映画で記録するカンボジア援助史 今こそ問うこれからの国際協力とは
過酷な現代史をたどったカンボジアで、援助に携わった人々の証言を集めた映画が完成しました。1980年代から現地で活動し、この映画を制作した熊岡路矢さんに伺いました。

過酷な現代史をたどったカンボジアで、援助に携わった人々の証言を集めた映画が完成しました。1980年代から現地で活動し、この映画を制作した熊岡路矢さんに伺いました。
紛争、虐殺、貧困、開発に伴う人権侵害や環境破壊。人口約1600万人の「小さな国」カンボジアは、人類史上まれにみる過酷な現代史を歩んできた。その中で人道的な立場からカンボジアを支援し、社会の復興に取り組んできた日本人やカンボジア人の姿を描いた映画「カンボジア現代紛争史とNGOの43年(2024年版)」がこのほど完成し、9月19日に東京・渋谷の「ユーロライブ」で特別上映会が開かれる。制作の中心となった日本映画大学の名誉教授・熊岡路矢さん(77)は、1980年代からカンボジアでの活動を続けてきた、日本のNGOの草分け的存在だ。途上国支援の経験を踏まえ、私たちはグローバルな社会課題にこれからどのように向き合ったらいいのかを聞いた。
――なぜ今、カンボジアの現代史を振り返る映画を制作されたのでしょうか。
この映画は、1980年代以降を中心に、何らかの形でカンボジア国内で支援活動をしていた日本人や、彼らとともに社会の復興に取り組んだカンボジア人に当時を語ってもらう形で、カンボジアの現代史を記録に残したものです。
主に庭野平和財団の助成を受け、クラウドファンディングでも制作費を募ったほか、日本映画大学の1期生でもある三澤拓哉監督とともに何度も現地に足を運んで取材しました。映画に登場する人だけで20人前後、そのほか十数人に改めて話を伺っています。カンボジアやインドシナ半島における紛争、難民問題、NGOの人道支援活動、復興と開発をめぐるさまざまな問題など、時間の経過の中で薄れていく記憶を記録にとどめたいと考えました。
また、もう一つの意図として、ガザ、ウクライナ、ミャンマーなど現代の世界が直面する戦争や紛争と、カンボジアの歩んできた道を重ねて考えることにより、今を生きる私たちが学ぶべきことがあるのではないか、と思いました。
――熊岡さんご自身は、NGO日本国際ボランティアセンター(JVC)の代表として、また、カンボジア支援のNGOや関係者が連携した「カンボジア市民フォーラム」の事務局長としても、長くカンボジアへの支援と復興に携わっていらっしゃいました。その原点はどこにあったのでしょうか。
ベトナム戦争がインドシナを認識した最初だったと思います。1960年代、私は東京外国語大学に在学していましたが、学内にも留学生がいました。その後、私は大学を中退して、自動車整備工として働きました。知的労働、肉体労働、両方ができる人間になりたい、とマルチな生き方を模索したのです。同時に、世界を自分の目で見ようという強い思いがあり、アフリカや欧州を含む各地を旅しました。私の現場主義はそういう思いに根付くものだと思います。
帰国後、1978年にベトナム軍がカンボジアに侵攻したというニュースを見て、社会主義国が他国を侵略するということに衝撃を受けました。そのころは社会主義を「良いもの」と思っていたからですね。1979年には旧ソ連のアフガニスタン侵攻もありました。私の中にイデオロギーというものへの懐疑心が生まれ、「個々の人間を見ていこう」という人道主義的な考え方を重視するようになりました。それで私の活動は、ごく普通の、市井の人々が生活をする現場をベースとするようになったのです。
――その長い現場でのご経験から、1980年代と今では、グローバルな社会課題への向き合い方はどのように変化しているとお考えになりますか。
1980年代は、援助活動を応援している人たちの多くが、何らかの形で日本の戦争を体験していました。私自身も、祖父を戦地で亡くし、母は横浜大空襲で家族も家も失うなど、戦争が人々に何をもたらすかを身近に感じてきました。そういう意味では活動を支える方々の考え方の背景が今とは違っていたかもしれません。
また、今は日本の「中」に国際問題がより色濃く存在しています。例えば、たくさんの外国人が日本社会の中にいます。彼らが抱えるのは、難民不認定の問題だったり、貧困問題だったりいろいろありますが、在日外国人を支える活動をする人たちからは、「支援の必要性が無限に広がり追いつかない。それが苦しい」とよく聞きます。外国人を包含した日本社会の多様性というものが、現状としても将来像としても、まだ多くの日本人に受け入れられていないということかもしれません。
現代は、グローバルな社会課題といっても、実は遠い国にあるのではなく、ごく身近な社会にあるということも言えます。私はずっと「現場」を大事にしていますが、現代日本の若者たちには、日本もまた国際問題の現場であり、そこから支援を始めることができると伝えたいです。
