今年8月、アフリカの開発課題をテーマにした国際会議「第9回アフリカ開発会議」(TICAD9)が横浜で開かれます。アフリカに魅せられ、起業や支援、交流などの活動を重ねている人たちが、世代を超えて交流や協働を進める企業「GENERYS」。その分科会であるアフリカワーキンググループ(AWG)のメンバーに「アフリカと私」というテーマでアフリカとの関わりや寄せる思い、将来の夢などを書いていただきます。第10回はアフリカの農家に稲作技術を伝える君島崇さんです。

飢餓、難民……強烈な印象

アフリカに初めて行ったのは、1985年でした。当時続いていたエチオピア国内の内戦と干ばつの影響で、多くの人たちが国外に避難して難民となり、飢餓に瀕(ひん)していることが報道され、アメリカでは故マイケル・ジャクソンを始めとしたアーティストたちが、「We Are The World」を大合唱し、アフリカ支援を呼びかけようとしていたころです。

私は、アフリカの難民問題や飢餓に対して、日本としてどのような支援ができるか、現状を視察し、ニーズを探ることを目的としたミッションに参加して、ソマリア、ケニア、スーダンを約2週間かけて回りました。短期間でしたが、大都会ナイロビ、母なる川ナイル、赤い土、乾いた大地、遊牧民、そして難民キャンプなど、テレビの画面で見ていたアフリカに直に接し、想像以上に強烈な印象を受けたのを覚えています。

食糧増産を上回る人口増加

アフリカで本格的に稲作の振興に関わろうと決めたのは、2003年に行った調査がきっかけでした。

アフリカの食糧生産状況を調べるために、国連食糧農業機関(FAO)の統計資料からサハラ砂漠以南のアフリカ諸国の主食作物の生産量の変化と人口の変化を分析したところ、1993年から2002年までの10年間に、人口1人当たりの生産量は減少しており、それを補うように、輸入量が伸びていました。そして、人口増加率が、食糧生産の増加率を上回っていました。輸入量のほとんどはコムギとコメで、コメを主食としている国が西アフリカにはかなりあることも、その時に知りました。

1985年にアフリカでの難民や飢餓の問題を目の当たりにしてから約20年、アフリカ地域では農業開発や灌漑(かんがい)開発などによって、食糧事情は大きく改善されていると思い込んでいた私は、この結果を見て驚きました。そして、アフリカでは食糧増産の努力を今後も継続的に行う必要があること、コメの生産振興は問題の解決に大きく貢献することに気づきました。アフリカ大陸では一般に気温が高いので、水稲栽培に適している低地にまだ開発の余地が残されていることや、日本の稲作技術が生産性向上に役立つことなどを考えたからです。

当時48歳だった私はこれを機に、コンサルタントとしての残りの人生を、アフリカでの稲作支援にかける決心をしました。そして、仕事の成果ができるだけ多くの人に裨益(ひえき)するように、コメを主食としながらもその自給率が低い国での業務を目指しました。

私の希望は予想したよりも早く叶い、2004年からセネガルで、2006年からはシエラレオネで、共に日本政府の技術協力プロジェクトに参画し、他の専門家とともにコメ増産を目的とする稲作支援業務に携わる機会を得ることができました。

多様な稲作文化

稲作支援とはいっても、その仕事の範囲は広いのですが、私は主に、農民のコメ生産性を高める技術の開発と技術移転を行ってきました。技術移転の対象は政府の農業普及員ですが、まずは農家に行って、彼らが実践している稲作を学ぶところから仕事は始まりました。

そこで直接見た、アフリカの稲作の多様性には驚かされました。

特に、シエラレオネで見た稲作には驚きの連続でした。水田と言われて連れていってもらったところには、畦(あぜ)がありませんでした。雨期になると水が流れる低地を耕し、そのまま田植えをするのですが、苗はひょろ長く、弱々しく、それを10本以上まとめて1カ所に植え付けていました。田植えが終わると、その後は何の世話もせず、収穫は長く生い茂った雑草をかき分けて、わずかに穂がついた稲を探し出して刈り取るといった具合でした。

普及員研修で、苗代の作成方法を説明する筆者=2011年8月、シエラレオネ・カンビア県、筆者提供

また、近年従事しているセネガルのプロジェクト地域には、稲を「女性の作物」と呼ぶところがあります。そこでは、女性だけが稲作を行うのです。ただ、男性優位の社会であるため、女性たちは情報や技術、土地、財産へのアクセスが限られており、これにより稲作技術の進歩が遅れ、生産性が上がらないという問題があります。女性たちは、母親や祖母から継承した昔ながらの技術で、手鍬(てくわ)1本で土を掘り起こし、種をまき、除草をしています。

稲作技術研修で研修参加者による農事暦作成の演習結果の講評をする筆者(中央)=2023年5月、セネガル・タンバクンダ州、筆者提供

いずれの例も、日本では考えられない稲作ですが、彼らの中では一般的な方法です。これでは生産性の向上は望むべくもありませんが、彼らのやり方をすぐに否定することはできません。なぜなら彼らの稲作技術は、その土地の文化・風習や環境に根差したものであることが多いからです。まずは現場に赴き、農家が実践する農作業の意味を尋ね、その合理性や妥当性を確認しつつ、技術の評価を行い、問題点の整理と改善策の検討を行います。

農家が実践する稲作に対する改善策はこうして提案しますが、外部者である私たちが問題点を指摘し、改善策を説明してもすぐに受け入れてはもらえません。次の段階は、私たちが提案する技術を、普及員や農民に説明し、それを彼らの田んぼで実践してもらい、評価してもらうことです。私たちの考える「良い技術」は、彼らにとって「最善の技術」ではない場合もあるのです。

技術移転は、現地の農家との共同作業を通じて、少しずつ信頼関係を構築しながら進めることが重要です。そして、提案した技術の導入によって良い結果が得られれば、あとはスムーズに事は進みます。とはいえ、稲作は1年に1回。この仕事は、結果が出るまで長い時間がかかり、とても根気のいる仕事です。

急速な成長を支えるものは……

アフリカ諸国が今後、急速な発展を遂げることは疑いのないことですが、懸念は食糧の安定供給です。現在の速度で人口が増加し、食糧生産の増加が追いつかない状況が続いた場合、世界の食糧需給バランスが崩れることを怖れます。

そうなった場合、しわ寄せが社会的弱者に来ることは間違いのないことで、食糧不安は社会不安にもつながります。それを避けるためにも、基本食糧の国内生産を増やし、自給率を高める努力を今以上にする必要があると考えます。

日本とアフリカとは、以前に比べ、若い世代を中心に交流が増えており、日本人にとってアフリカはとても身近な存在になっていると感じています。今後も交流が続き、さらに身近になっていくことは想像に難くありませんが、望むらくは、現在よりも多くの日本人がアフリカに行く機会を持ち、アフリカを肌で感じることです。

研修終了後、研修受講者たちと共に=2024年6月、セネガル・タンバクンダ州、筆者提供

時代が変わり、内外の環境が大きく変化した現在において、今後のアフリカの発展過程は、これまで日本を含む先進国が歩んできたものと同じではあり得ません。彼らの住む環境の中で、彼らの目線で開発を考え、アフリカ版の開発パラダイムを共に構築することができれば、日本とアフリカとは真に対等なパートナーとなり得るでしょうし、そうなることを切に願っています。