3大感染症の一つ、マラリアは、原虫(寄生虫)を持った雌の蚊に刺されることで感染する。高熱や頭痛、悪寒といった症状のほか、悪化すると意識障害や多臓器不全などの合併症を引き起こし、死に至ることもある。主に4種類のマラリア原虫が知られ、いずれも原虫を含む人間の血液を蚊が取り込み、別の人間を刺した時に唾液(だえき)を通じてその体内に原虫を送り込むことで感染が広がる。だが最近、東南アジアでは、サルの持つマラリア原虫が蚊によって媒介されて人に感染する、5種類目の「サルマラリア」が広がっている。流行の中心、マレーシアのボルネオ島を取材した。

「まさか、今マラリアにかかるとは思わなかった」

サバ州の州都コタキナバルから北東に60キロほど離れたトゥアラン郡テンギラン村。70世帯余りが住み、周囲は小高い丘に囲まれ、森が広がる。今年2月、住民3人がサルマラリアに相次いで感染した。そのうちのひとり、ジュナイディさん(52)を自宅に訪ねた。

森に囲まれたジュナイディさんの家(左奥)=マレーシア・サバ州テンギラン村、市川亮氏撮影

平屋の家の周りには、マンゴーやランブータン、ドリアン、バナナなどの果樹が植えられている。ジュナイディさんは、機械の修理で生計を立てる。27歳を筆頭に5人いる子供のうち3人は独立し、いまは妻と、18歳、12歳の2人の子供の4人暮らしだ。

ジュナイディさんの家のそばに植わっていたマンゴーの木=マレーシア・サバ州テンギラン村、市川亮氏撮影

村で生まれ育ったジュナイディさんにとって、近くの森は狩猟の場でもある。夕方から夜にかけて森に入り、獲物を探す。2月1日もいつも通りに森に行った。帰宅後しばらくしてから、高熱が始まった。寒気がひどく、すぐに解熱剤を飲んで、毛布にくるまって寝た。「それでも4日間、熱が下がらなかった。食欲もわかず、このままではまずいと思い、5日目にバイクで15分ほどかけて公立の診療所に向かいました」。その場で抗マラリア薬をもらい、自宅で療養した。しばらくすると治癒したという。

サルマラリアに感染した時の様子を話すジュナイディさん=マレーシア・サバ州テンギラン村、市川亮氏撮影

ジュナイディさんが最後にマラリアにかかったのは「7歳か8歳の頃」。今回もその時と同じ症状だったという。マラリアの怖さは知っていたので、家では蚊帳をつったり、部屋に殺虫剤をまいたりして予防をしていた。「まさか、今マラリアにかかると思わなかった」と話す。後からサルマラリアだったと聞いた。確かに森に入ると果実などを取りにくるサルに会うことは珍しくないという。

診療所では、アジザン医師(35)がジュナイディさんの血液検査をし、マラリアと診断した。ただ診療所にある顕微鏡ではサルマラリアかどうかまでは分からず、検体を州都の施設に送り、PCR検査をして初めて分かった。アジザンさんは「サルマラリアも他のマラリアと症状はほぼ同じなので、すぐに投薬治療を始めたのが良かった」と振り返る。同じ村でサルマラリアに感染した70代の男性は、診療所に来た時はすでに手遅れで亡くなったという。アジザンさんによると、診療所では一昨年も2人、サルマラリアに感染した住民の治療にあたった。

ジュナイディさんの診察にあたった医師のアジザンさん=マレーシア・サバ州テンギラン村の公立診療所、市川亮氏撮影

サルマラリア感染拡大の背景にある「開発」

テンギラン村には、マレーシア国立サバ大学でマラリアなどの感染症を研究するカムルディン・アハメド教授に同行してもらった。アハメドさんは長崎大や大分大で研究していたこともある。マラリアは、その感染の経路から、国内に生息する蚊によって感染する「土着マラリア」や、海外で感染したり、そこから蚊を媒介にしてさらに広がったりする「輸入マラリア」などに分類できる。日本では1961年に土着マラリアが排除されており、マレーシアも2018年以降、土着マラリアの感染例は報告されていない。アハメドさんによると、サルマラリアの感染例は以前から報告されていたが、この10年、増加傾向にあるという。「いまマレーシアでマラリアと思われる症状が見られ、渡航歴がなければ、サルマラリアに感染したと考えて間違いない」と話す。

サルマラリアの感染が見つかった地域を示すカムルディン・アハメド教授=マレーシア・サバ州コタキナバルの国立サバ大学、市川亮氏撮影

なぜサルマラリアの感染者が増えているのか。「いくつか理由が考えられる」とアハメドさん。「一つは、人口増加によって新しい居住地の開発が進み、森だった場所に人間が住むようになったことが挙げられる。二つ目に、サルは保護され、個体数が増えている。さらにアブラヤシやゴムのプランテーションを増やすため、開墾に伴う森林伐採によってサルがすみかを失っている。これらの結果、サルと人間との接触がこれまでになく多くなっている」と指摘する。加えて道路の整備や観光客の増加なども拍車を掛けている、という。

