「鉛筆はうそをつかない」 機会奪われて知る学ぶことの意味
ウガンダの首都にある貧困家庭の子どものための支援施設。その登録者が1千人を超えようとしています。子どもたちは、どう成長し、何を思うのか。現地で取材しました。

ウガンダの首都にある貧困家庭の子どものための支援施設。その登録者が1千人を超えようとしています。子どもたちは、どう成長し、何を思うのか。現地で取材しました。
ウガンダの首都カンパラ近郊のワキソ県ナンサナで、2003年から病気や事故などで親を亡くした子どもたちを支援するNGO「あしながウガンダ」。活動拠点の施設「レインボーハウス」では、日夜、近辺地域に住む遺児を対象に学習支援や心のケアを行っている。その登録者数が、まもなく1千人に達しようとしている。子どもたちの最初の取材から14年。写真家の渋谷敦志さんが、現地で「かつての子どもたち」に再会した。
「あしながウガンダ」のレインボーハウスで、基礎教育を提供するのが「テラコヤ」だ。ウガンダでは、「学費が払えない」などの理由で公立学校へも通えない子どもたちがいる。ただ、テラコヤでも受け入れられる人数には限りがある。在籍できるのは最大100人、そして日本でいう中学、高校課程に奨学金を受けながら通えるのは成績が優秀な数十人だけだ。数字に透けて見える支援の限界は、20年以上の活動を経てもまだ、「子どもの貧困」が重い課題であることを突きつけてくる。
だが、僕が伝えたいのは「数字」ではない。
数を見せることで置き去りにされてしまいそうなものーー出会った子どものまなざしや、その時その場所で生まれた言葉や光ーーを届けたい。子どもたちがどんな道を歩いてきたのか、これからの人生をどう生きていきたいと思っているのか、数字からは見えにくい一人ひとりの特別な人生と心情に思いをはせて、「あるべき未来の形」を共に考えてくれればうれしい。
ナガワ・ブレンダさん(21)は、実母のエバ・ナジワさんと、祖母のナロンゴ・ノエリナ・ナムテビさんの3世代3人で暮らす。まずは出会った時のことを思い出してもらおうと、14年前にテラコヤで撮った写真をいくつか見てもらった。担当教員のテディ先生の隣に写り込んでいた女の子を指さすと、「これが私」と、滔々(とうとう)と話し始めた。
「テディ先生はみんなのお母さんのような存在だった。テラコヤでは、ダンスなどの活動は苦手だったけど、勉強は好きだった。先生が、分かるまで丁寧に教えてくれたおかげ。『子ども』として過ごせる時間がテラコヤにはあった。でも、家に帰ると、子どもではいられなかった」
子どもではいられない生活。それはどんなものだったのか、教えてもらえませんか、と聞くと、ブレンダさんは黙り込んでしまった。
触れられたくないことがあるのだろうと思い、「話したくないことは、無理に話さなくていいですよ」と伝えると、ブレンダさんの隣で座っていた祖母のナロンゴさんが、「毎日、食べるだけで精いっぱいで」と、涙にむせびながら言った。
ブレンダさんの父親は彼女が3歳のとき、エイズで亡くなった。ナロンゴさんの稼ぎはわずかで、じわじわと生活は苦しくなった。ブレンダさんが市場に行き、売れ残りのマトケ(食用バナナ)やジャガイモをもらってきて糊口(ここう)をしのいでいた時もあったという。ブレンダさんが高熱を出した時は、マラリアだと思いながらも、病院で診てもらうこともできず、薬草を煎じて飲ませることしかできなかった。途方に暮れていた時、ナロンゴさんは近所で「あしなが」のうわさを聞く。すでに学齢に達していたブレンダさんを連れてレインボーハウスを訪ね、ブレンダさんはテラコヤの生徒になった。
「一番うれしかったのは、学校で勉強しているんだと、自分で自分に誇りを持てたこと」とブレンダさん。
しかし胸を張って歩けた日々は、2020年、新型コロナのパンデミックによって中断を余儀なくされた。町はロックダウンされ、学校は感染拡大を防止するために一時閉鎖された。
2021年末、中学の卒業試験にはなんとか合格した。しかしその後は成績が振るわず、奨学金は打ち切られ、高校進学の夢は閉ざされた。
ロックダウンは終わったが、ステイホームは続いていた。遊びに行こうとしても、危ないからだめだ、と祖母から止められた。同年代の若者に、悪い影響を受けることを心配してのことのようだ。保育士になりたい。でも、先立つものがなく勉強ができない――。次々と押し寄せるままならなさから、あきらめをたくさん抱え、次第に部屋に引きこもるようになっていった。
ブレンダさんは、まだ「貧しさの沼」にいるようだ。「あなたと似た境遇にある子どもたちにどんなメッセージを送りたいですか」。最後にブレンダさんに質問した。
彼女はしばらく考えたあと、「勉強を続けてほしい」と言い、か細い声ながら、はっきりとこう言い足した。
「鉛筆はうそをつかないから」
