建築を学ぶ学生だった2003年に初めてウガンダを訪れ、いまも東京と行き来しながら建築家としてウガンダで活動をする小林一行さん。ウガンダでは現地の人と共に、海外の大学への進学を目指すサブサハラ(サハラ砂漠以南の地域)出身の遺児学生のための学生寮(AU dormitory)、日本食料理店と小さな商店を併せ持つ商業施設(Yamasen Japanese Restaurant)、親を亡くした子どものための教育施設(Terakoya)などの建物をつくってきました。その美しく機能的で、遊び心も感じさせる建築物は多くの雑誌で取り上げられるなど、注目されています。 「アフリカ=支援の対象」という印象が強いためか、ウガンダでの活動を「支援や社会貢献」としてみられることに疑問を感じてきたと語る小林さんは、どのようなことを大切にしてウガンダや建築と向き合ってきたのでしょうか。話を伺いました。

ウガンダと日本の設計チーム。中央が小林一行さん=2024年8月、ウガンダ・カンパラのYamasen Japanese Restaurant、Timothy Latim氏撮影

路地や廃虚のような家の美しさにひかれた

――ウガンダで設計に関わることになった経緯を教えてください。

あしなが育英会が2001年、ウガンダ・ナンサナ村にNGO「あしながウガンダ」を設立し、親を亡くした子どもたちのために「あしながウガンダレインボーハウス」という施設をつくりました。当時、日本の大学で建築学科に通う学生だった私は、その施設のインターン1期生として初めて2003年にウガンダに行き、1年を過ごしました。

当時建築学科の授業では、都市部の商業ビルの建設を想定した課題などが扱われていましたが、私には「建築ができることは、そういうことばかりなのだろうか」という疑問がありました。では他に何ができるのかというと、それはわからなかったのですが、モヤモヤをぬぐい切れず、別の世界を見てみようとウガンダに行くことを決めました。

私にとってはさまざまな機会が重なって決めたことでしたが、建築を学ぶ学生の留学先といえば欧米が主流でアフリカに行く人はほとんどいなかったため、大学関係者からは「そんな、見るものも学ぶものもないところに1年も行ってどうするのか」と聞かれることもありました。

同時期にウガンダに行った他3人のインターン生は、エイズや貧困、医療など、当時のウガンダの状況に対し、すぐに力になれそうなテーマを見つけていました。一方私は、ウガンダでは建築家は誰からも必要とされていなさそうなうえに、まだ建築家でもない自分が何をすべきか、できるのか、全くわからないままでした。

――実際にウガンダへ行ってみて、気持ちの変化はあったのでしょうか。

しばらくは日本で学んできたこととウガンダで直面する現実との落差に苦しんでいましたが、ウガンダで暮らしていても、私はやはり建築物とそこで生活する人々の様子が気になるんです。家のつくりはどうなっているのか、なぜ彼らはこんな路地で暮らしているのか、建築をデザインするとはどういうことなのか。そんな考えで頭がいっぱいになりました。

心ひかれる光景にもたくさん出会いました。ウガンダの主な建材は焼きれんがで、一つひとつの形や色は均質でないけれど、それがすごく美しいと思いました。また、貧しく、一見廃虚のような家が並んでいても、路地で料理や縫い物をする女性たちの姿や、停電時にろうそくで生活する様子には魅力あふれるものがありました。それまで見たことのない光景にたくさん出会い、日本に帰ってから自分が一体何に魅了されたのかを消化するのに苦労したほどです。

Yamasen Japanese Restaurantの建設現場。大工が木材を組み合わせていく=2017年12月、ウガンダ・カンパラ市、Timothy Latim氏撮影

一方で、当時のウガンダは「支援の対象」として外国から何かを与えられることに慣れているようにも見え、国内において「自分たちでこういうものをつくるんだ」という声があまり聞こえてこないことにも気づきました。

海外からの支援によって解決されたことや救われた人たちも多くいますが、なかには一方的に支援して終わり、というものも多くあったと思います。特定の団体に一時的な寄付をする、病院や学校などの建物をつくるなど、特定の人、場所における一時的な支援は結果として個別の支援に終始し、面として広がっていかない印象もありました。

限られた資源のなかで、何をどう建てるか

――そうした気づきを、その後のウガンダでの建築事業にどうつなげていったのでしょうか。

ウガンダから帰国し、改めて建築を勉強しようと大学院に進学しました。「建築家なしの建築」(原題:“Architecture Without Architects”)という本に、西アフリカ・マリにある集落の写真が出てきます。その本がきっかけとなって、アフリカの違う地域も見てみたいと思い、大学院生時代にマリに行きました。

