はどんどん豊かになり、貧しい人はますます貧しくなって、ギャップが大きくなっている。家族が貧しくなると、子どもは学校に行けず、食事も十分にとれなくなる。男の子は盗みをし、女の子は体を売るようになる。他に選択肢が少ない社会に、私たちは痛みと苦しみを感じる」

子どもたちに痛みと苦しみを与えているものの正体は何か。その問題の根っこを子どもたちの視点から見ていくことがそれを知るカギになると思っている。