この言葉が発せられた瞬間、彼女のうつろだった目に少しだけ光が宿った気がした。彼女は学ぶことの力を信じている、と僕は思った。「いつ勉強できるか分からない。でも、いつか保育士になって、子どもたちを支えたい」
2014年に見たトーファ君のダンス・パフォーマンスはいまだに僕の脳裏に焼きついている。
ナンサナの町を見下ろせる小高い丘のステージに太鼓の音が鳴り響いていた。赤道直下の太陽に照らされた子どもたちが、赤茶けた地面を素足で踏み鳴らす。重力などないかのようにポンっと跳びはねたと思ったら、一気にしゃがみこみ、回転する。そしてまた畳み掛けるようなリズムで激しく腰を振る。
練習だったが、圧巻の踊りだった。数年前の彼らの踊りは、子どものお遊戯会のようだったが、今は見違えるほど成長していた。自信に満ちた表情とキレのある身ぶり手ぶり。ダンスが子どもたちの心と身体を解き放っていた。原始的な生命力の躍動をカメラで受け止めようと、汗がレンズに飛んでくる距離まで肉薄し、夢中になってシャッターを切り続けた。
ダンサーたちの中心にいたのが、「トーファ君」ことムロキ・クリストファー君だった。当時の彼らのことは、写真絵本『希望のダンス』(2015年、学研教育出版)にまとめた。
トーファ君は幼い頃に父親をエイズでなくし、出稼ぎに出た母親とはめったに会うことはなかった。同じく親をエイズでなくしていた2歳年下のいとこ、ドーリーンさんともども祖母に引き取られ、きょうだいのように育てられた。そしてトーファ君とも、14年前にテラコヤで出会った。
当時テラコヤでは、子どもたちに基礎学力を身に付けさせるだけでなく、伝統的な踊りと音楽を通して自己表現にチャレンジさせようと、ダンス部が立ち上がったばかりだった。基礎体力をつけるために坂道を走らされたり、放課後は毎日のように稽古(けいこ)をさせられたりしていた。泣きべそをかく子もいる中、息切れしていても笑顔を絶やさず、いつも前向きな姿勢で練習を引っ張っていたのがトーファ君だった。
のちにダンスは授業の科目としても採用され、時折外部からの訪問客を迎えては、踊りと音楽を披露するという実践を繰り返した。周囲からの拍手喝采が子どもたちに少しずつ自信を与えていったのだろう、勉強に取り組む姿勢も意欲的になり、ダンスの練習が楽しみで休む子どもの数も減っていったという。
「踊っていると、違う世界に行ける気がします」と話していたトーファ君。その言葉通り、テラコヤの子どもたちは、「あしなが育英会」の特別企画として、ウガンダだけでなく、日本とアメリカ、隣国ケニアでのダンス公演を実現させた。教室で始まったダンスレッスンが学びの場を押し広げ、教わる側だった子どもたちを何かを伝える側へと導いていった。
久しぶりに会ったトーファ君は23歳になっていた。背丈は僕を優に超え、顔立ちも精悍(せいかん)になったが、にこっと笑ったときの目は昔のままだった。奨学金で通っていた中学は卒業したが、まだ定職にはつけず、苦しい生活が続いている。時々家具を作る仕事を手伝いながら、病気がちの祖母を支えているという。「ダンスは続けているの」。話題を変えて聞いてみると、「水曜日、金曜日、日曜日の夕方に練習をしている」と言う。後日、ナンサナ市内の指示された練習場所を訪ねた。どんな場所で練習しているのかと思いきや、工事現場の脇のひっそりとした空き地に、輪になって踊っている多数の子どもたちの姿があった。そこにトーファ君が大きな太鼓を抱えてあらわれた。子どもたちにダンスと音楽を教えながら、グループで練習しているという。友人同士のこぢんまりした集まりを想像していた僕には思わぬ光景だった。
太鼓と木琴、パーカッションのサウンド。心臓の鼓動のようなリズム。「アイヤイヤイオー」の合いの手。懐かしいようで新鮮なグルーブ感。圧倒された。ナンサナの片隅で、「希望のダンス」は続いていたのだ。
「自分のダンスで誰かが喜んでくれること、それが私の幸せであり、誇りなんだ。ダンスには悲しんでいる人を幸せにする力がある。悲しい思いを抱えている人を私は助けることができないけれど、どのように踊るかを教えることはできるし、いつもその準備をしている」
トーファ君のダンスは自分自身に向いているのではなく、別の誰かに向かっている。僕はそれがとても誇らしかった。
会いたかった人の中で、なかなか消息がつかめなかったのがマナクラ・サラさんだった。
レインボーハウスのスタッフも、テラコヤ時代の友人も、誰ひとり、彼女の連絡先を知るものはいない。共有されていたのは、「結婚して子どもができて田舎に住んでいるらしい」という未確認情報だけだった。
待っていてもらちがあかない。以前サラさんが叔母と住んでいた家に行き、近所の人に片っ端から写真を見てもらって、手がかりを探すことにした。