現地には建築家やデザイナーがいたわけではなく、地域の人たちが自分たちで建物をデザインして自分たちの住まいをつくり、毎年泥を塗り直して住んでいました。誰かに賃金を払って依頼するという方法ではなく、隣の村や、周辺から材料を集めて、雨が漏れない工夫や知恵を村中で話し合い、みんなで考えながらつくっていく。その中でも自分の家を良く見せたいという見栄や遊びもある。そうしたあり方がおもしろいと感じました。

西アフリカのマリにあるドゴン族の集落。学生時代に長期住み込み調査や家づくりを行った=2008年3月、マリ・バンディアガラのテリ村、小林一行氏撮影

当時、アイルランドで働いていた現在の妻(樫村芙実氏、現テレインアーキテクツ共同代表)がマリに来て、現地の建築について議論を交わしました。マリ特有の建築の特徴、それが日本やヨーロッパの建築とどのように異なるのか。マリとウガンダは違うし、日本やヨーロッパとも違う。どの地域にも異なる文化があり、それぞれの資源があり、制約があります。

もともと建築は無制限で自由にできるものではなく、法律や予算、気候など土地ごとに様々な制約がある中で、そぎ落とせるものは落とし、何を残すのかを試行錯誤しながらつくられてきたものです。また、建築をつくるときには必ずそこで生活する人たちの知恵が必要になります。その知恵が生かされた建築であることが、その後どう維持されて使われるかを考えたときにも重要です。

ウガンダで自分たちが建築を設計する機会を得た時、そうした試行錯誤を現地の人たちの知恵を借りながらやってみたいと思いました。それはわかりやすく誰かの生活を救ったり支えたりするものではないかもしれませんが、私がそれまでたくさん見聞きし食傷気味になっていた「一方的な支援」でもありません。ウガンダで一人の生活者として暮らした自分なりに、できることがあるのではと思いました。

大学院を卒業し、2011年に設計事務所を設立しウガンダの建築に関わるようになりました。「現地の人たちと共に」という思いは初めからあったものの、やはり様々なチャレンジがありました。

ウガンダで初めて建築を担当したプロジェクト(AU dormitory)は現地でどういうことが起こるか想像もできなかったため、東京で多くの図面を作製し意気込んで現場に臨みました。でもいざ工事が始まると、図面通りになど全く進まない。

学生寮AU dormitoryの中庭。サブサハラ・アフリカの優秀な学生が共同生活する=2017年12月、ウガンダ・ワキソ県ナンサナ、Timothy Latim氏撮影

ウガンダでは、まず図面を読める人間が少ない上に、垂直や水平に対する感覚や寸法の精度に対する考え方も違う。私が数日現場を離れて戻ってきた時、数日かけて積まれたれんがの壁に愕然(がくぜん)としたことがありました。壁はがたがたでれんがの積み方もばらばら。寸法も図面と全く合っていない。ただ雑に積まれただけのれんががそこにはありました。数日かけてつくったものを壊すのか相当悩んだ結果、やり直してもらうよう説得しました。

学生寮AU dormitoryの工事現場。焼きれんがを一つずつ積んでいく=2013年6月、ウガンダ・ワキソ県ナンサナ、小林一行氏撮影

これ以外にも予想外のことがたくさん起こり、このままではもう完成しないかも、という状況が何度もありました。でもウガンダの人たちはその状況をむしろおもしろがって、「この方法ならうまくできるんじゃないか」という代替のアイデアをたくさん出してくれました。現地で試行錯誤を重ねるプロセスは大変でしたが、自分たちが東京で机に向かって考えていたことよりも、結果的にずっとよいものが出来たと思っています。

「支援する、支援される」という関係を超えて

当たり前のように聞こえるかもしれませんが、建築家が図面を描き、模型をつくるのは、実際に建築を建てることを前提にしたものです。日本とは制約も環境も違うウガンダで建築をするときには、多くの図面を描いてその図面通りに建築をつくるよりも、最低限こうしたい、こうなれば素晴らしいというメッセージを図面に込めて、あとは現場の人々とともにつくってみようという姿勢でいます。

Terakoyaの工事現場で模型を前に設計の意図を説明する=2019年1月頃、ウガンダ・ワキソ県ナンサナ、Timothy Latim氏撮影

現場で考えてつくるなんて建築家の仕事ではないという人もいます。でも、分業が進んで全体で何が起きているかが見えなくなってしまっては、建てて終わり、となりかねません。そのため私や樫村をはじめ設計チームも現地の職人たちとともに資材の調達に動いたり、パーツを組み立てたりしながら、彼らと議論を重ねて一つひとつ進めています。