――他者への支援をするときには、相手への理解や共感が必要だといわれることがあります。しかし、自分とは違う立場の人を理解することはなかなか難しいことでもあります。熊岡さんは、どのように理解、共感してきたのでしょうか。
これまでの経験から、私が強く感じてきたのは「援助の不可能性」です。支援活動をしてきた者として矛盾するようでもありますが、援助を否定するという意味ではなく、どこまでいっても立場の違う相手を完全に理解したと思ってはいけない、ということです。私はカンボジアをはじめ、困難に直面する人々と一緒に活動してきましたが、それでも彼らの厳しい状況や気持ちを完全には理解できなかったと思っています。もちろん、分かろうとして向き合う努力は重要です。ただ、自分は「よそ者」であり、理解や支援には限界があるということを自覚することが大切だと思っています。
ではそんな「よそ者」が、課題の現場で活動をする意味とは何でしょうか。私は、自分たちの存在は「窓」であると思っています。支援を必要とする孤立した人々にとっての「窓」となり、外から内への、そして内から外への風を吹かせることが役割です。よそ者だからこそできることです。
現場で活動していると、「置き去りにされた我々のところへよく来てくれた」と言われることがあります。私たちの存在は、困難に直面する彼らにとって「外の世界で自分たちは忘れられていない」というメッセージになります。これが「外から内」への風。一方で、彼らは私たちの活動を通して、外の世界に向けて自分たちに何が起きているのかを伝えることができます。外の世界にいる私たちは、この「内から外」への風をしっかりと受け止める心を持たなくてはなりません。双方向の風で内と外をつなぎ、そこから生まれるものに意味があると思っています。
――日本政府の途上国援助(ODA)など国際協力の基本方針となる「開発協力大綱」が2023年に改定されました。また、ロシアによるウクライナ侵攻や中国の海洋進出など、日本の安全保障が外交の主要課題の一つにもなっています。気候変動やグローバルヘルス、国際秩序を揺るがす紛争や人道危機などが複合的に、かつ地球規模で人々に影響を及ぼす時代の中で、日本はどのようなスタンスで国際協力に向き合うべきだとお考えでしょうか。
2000年代初め、元国連難民高等弁務官の緒方貞子さんとノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センさんが共同議長を務めた国連の「人間の安全保障委員会」で、「人間の安全保障」という考え方が定義されました。それを見た時に、戦争の世紀は終わって欲しいと願ったのですが、残念ながら同時期に起きた「9・11世界同時多発テロ」をはじめ、武力による紛争や戦争は終わることなく続いています。
冷戦が終わった1990年代には、国際協力のパートナーとして本気でNGO活動を支援する機運が政府の中にも生まれていたと感じましたが、世界が軍事衝突を含む複合的な混乱の時代となったことで、日本はアメリカの傘の下、ますます独自の外交路線を確立することができなくなっていると思います。
見方を変えれば、文化を中心にソフトパワーをさらに見直すいい機会になると感じます。
ソフトパワーで生き延びることの非現実性が指摘されることもありますが、軍事競争は無限で最終的には核武装をふくむ軍事の最大化になります。私はその方が現在の日本にとって非現実的だと思います。日本は人口減少と経済力の低下により、国際社会でのプレゼンスが下がりつつあると言われますが、私は可能性を感じます。一つは、日本人の意識が、「『ジャパン・アズ・ナンバーワン(1979年に出版された社会学者エズラ・ボーゲル氏による著書)』なんてとんでもない」「米国の傘の下で言いなりになって背伸びをしようとせず、実力に見合った適正な規模で存在感を示せばいい」という考え方に変化するのではないかということ。
そしてもう一つは、日本本来の価値観を見直し、何をもって世界と向き合うかを考え直す機会になるということです。私は、日本は対立や征服ではなく、「和」の文化がある国だと思っています。武の歴史もありましたが、日本人がよりどころとする価値観は「和」であり、その精神に基づいたプレゼンスを示していくことが、日本にふさわしいあり方だと思っています。
「カンボジア現代紛争史とNGOの43年」の特別公開上映会(公益財団法人・庭野平和財団主催、日本映画大学協力)は、9月19日(木)午後1時からと午後6時からの2回、行われる。午後1時からの午後の部には、三澤監督のあいさつや、熊岡さんの司会で、在日カンボジア人、NGO関係者、カンボジア研究者らによる座談会がある。入場無料。参加申し込みはこちら(午後の部、夜の部)から。