サラさんの電話番号を知る人が1人見つかった。しかし、彼女の電話自体が使われていない状態だった。「誰も彼女と連絡をとりあっていないということは何か事情があるのかもしれない」。ここが引き際かとも思ったが、あきらめれば、つながりは断絶してしまう。ご縁を無縁にしまいと、芋づる式に人をたどったところ、叔母のゴレットさんの番号なら分かるという女性にたどり着いた。その場で電話してもらうと、ゴレットさんはいまもサラさんと同居していることが分かった。場所はナンサナから100キロほど離れた田舎町だった。
国道沿いの町から離れ、未舗装の道をガタガタと10分ほど進む。森の奥まった場所に広がるトマト畑に面してレンガ造りの家があった。その軒先に青いワンピースを着た女性がいた。サラさんだとすぐに分かった。
彼女は僕の顔を見るなり、「信じられない」といった風に破顔一笑した。僕が来ることは知らされていなかったという。サラさんは「名前は忘れたけど、顔はよく覚えている。前はもう少し髪がありましたね」と、興奮さめやらない様子で訪問を歓迎してくれた。テラコヤで一番小さかったあのサラさんが、1人の女性に成長している。14年という時間がたったのだから、当たり前のことだ。でも、大人でも耐え難い社会的不利を背負った子どもたちにとって、生き抜き、成長することは決して当たり前ではない。特別なことなのだ、と感無量だった。ちなみに、結婚して子どもがいるというのは単なるうわさだった。
ナンサナで最後に会ったのは2017年だったか。サラさんは学校での成績は良いほうだったはずだが、小学校から中学校に進むにつれて、学校にだんだん行けなくなったという。
「生活に追われていた。叔母が仕事で家をあける時間が増えて、水くみ、家事、子どもの世話、すべてが自分の仕事になって、だんだん学ぶ意欲がなくなった。食べるものも十分になく、限界だった」
中学2年で学校を中退し、2019年に叔母といっしょに今の場所に移り住んだ。両親をエイズで早くに亡くしているサラさんにとって、頼れるのは父の妹のゴレットさんだけ。住み慣れた町と学校の友達から離れるのはつらかったが、そのときの彼女に自分で自分の人生を決める権利はなかった。
何か仕事はしているのだろうか。聞くと、ものを売る仕事をしているという。どんなものを扱っているのかと問うと、「木材とか……」とあいまいな答え。顔では笑っていたが、どこかお茶をにごすような感じだった。本人が触れられたくないことを根掘り葉掘り聞くことは控えたかったが、それでも、聞かずにはいられない。心の扉をノックしようと、「ここでの生活はどうですか」と質問を試みる。すると、「良くも悪くもない」と言い、固まってしまった。気分を害したのだろうか。サラさんの顔をのぞき込むと、目に涙がにじんでいたようだった。そして、叔母に聞こえないような静かな声で、「教育をちゃんと受けていれば、自分はここにはいなかっただろうと思うと、悔しい」と言い、目尻を指で押さえた。
「つらいことを話させて、すみません」。いたたまれない気持ちになって謝ると、サラさんは立ち上がり、「小さな庭で育てている野菜を見てください」と、家の後方へ歩き出した。
家のすぐ裏に1本の大きな木があった。見上げたサラさんが、黄緑色のたわわな実を指さして、「あれはジャックフルーツ、もうすぐ食べられる」と教えてくれた。そして木陰に広がる草むらのような畑で、マメやチリ、カボチャ、レモングラスなどを見つけて収穫した。雑然とした畑にも彼女なりの区画があった。
「ここにはトウモロコシを植えたい」「これはナカティという葉ものの野菜」「こんなところにミントがあったんだ」
野菜やスパイスを両手いっぱいに抱えるサラさんの顔が、生き生きと変わっていく。
僕は菜園で彼女にカメラ目線のポートレート撮影をお願いした。すると、彼女はヤムイモの大きな葉のあいだに顔を出し、チャーミングにポーズをしてみせた。「昔の人はこうやって写真を撮ったんですって。服の色と葉の色もマッチしているでしょう? インスタに載せましょう。あ、でも、スマホは盗まれたままだった」とおちゃめに笑った。
ここは彼女が心から望んだ場所ではないかもしれない。それでも、置かれた場所で自分なりの幸せをつかみとろうとしている。そんなサラさんの「今を生きる姿」が誰かの心を揺り動かすかもしれない。
夕方からサラさんは仕事に出かけるということで、家の裏で水浴びを済ませ、赤い服に着替えた。僕は彼女を車で町まで送り届けた。さよならをする去り際、心に閉じ込めていたことを告げてくれた。彼女の仕事のことだ。映画館のそばで、カートという覚醒作用のある木の葉を売っているのだという。
「自分でもよくない仕事をしていると分かっている。恥ずかしい。本当は美容師になりたい。でもそのためにもお金が必要。自分を変えたいという思いはある」
ひっそりと抱えている夢がサラさんにもある。その夢に届かない彼女の痛みや苦しみは僕には分からない。でも、時々様子を教えてほしい。「分からなさ」を少しでも分かりたいから。
「ワッツアップ(メッセージアプリ)でメッセージをします。あ、そのためにはまず、スマホを買わないと」。彼女はまた、笑った。