「マラリアゼロ感染」達成に立ちはだかる新たな脅威

サバ州保健局のロセ・ナニ・ムディン局長もサルマラリアの流行に危機感を抱く。中央政府で感染症対策を担当したこともあるロセ・ナニさんは、これまでマレーシア政府のマラリア対策は成功してきた、と評価する。「1980年代以降、マラリア制御プログラムを進め、防疫対策などに積極的に取り組んできた結果、1961年に年間24万3870件だった感染件数を50年後の2011年には5300件まで大きく減らすことができました」。2011年からマラリア排除に向けた国家戦略計画を実施に移し、2018年には土着マラリアの感染件数をゼロにした。東南アジアではシンガポールに続くもので、まだ2カ国しか達成していない。「私たちは人間から人間への感染を防ぐことに成功し、いまなおゼロ感染が続いています。しかしそこに立ちはだかったのがサルマラリアなのです」

ロセ・ナニさんによると、サルマラリア以外の4種類は顕微鏡で特定することが可能だが、サルマラリアの場合はPCR検査でないと正確に診断できない。マレーシアでは2014年からPCR検査を全国的に導入し、州都など大きな町の検査機関に検体を持ち込むことで、すべての感染例を特定できるようになった。「その前後からサルマラリアの感染者が急に増えたように見えますが、PCR検査の導入によって、きちんと実数が把握されるようになったためです。それによって感染状況が分かるようになり、その後の対策作りにつながっています」と話す。

ロセ・ナニさんは「サルマラリアの感染を防ぐのは、一筋縄ではいかない」と言う。理由は「人間であれば、蚊に刺されないために移動制限や行動変容を促すことで、感染の広がりを防ぐことができます。しかしサルに対してはできません」と苦笑する。「とはいえ、流行地域を把握し、蚊の駆除を実施するほか、企業や従業員に対して、蚊帳や殺虫剤の使用といった予防知識の啓発や検査の実施を定期的に行っています」と話す。具体的には、他の4種類と異なり、屋外で蚊に刺されて感染することが多いため、屋内での殺虫剤散布に加えて、屋外での散布を始めたほか、森に入る際に肌が露出しないような服装を勧奨するなどしている。

サルマラリアの感染状況などを話すサバ州保健局のロセ・ナニ・ムディン局長=マレーシア・サバ州のコタキナバル、市川亮氏撮影

日本企業開発の検査法が対策の鍵に

サバ州はインドネシア・北カリマンタン州と国境を接しており、人や動物はほぼ自由に行き来できる。このため隣国との連携や協力は不可欠で、定期的に会合を持ち、情報交換などを行っているという。マレーシア側の農園に国境を越えて働きに来るインドネシア人の動向をつかみ、村のボランティアの協力を得て、対策を強化している。また現在、北カリマンタン州と接する東カリマンタン州では、新しい首都「ヌサンタラ」の建設が急ピッチで進んでいる。熱帯雨林のジャングルを切り開いて、新しい街を造るという壮大な計画だ。その結果、国境をまたいだ生態系の変容が起こり、サルマラリアの感染拡大の可能性を指摘する声もある。

アハメドさんは、サルマラリア対策の鍵を握るのが、現在一般的に行われているPCR法よりも簡易な遺伝子検査法の普及だと見る。「町村レベルの診療所で迅速で的確な診断ができるようになれば、治療や予防に大きく弾みがつく」と期待する。

PCR法による検査のデモンストレーションをするカムルディン・アハメド教授=マレーシア・サバ州コタキナバルの国立サバ大学、市川亮氏撮影

その可能性があるとされるのが、日本の栄研化学(本社・東京)が開発したLAMP法だ。広く普及しているPCR法は、熱を加えてDNAやRNAの二本鎖構造をほどき、温度を短時間に何度も変化させることで、病原体の遺伝子の特徴を見つけ出して、その有無を判断している。そのため一般的に、専用の機器や温度の管理、熟練した技術を必要とし、結果を得るまでの時間がかかる。これに対して、LAMP法は一定温度でターゲットとする塩基配列だけを増幅し、病原体の有無を判定するもので、より簡易で迅速な検査法とされる。栄研化学の有田潤史さんらによると、結核検査ではすでにLAMP法がケニアやカメルーンなどで採用されている。世界保健機関(WHO)のガイドラインで推奨されたことが普及の背景にあるという。今後、マラリアの検査法として普及するために、WHOや国連児童基金(UNICEF)など国際機関からの推奨やそれに伴う安定的な予算に基づくマラリア対策の推進が不可欠だ、とする。