エイズ、結核と並んで世界の3大感染症のひとつ、マラリア。その予防の第一は蚊との接触を断つこと。そこで、蚊帳や殺虫剤の散布といった対策が取られてきました。この分野に、日本の花王が全く新たな発想で挑んでいます。その「武器」は、「蚊の脚を引っ張る」というユニークな新技術を応用した蚊よけクリームです。 

新技術で「蚊がとまれない肌」に

蚊は人の肌に降り立つと、まず脚先で体勢を整え、その後に血を吸い始める。花王のパーソナルヘルスケア研究所の仲川喬雄室長(47)らは、肌の表面を蚊が嫌がるようにすれば良いのではないか、と考えた。さらに、タイなどで調査した結果、忌避剤を含む肌用スプレーなどに関して、「小さな子どもにはあまり使いたくない」との声があり、日常的に使ってもらえるスキンケア商品のような形を開発のゴールに定めた。

蚊よけクリームの開発を進める花王のパーソナルヘルスケア研究所の仲川喬雄室長=2023年12月7日、東京都墨田区、中川竜児撮影

当初は、蚊が嫌うにおいをつければ効果があるのではないかと調べたが、うまくいかなかった。そこで「蚊がとまれないようにする」と発想を転換した。仲川さんによれば、蚊の体や脚には高い撥水(はっすい)性があり、水にも浮くし、雨が降っていても飛べる。だが、スキンケア商品にも使われる低粘度のシリコーンオイルに触れると、短時間でオイルが脚にぬれ広がり、液体に引き込まれる力が働く。体重60キロの人間だと、50キロ近い力で引っ張られる計算になるという。「人間なら、ぬかるみや新雪にズボッと足がはまるような感覚」で、蚊は危険を瞬時に察知して、飛び立つことが分かった。

タイで蚊のフィールド調査をする花王の担当者ら=花王提供

製品は2022年6月、タイで販売が始まった。価格は69バーツ(約290円)。塗り心地はボディーローションと同じで、意外なほどサラサラしている。「子どもが喜んでつけてくれる」といった反応が寄せられているという。

花王がタイで売っている蚊よけクリーム

ケニアで効果実証へ スキンケアの習慣が「追い風」

タイでは、東南アジアで脅威となっているデング熱予防を前面に打ち出していた。次はマラリア対策にも使える商品にと、ケニアで実証の準備を始めている。

協力するのは、ケニアを拠点にマラリア対策に携わってきた長崎大学熱帯医学研究所の皆川昇教授(64)=病害動物学=だ。蚊よけクリームについて、「発想が面白い。これまでの感染予防で足りなかった部分を補えるのではないか」と評価する。花王に追い風になるかも知れないのは、現地にスキンケアの習慣があること。保湿用に乳幼児にはココナツオイルを塗り、少し大きくなるとワセリンのようなものも使っているという。

クリームについて、ケニア西部ビタ近郊の村で住民たちに聞くと、好意的だ。イメルダ・アディアンボさん(35)は2カ月前、30代の弟をマラリアで失った。病院にかかったが手遅れで、「妻と幼い2人の子どもがいたのに……」と肩を落とす。自身も昨年8月にマラリアにかかった。頭痛と高熱で身体の震えが止まらず、病院で注射を受け、薬をもらって回復した。蚊帳の中で寝たり、蚊取り線香を使ったりと対策をしているが、3〜18歳の7人の子どもたちもみな、マラリアにかかったことがあるという。「夕食の時間帯には、蚊が家の中を飛んでいる。蚊帳や蚊取り線香では防ぎきれないから、蚊よけのクリームがあったら使いたい」と話した。

皆川教授のもとで長年、研究アシスタントを務めるジョージ・ソニエさん(58)も期待する。「例えば、漁師は夜に仕事に出るから、ハマダラカが活動する時間に蚊帳の中にいられない。夜勤のある警備員もそうだ。夜に外で仕事をするような人々にも役に立つと思う」

価格に課題も

一方、皆川教授は課題は二つある、とみている。一つは、「蚊の脚を引っ張る」という武器が、デング熱を媒介するネッタイシマカやヒトスジシマカだけでなく、マラリアを媒介するハマダラカにも実際に効くかどうかだ。もう一つは、どの程度の価格なら受け入れられるか、ということ。「以前と比べると経済的にずいぶん良くなっているが、熱が出ても、マラリアの診断や治療に連れて行かない、あるいは行けない人もいるのが現実だ」

仲川さんも、そこは認識している。効果を実証できれば、当初は国際的な支援の枠組みを利用した寄付の形がありうる。その後、商品として受け入れられるような展開を描く。

皆川教授によれば、これまでのマラリア対策は、蚊帳の配布や治療体制の整備など「地域予防」が中心。成果をあげてきたが、それだけでは足りないことも分かってきた。一方、虫よけクリームは、「個人予防」にあたる。「その点でも新しい挑戦になるが、大きな期待を持っています」