Yamasen Japanese Restaurantの正面。地産の木材と茅葺きの屋根。現地の材料と技術を使う=2017年12月、ウガンダ・カンパラ市、Timothy Latim氏撮影

ウガンダでは公共インフラが未整備なため、学校や病院など、海外の基準や技術をもって「支援を目的に」つくられた建物が多くあります。そうした建物は建物を維持する人が現地に不在で、維持するのにも高額な予算が必要となるものも多い。

そうした光景を見ると、やはり現地で、現地の人が考えてつくっていかなければ長期的には意味がないと考えています。どんな立派で強靭(きょうじん)な建物も何もしなければ朽ち、使われなくなっていきます。だからこそ、現地の人たちが自分たちのものとして愛情をもって、手入れをしながら長く大切に使い続けられるような建築を一緒につくりたいと思っています。

ウガンダで建築に関わる中で、「近代化」や「技術の発展」について改めて考えさせられることもあります。

たとえば地元の人たちが培ってきた、焼きれんがづくりやれんがを積んでいく技術。私たちからすると単純ながらとても魅力的なものですが、目まぐるしく発展するテクノロジーと比較をすると後進的な技術だと思う地元の人たちは多くいます。でも、本当にそうでしょうか。そこに住む人たちが以前からその土地にある資源を大切に使い工夫して磨いてきた技術です。

ウガンダで行ったワークショップの様子。人口増加に伴って住居が増え、空き地となった土地にごみが散乱している。小林さんたちは、この土地に「何か」を建築して欲しいとの依頼を受け、設計を進めている=2024年8月、ウガンダ・ワキソ県ナンサナ、Timothy Latim氏撮影

現代の技術との比較ではなく、「そこにすでにある美しさ」を丁寧に伝え、評価し、これからの使い方を提案してみる。私たちは、高度で複雑な新しい技術をただ外国から持ち込むのではなく、現地の人たちが自ら積み重ねてきたものに誇りを持ちながら未来につないでいける、そんな建築をつくれたらと思っています。

――世界で最も貧しい国の一つと言われたウガンダも、この20年で大きく変わったと思います。その変化をどのように見ていますか?

ウガンダをはじめ近年アフリカ諸国は、どんどん経済発展し、人口増加に伴った都市の拡大も著しいです。海外にでていく若者も多い一方で、自国に様々な機会があるとみて帰ってくる人も増えました。気候変動のようなグローバルな課題について語る若い人たちも増えてきた印象です。

ウガンダでおもしろいと思うのは、右肩上がりの単線的な経済発展を目指すのではなく、あふれるごみの問題や未整備のインフラなど国内にある様々な課題を逆手にとって、そこから何かを生み出せないかと考えている人が多いことです。ウガンダにある問題を解決しようと思うと国内にだけ目を向けていても完結しないことが多いため、様々な国や地域にアピールをしてアイデアや協力を得る、というグローバルな視点が大事になってきます。

これまでウガンダでは、留学や出稼ぎなどで国外に出ないと経済的な豊かさを得られないことがほとんどで、国内にとどまる人は置き去りになってしまう構造があったと思います。

今もなお都市部と地方で似た構造は残存しつつも、ウガンダには若者が多い国特有のパワーがあります。若者が中心となって新しいビジネスを立ち上げるなど、自分たちの生活を自分たちで底上げしていくんだという動きも見えます。

情報のグローバル化も大きな後押しです。一方的に何かを与えられる、支援される存在としてのウガンダではなく、何かおもしろいことを一緒に生み出す仲間として、ウガンダの人々や建築にこれからも関われることが、私自身楽しみで仕方ありません。

Terakoyaの開校式の様子。子どもたちが真ん中のステージでダンスを披露した=2020年2月、ウガンダ・ワキソ県ナンサナ、Timothy Latim氏撮影

こばやし・いっこう 

1981年生まれ。建築家。東京藝術大学大学院を修了後、2011年に樫村芙実と共に建築設計事務所TERRAIN architects/テレインアーキテクツを設立。学生時代に東アフリカのウガンダ、西アフリカのマリに長期滞在し調査や制作を行った経験をもとに、現在はウガンダの首都カンパラと東京の2都市を行き来し、東アフリカや日本国内の様々な建築プロジェクトに従事する。ウガンダと日本の建築や美術学生たちとのワークショップも企画、運営する。現在リバプール大学建築学部客員教授、東京都市大学非常勤講師。Yamasen Japanese Restaurantにてグッドデザイン金賞、AU dormitoryにて日本建築学会作品選集新人賞などを受賞。